第12話 過去


    

「今日も助かったよ、相沢さん。疲れてるみたいだし、しっかり休んでね」

「ありがとうございます」


 とある女性が、店長らしき格好をした中年の男性と会話し店を出る。


「颯真は……何してるかなぁ」


 彼女ーー相沢飛鳥は自身の弟とのチャット画面をスマホで開いていた。街を歩きながら、電灯や車のヘッドライト、道に並ぶ未だ賑やかな店舗達の明かりに照らされる。


 けれど多少画面に反射する光の色が淡く美しくなる程度で、彼女はスマホに目線を囚われたまま灯の様子など気にせずに歩いていた。


 目立たないようにメイクで誤魔化しているクマもそうだが、彼女の足取りは少しふらついている。立ち寄ったコンビニで買ったエナドリをレジ袋から取り出し、ぐっ、と飲み干した。彼女は落ちかける瞼を寸前の中で耐えながら最寄り駅まで向かう。


「ふふっ、今日も頑張れた」


 弟の健気なメッセージを見て、飛鳥は自然と笑みが溢れる。

 

 その慈しみの顔は誰がどう見ても、誰かを大切に思っている顔であった。愛する家族の元へ帰る為、彼女は今日も少し駆け足で駅へと走る。




||



 俺はようやく帰宅した玄関先で、倒れ込むように壁にもたれ掛かった。酸素の薄い、息の詰まるような部屋の中、体にのしかかるのは酷い絶望感と孤独感だ。


 ーー戻って来てしまった。


 不意にそう思う。


 危険に満ちた異空内が好きだった訳ではないが、このコンクリートの硬くひんやりとした感触に触れるのすら久しいように感てしまう。


 その程度には、あの異空内に心を置いてきてしまったのだろう。


 ーー俺を愛してくれる人がいない、この地上に。


 いや、そもそも同じか。

 異空にだってもういないのに。


 だって初めて出会った、俺を「愛してる」と言ってくれた彼女ーーナナを失ってしまったんだから。


 孤独に忘れ去られるのが怖くて、愛してくれる人を望んだ。けれど、ナナは異空内に飲み込まれた。絶対に探し出すーーけど、現状はまた逆戻りだ。


 誰も俺を愛してくれてなどいない。



 結論づけながらも、また疑問がふと頭に浮かぶ。



 ーーそもそも、愛の定義とは何なのだろうか?


 そんな事すら曖昧な癖に、俺は愛が欲しい。

 分からない。だって俺は愛を親に教えてもらわなかった。でもそれ故に欲しがっている。


 愛の定義……。


 多分、それは二つある。

 恋愛から来る愛と、家族に向ける家族愛。


 これらは間違いなく愛情だろう。俺が死ねば、悲しんでくれると思う。普通の人は、最低でも家族から愛情を向けられるのだろう。でも俺は親からは家族愛を与えられなかった。


 ーー姉さんは俺に家族愛を向けてくれているのだろうか。


 確定的な事は分からなけど、俺を引き取った時の彼女の申し訳なさそうな表情。


 それは多分あの家に俺を取り残した罪悪感だと思う。俺を引き取る時、残していってごめんなさい、と狂ったように泣いて謝っていた。


 俺を世話してくれているのは、きっと愛情からではなく罪悪感からだ。それくらい幼い子供の自分でも、何となく察していた。




 ーー愛情が欲しい。


 

 俺が一番強いと思った愛情は、恋情だった。けれど俺を恋愛的な意味で愛してくれている人はいない。

 

 ナナは多分、一筋の光だったが今は誰もいない。


 


 ーーそういえば、友愛というものもあった。


 でも友愛では満足できないのだ。俺が死んだ時、悲しんでくれるのだろうか。分からない。家族や恋人ほどではない気がする。曖昧だ。だから、俺はそれを選ばない。


 

 そうなのだ。



 俺が誰か一方的に愛すことはあれど。

 俺が誰かから愛されることはない。

 



||



 激戦の後、俺たちは直ぐに異空から戻った。


 アンナはリリィと同じで俺とナナの会話に割り込まず、静かに泣きながら彼女の死を看取った。


 アンナに初級ポーションを飲ませると、大抵の傷は癒えてくれた。使徒は人間よりもポーションの効きが悪いそうなので、心配していたのだが杞憂だったらしい。飲み終わった彼女を見て大丈夫だろうと判断した。



 それから二人を聖遺書に戻して休んでもらう事にした。





 ……結果として、今回の探索はかなりの赤字に終わった。


 中級回復薬一つ八万円、初級回復薬一つ二万円。

 白狐の聖遺書は大きな利益だが、売るつもりは当然ない。


 そう考えると、雪男の魔石十二個、角兎の魔石一個、角兎のツノ一つ、での計二二一〇〇円は相当なロストだろう。



 一刻でも早く稼ぎを得たい俺としては歯痒い気持ちである。




 ナナも失った。


 そもそもリリィの助けが無ければ十中八九お陀仏だった。少なくとも軽傷で帰れる可能性は低かっただろう。



 この際イレギュラーに遭遇してしまった運の悪さは仕方がない。



 脱出経路も把握していて、指示も間違いは無かった……と思う。

 けど白狐の素早さが厄介だった。


 後悔が襲う。

 もっと上手くやれたのではないか、ナナを救えたのではないか。


 そんな考えがグルグルと身体の内側を廻る。



 いつの間にか滲んでいた視界を拭い、それから漏れ出てしまった嗚咽を抑えた。


 しばらくそうしていたが、疲れ果てると共に俺はベッドに倒れ込む。


「眠い……」


 どうしようもない後悔に脳が疲れたのか、瞼が重くなってきた。


 時刻は十時。

 同居している姉はまだ帰って来ないようだ。



 勝手に借り出したナナを失ってしまった事で、いつかは絶対にバレる事は確定している。それでも自分から打ち明けるのが怖いのは、俺の臆病さが原因だろう。

 



 俺は十二の時に、腐り切った家から五つ年上の姉に引き取られた。その為、現在は二人暮らしだ。


 学費を負担してくれている姉は、毎日のように金を稼ぎに仕事に出かけている。


 姉さんにこれ以上の迷惑はかけられない。

 そんな想いが日々自分の中で積もり続けている。


 姉の相沢飛鳥(アイザワアスカ)は一年前、親との不仲が原因で家を飛び出した。

 何処となくクソみたいな家庭に嫌気が刺したのだろう。



 けれど姉が出て行った事に対しても、親は使役師として稼いでいた姉が家に金を入れて貰えなくなる事を心配していたようだったけど。むしろ好きでも無い子供の養育費を出さなくて良くなった、とほざくほどである。


 

 何の問題もない親元で過ごした人には到底信じられないだろう。今でも誰かに話したって信じてもらえるとは思ってない。自分の方が酷い家庭にいた、と主張する人もいるだろう。


 けれどこの家庭が俺にとっての現実だった。



 嫌な記憶だ。



 姉がいなくなってから一番被害を被ったのは、俺だった。



 俺の上には一つ上の兄がいて、彼は親からの愛情を一身に受けて育っていた。



 俺は違った。


 生まれた時から愛着なんて湧かなかった、と母や父に言われた時の事が今でも頭から離れない。


 昔は心のどこかで嘘だ、そんな筈ないと思っていたがどうやらそういう親もいるらしい。


 罵倒、贔屓、暴力。


 愛されている子供がされない事を経験して来た。


 罵倒は本心で。

 贔屓は純粋な愛情の優劣で。

 暴力は親のストレスの捌け口で。


 子供の頃は純粋だった。


 父に殴られた後も、うんざりした顔で「あれは教育の為だ」と言われれば、無理に自分を納得させる事が出来た。俺が悪い。彼に責任はない。だから、耐えないと。……耐えないと。



 でも中学になった辺りから、その言葉は酷くなった。

 


 お前なんて産みたくなかった。

 お前に期待はしていない。

 金を使わせるな。


 

 日常会話ですら、心を抉られる言葉の数々だった。幼い俺にはあまりにも重くのしかかった。否定され続けた。



 ……どこで嫌われてしまったのだろう。

 俺はどこで失敗したのだろう。



 機嫌が悪い時は殴られ、蹴られ、叩かれた。昔は暴力に参加することのなかった母も、姉がいなくなった辺りからすっかり無抵抗になった俺を殴ったり、蹴ったりするようになった。その時言われる罵倒は聞かないふりをした。聞いてしまえば耐えられなくなるから。



 裕福な家庭に生まれて、英才教育を受けて、高い学校に通わせてもらって。

 結果を残して。親に褒めて貰いたい気持ちを隠して。


 どんな事をしても。

 どんなに頑張っても。


 まるで他人事のように、興味がないように。

 愛着のない子供の褒めて貰いたい言動なんて、五月蝿い雑音にしか過ぎないのだと知った。


 どうしてこうなったのだろう。


 俺は何の為に生まれた?


 トラブルメイカーの兄の濡らしてくる衣を着るためか? その為だけに生かされている?



 ……分かっている。本当は俺がダメだったんだろう。俺がもっと可愛げがあって、マトモな子だったら。そうしたら、ちゃんと愛せてもらえたのに。



 地獄が終わったのは、姉が迎えに来てくれたからだろう。

 姉は、遅くなってごめんと、痣だらけの自分を見て泣きながら謝っていた。






 俺は子供の頃から姉を誰よりも尊敬していた。

 聞けば姉も、兄が生まれる前はそれなりに大切に扱われていたらしい。



 だが、四年経って兄が、男児が生まれてから姉の環境は変わったのだと言う。



 姉を差し置いた、明らかな兄への贔屓。


 撫でられる事も

 褒められる事も

 気にかけてくれる事も

 笑いかけてくれる事も


 全部無くなったそうだ。


 両親が血走った目で兄という完璧な作品を作るのに没頭し始めた日から、彼女は一人になった。

 

 それでも十分な環境は与えて貰っていたそうだ。

 文句を言えるはずがない。


 ある程度育つまで放置していたそうだが、中学に入ったあたりから両親も彼女の事を視界に捉え始めたらしい。優秀だし嫁がせるだとか、良いところに就職させて働かせるだとか、そう言う事を常々話し合っていたらしい。



 姉さんはまだ子供で色んな夢を持っていた。

 だからこそ縛られるのが、何よりも嫌だったそうだ。



 俺自身の姉の印象は、とても優しい人、だった。



 甘える相手はいつも姉で、それなりに気が合っていたのだと思う。


 お小遣いを貰えなかった俺に、いつも少しばかりのお金を内密に渡してくれていた。そのお金で、今まで断るしかなかった友人との遊びに行けた。

 

 子供ながら、単純にも姉に一生着いていくと約束した物だ。



 俺への暴言も、度々姉が仲裁に入ってくれていた。

 俺の家庭内の状況を、姉は誰よりも理解してくれていた。



 だけれども、姉が本気で使役師になりたいと言ってから、全てが変わり出したと思う。



 親にいつも従順で大人かった姉が、親と激しい言い争いを何度も繰り返した。



 そしてある日、姉が一人暮らしをすると衝動的に言って家を飛び出した。



 その後帰ってくる事はなく、姉のいなくなった俺は初めて暴力を振るわれ始めた。



 所々青痣が出来た。これまでは知らなかったが、青痣は曲げたり動かす度にずきりと痛んで、見た目も傷口を中心に醜い茶色の傷跡を中心に、緑のような青のような色で腫れて目立つ跡が出来る。


 長袖長ズボンで人に見られないよう隠しながら過ごす日常にも慣れ始めた時。



 一年間と少しの空白の後、姉が姿を見せた。



 想像以上の俺の現状に、久しぶりに話した彼女は、最後に見た彼女と変わらない様子で無鉄砲にも俺を引き取ると言って見せた。


 俺は案外、あっさりと引きとられた。


 姉は働き詰めになり家に帰る時間が遅くなってしまったが、それでも姉との暮らしは幸せそのものだった。



 別に自分が世界で一番不幸だなんて思わないけど。

 それなりに苦しんで泣いたりした。


 そこから救ってくれた姉は、当時は良く自覚してなかったけど、振り返って見ると彼女は間違いなく恩人だ。




 姉にはずっと、感謝の気持ちばかりだ。



 家族というものが本来どういうものなのか、彼女のお陰で今なら理解できる。



 使役師への強い憧れと興味を抱き始めたのも、彼女がきっかけだった。



「ただいま〜。あ、颯真。ケーキ食べた?」



 姉さんがスーツ姿で帰ってくる。

 彼女は俺が使役師になった事を知らない。

 十五歳の誕生日に、死にかけた事も知らない。



 いつか。

 姉に返しきれないほどの恩を返し、罪を償えるような人間になる日が来るのだろうか。



「お帰り、姉さん」



 俺は使役師の証である金色の鉄鎖を背後に隠しながら、愛おしそうに微笑み、そう答えた。

 

 

 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る