第5話 異空へ


 五月二十五日。土曜日。




「寒ぅ」


 俺たちは雪原の雪地を一歩ずつ、ズポズポと足音を立てながら歩いていた。一歩一歩踏み進めるごとに踏み締めている雪の冷たさが伝わる。



 第七異空と呼ばれるこの異空は、あまり人気がない。


 なので他の使役師と出会うことは稀なのだが、裏を返せばこの極寒の中でふとした拍子に気を失っても助けは来ないという危険がある。



「気温、零度は下回ってるよな……?」



 パラパラと降る雪に、せめてブーツくらいは履いてくれば良かったと後悔しても遅い。既に全身が冷え切った後だ。


 完全に服装の選択を間違えたと言わんばかりの長袖とインナーの二枚。その上に羽織ったコートも防寒性能は薄い。パラパラと雪を掻き分ける中で圧倒的に心許ない状況の元、体力は奪われ続けている。


 顔は多分真っ赤に腫れているように赤くなっているだろう。



「だね……」



 横を歩く存在から返事を貰いながら、俺は寒さに耐えながら足を進める。



 雪を薄く積もらせた鼻先が痛む。その上、鼻を拭う手もまた冷たいのだ。


 薄い手袋が弾く冷気は微々たるもので、手の感覚が薄れつつあるのを俺は自覚する。現在のコンディションは最悪と言って良かった。


 念の為と最初は構えながら歩いていた剣も寒さには勝てず、鞘に納めて両手はポケットの中に入れて温めている。


 寒さを我慢し、チラッと腕に巻いた電子時計を見る。午後四時半。酷い時間帯だ、と我ながら思う。決して余裕のある時間帯ではない。夜になればより一層冷え込んでしまうからだ。



「随分と運が悪いですね、マスター。相当特殊なフィールドですけど、この異空、しっかり情報を集めてから来たんですよね?」

「……いやぁ、ははは、確認不足だったなぁ」


 雪に足跡を付けているのは、軽装の俺と少し後方で隣を進むナイフを持ち合わせた少女だ。

 

 彼女は百七十近い身長とは裏腹に顔はクール系ではなく、十代後半そこらの可愛い女子の外見で、肩に積もった雪をパパッと振り落としていた。


 容姿を一言で言うなら可憐と評せる彼女はダウンジャケットを纏っている。髪は紫色のメッシュが入った黒髪だ。


「マスター、ちゃんとしなよー」

「うーん、申し訳ない……」


 続いて話しかけてきたのは、先ほど返事を返した赤髪の美少女である。ボサボサの汚れた袖の先には左腕がない。


 二人とも容姿は人間となんら変わらなさそうに見えるが、よくよく見れば黒髪の少女には髪に隠れて頭の横に小さなツノが二本生えているし、背中には小さな蝙蝠の翼がある。


 赤髪の少女に関しては片目を隠している髪をどかせば、顔を塗ったような後と茶色に変色した肌、青色の瞳が顕(あらわ)になる。


 そう。彼女らは人間ではない……紫色(ししょく)の混じった黒髪の少女の方は悪魔(デビル)であり、赤髪の少女は死者(ゾンビ)だ。


「異様な寒さですね。大した量の雪ではないですが、これが吹雪だったら危険でした」


 まあこのくらい我慢すれば何とかなるだろうか。

 というか、俺は異空(ここ)に来てからずっと気になっている事があった。


 言いづらかったので言及していなかったのだが、流石に確認しておかないと不味いのは分かっていた。



 俺は少しばかり沈黙し、悩んでから意を決して口を開いた。



「なあ、ゾンビ……」

「なーに? あ、そうだマスター。そのゾンビっていうの、やめない? 可愛くないもん……あ、ゾンビちゃんとかが良いな!」


 しかし彼女の言葉に遮られる。


 随分と気軽に言う上、距離感が近い。


 気を許してくれているのか、元々そういう性格なのか。見る限り後者のように見えるが、真偽は分からなかった。


「ゾンビちゃんは違和感があるんだが」

「確かに変かも……。なら、私の種族じゃなくて何か別の名前で呼んでよ!何か思いつかない? 出来ればデビルの分も!」

「私もですか!?」


 唐突に巻き込まれたデビルは、驚いた声を出す。


「え……パッ、とは思いつかないな」


 いきなりそう言われ、俺は女の子の名前を色々と思い浮かべる。

 そう良いのは思いつかないのだが……とりあえず、提案してみるか。


「ナナとかはどうだ? デビルは……リリィとか」

「んー、人間っぽい名前だね……でも良いかも! 採用」

「……私も構いませんよ」


 犬猫などのペットを飼った経験がない為、人間の名前しか付けられないのである。

 俺は二人が俺のネーミングセンスに突っ込まなかった事に安堵し、ほっとため息をついた。


「じゃ、これからはナナって呼んでね!」

 

 軽いノリで呼び名が決まってしまったが、まあ納得してくれたならいいか。

 ……というか、こんな事を話したかった訳じゃない。


「で、話を戻すけどさ。ナナは何ていうかその……変わっているというか……凄く特別な使徒だろ? 最初から感情豊かだったし………何で自分がそうなのか分かるか?」

「う〜ん……多分普通のゾンビよりも人間らしさが強いせいかな? 多分前のマスター相手でもこんな感じだったと思う!」


 ふんわりとした雰囲気でそう断言する彼女に、俺は何を言い返せば良いのか分からなくなる。


「えぇ……? いや、そっか、分かった。ちょっと気になっただけだ」


 異空にはイレギュラーが付きものだ。


 いつもの難易度の異空に潜った使役師が、イレギュラーのせいで異空の難易度が上がってしまい、油断してたが故にそのまま帰らぬ人となった。……なんて事件は少なからずあり、確かに実在する話である。


 ナナもイレギュラーの類であれば、強力な使徒に化けたりする可能性もあると考えたがーー本人はよく分かっていないようだ。


 実に何ともいえない。


「むしろ、マスターこそ変だよ!」

「え?」

「だって他のマスターは、私がこんな態度を取っちゃった時点で止めるもん!」


 俺が目を点にすると、リリィがナナの言葉を補足する。


「……ええ。確かに。……我々の関係は支配者と配下な筈です。鎖で繋がれてない使徒なんて、穢者と何も違いません」

「え!わたし危なくないよ?」


 ナナの訴えるような抗議に、リリィは優しい目で答える。 


「はい、分かっています。あなたが危ないと言いたい訳ではありません。ただ、そう見られてもおかしくなかった筈……というだけです。偶々このマスターが変な人だったので、あれこれ言われませんでしたが」

「え! 俺変じゃないよ?」


 ひどい言われように、思わず裏声でナナを真似し、ふざけてみたのだが真顔で返された。


「は?」


 冷たくそう返されて、俺は落ち込んだ。


「……どしたの?」

「何でもないです」


 ナナの時と対応が違うよね?

 俺、嫌われてる?


 そんな風に思っていると、ナナは切り替えたように俺に笑顔を向けた。

 

「んー、でもマスターは良いマスターだよ! 本当はあの時、また自分が気味が悪いって嫌がられるのは怖かったし、怒鳴られたらどうしようって不安だった。でも私、今の縛られてない自分が好きだもん」

「……」


 随分な褒めように、全くそんな気はなかった俺は照れくさくなる。


「前のマスターの記憶は無いけど、多分私誰にも認めてもらえなかった。私、また鎖に縛られるのは嫌だった。私って変なんだ。でも、人間っぽくいたいの。

 だからさ! マスターが怒らなくて安心したし、凄く嬉しかったんだよ! マスターは私の特別なんだよ!」

「……うっ」

 

 ベタ褒めされて、顔が赤くなる。

 思わず照れてしまったせいだろう。


 そのまま、俺はナナと目が交差した。

 

 やはり可愛らしい容姿をしている。それに無邪気で真っ直ぐだ。吸い込まれそうな魅力を引き出す彼女に、心が何処までも引き込まれそうになる。


「マスター、もしかしてわたしに見惚れちゃった?」

「えっ!?」

「あはは……ごめん、冗談だよ」


 頬は未だ赤い。でもさっきとは違った感情が胸の中で渦を巻く。

 どう反応して良いか分からず、挙動不審になっていると、不意にナナが言った。


「あのさ、マスターの目って綺麗だよね」


 突然そう言って、ナナは俺に向かって両腕を伸ばして優しく頬に触れる。

 俺の琥珀の瞳を覗き込むように、顔を近づける彼女に心臓が飛び出そうになった。


「!」


 左腕に関しては肘近くから先がない。それ故、垂れ下がった白衣の裾だけが伸ばされた。けれど右手はしっかりと俺の左頬を優しく捉えて。


 好意的な感情が冷たい手の感触を通して伝わる。


 俺に近寄る彼女の可憐な顔と、俺の肩にかかる彼女の前髪の感触に心音が煩くなる。使徒でしかない筈の彼女が途端に人間の異性のように見えてくる。


「……照れてくれるんだ」

「え、あ、その」


 言葉に詰まる。

 訳が分からないが、ただどうしてか心が張り裂けそうなほど痛む。


「ね、マスターの身体には体温があるんだよね?」

「え、……あ」


 状況を飲み込めないまま、ナナは俺の背中に左腕を回す。


 抱きしめる為に俺を引き寄せたナナの顔が目に写る。慈愛に満ちたその顔に邪気はない。笑顔でほんのり照れくさそうに頬を赤く染めた、とても人間的な顔だった。


「良いなぁ……」


 彼女が呟きながら、俺に触れていたその右手が、ゆっくりと頬を撫でる。

 その冷たくも柔らかい感触が、心臓にまで届きそうなくらい突き刺さった。


 とくっ、と血が流れる音が聞こえて。

 その甘さに溺れたら、戻れない気がした。


ーー違う。俺を受け入れてくれる人なんて、いるはずない。


 何か嫌悪的な感情が、俺の心の中を渦のようにぐるぐると暴れ回る。


「ッーー!」

「あっ」


 俺は気づいたら彼女の肩を突き飛ばして、数歩後退していた。


「ご、ごめ……!」


 自分で思ったより強い力で押してしまったのを自覚するが、使徒である彼女はびくともせず、不思議そうな顔で立ったままだ。


「……マスターって可愛いね」


 リリィと目が合うと、彼女は俺の歪んだ表情に呆気に取られていたが、ナナは気にした様子もなく再び歩み寄って、俺の頭を抱きしめた。


「え、かわっ……?」


 可愛い、だなんて初めて言われる言葉に頬が熱を帯びる。

 変だとは分かりながらも、身体が制御出来ない。

 


 両親にすら言って貰えなかった言葉が、どうしてか酷く胸を打った。



 彼女に引っ張られ、俺の頭は彼女の胸元へくっつく。


「ーー逃げないで」


 そう小さく呟いたナナに、俺は抵抗をやめた。


「マスターって不思議だよね。他のマスターなら、自分が嫌だからって顔じゃなくて、私が嫌だって顔をするよ?」


 その問いに俺は言葉を返せない。


「マスターは、本当に特別な人だよ。………ね、わたしのマスターになってくれて、ありがと」


 彼女の胸に額をくっつけながら、俺は頭を撫でられるのをただ、無抵抗に受け入れる。


 最初は凄く怖くて仕方がなかったのに。

 俺が硬く目を閉じていると、彼女は俺の頭を撫で始めた。


 体温は酷く冷たい筈なのに、暖かい。

 

 ーー初めてだ。


 苦しい事がある度、俺は誰かの胸の中で泣きたいと思っていた。でもそんな恋人も親もいなくてずっと、遠い夢だった。


 毎日、涙を我慢してきた。


 きっとその時が来たら、俺は貯めていた涙を全部吐き出してスッキリして幸せになれるのだと思っていた。


 目尻を指先で確認するように触った。

 酷く乾いていた。涙は一滴も出ていない。


 胸に縋るように、俺はナナの腰に手を回して人肌を感じようとした。


 初めて鮮明に感じる人肌は柔らかくてーー酷く冷たかった。


 彼女の胸に耳を近づけても。

 ……心音は聞こえない。


「悪い……ありがとう」

「え?」

「……俺も、俺の使徒になってくれたのが、二人で良かったよ」


 彼女に感謝を告げた。


「うん」


 表情は見えない筈なのに、優しいその声色からナナは微笑んでいるような気がした。


 そこで俺は彼女に抱きしめられたまま、改めて自分の状況を客観視する。

 肉付きの良い胸部の、柔らかな感触が俺の頭の上から感じられた。


 女性らしさが強調されたその部位の感触を、今更ながら実感して頬が赤みを帯びる。


「ところで、その、そろそろ離してくれないか?」

「……? 何で?」

「いや、何でも良いから……」


 相手はただの使徒である筈なのに、この状況が落ち着かず俺は無理やり離れた。ナナは不審に思ったのか、俺の顔を覗き込む。


 俺はりんご色の自分の頬を見られたくなくて、片手で不器用に頬を隠そうとするのだが、そんな俺の様子に、顔を覗き込んでいたナナまでもが何故か頬をぽっと紅く染める。


 彼女が近くにいるのが落ち着かずに、俺はちょっとずつ距離を取るように後退する。


 そんな俺たちを、ポカンとした顔でリリィは固まって見ていた。


「えっと……?」

 

 少し呆れているようにも見える。でもそれ以上に、支離滅裂な会話に疑問符を浮かべているようだった。



 当然だ。俺の心を弄(まさぐ)っていたのはナナだけだった。

 踏み入って、この心に触れて見抜いてくれたのは彼女だけだったのだから。



 だからこそ俺は照れながら誤魔化すことしかできない。


 コホン、と一旦心を落ち付かせ、改めてリリィに向かって俺は言いたい事を口にした。


「す、少なくとも。リリィ、俺は本当に君が仲間で良かったと思ってるよ。冷静だし、何より俺たちの中で一番客観的だ。……一緒に頑張ろう」

「……え、あ、……そ、そこまでいうなら。頑張ります、マスター」


 彼女の不満気だった顔は一気に崩れ、顔を少し赤らめて照れくさそうにそっぽを向きながら言葉だけ渋々了承したという体を装っている。


 そんな彼女の様子に俺とナナは顔を見合わせ、ほっこりとした。


「リリィがチョロくて良かった……」

「そうだね!」

「聞こえてますよ!?」


 

 二人とも、純粋に可愛らしいと思う。


 穢者相手なのに。これが、どういう意味での感情なのかさえ断言できないまま、俺は云う。



「うん、よろしく頼むよ。リリィ、ナナ」



 何故だろうか。

 俺が思ってた使徒という穢者の在り方と、だいぶ違っているのに。




 今が人生で一番楽しめてる気がした。



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