第一章 新しく

第4話 かつての記憶と今



 とある短日の陽が落ち始めた時刻。


 冷えた風が辺りに吹き荒れる。と同時にサァッと枝を揺らす、落葉樹(らくようじゅ)の下。


 そこから見える地まで落ちた夕陽。それが曇天に覆い隠される。薄暗い緋色に輝いた雲達が、茜空の中で天に流れれている。それらが光を断絶し、地上に影を作る様は何とも美しい。


 息を呑むようなその光景を、しかし目元を腫らして俯く子供は見逃していた。

 

 彼は黒を基調としたランドセルを、だらんとぶら下げた手に引っ掛けている。しかし持つ気力すら無いせいか、コンクリートの地面が代わりにその重さを預かっていた。



 そんなどこか既視感のある空虚な光景に、『俺』は手を伸ばして見ようとするも、体が全く反応しない。



 代わりに場面が切り替わって、彼の俯いた顔が映った。

 


 真っ赤に腫らした眼と、ここまで逃げてくる為に切らした白い息。双眸(そうぼう)に宿る瞳の、その栗色の虹彩(こうさい)は琥珀のように美しい。なのに、それはどこまでも哀に満ちていた。


 その顔は幼い頃の自分にそっくりで、見た瞬間、理解する。


ーーああ、俺は昔の夢を見ているのか



 朧げに脳裏に揺蕩(たゆた)う既視感のある風景。それを見ながら、幼き日の自分と心が同化したままに俺は考える。



ーー何故(なにゆえ)、俺は生きているのだろうか。



 当時の自分は、もっと幼くまとまらない思考で考えていた筈だ。神(スピネル)の福音なんて知らなかった。


 けど今の俺はあの日の言い表せない気分を、彼女の言葉を借りてそう言語化する。



 悲しみの波に息を呑まれる。幼い自分は泣き疲れたからか、汗を垂らしながら目的地へと再びふらついた足取りで歩いている。



 子供の自分が歩く姿を、俺はどこか感傷的に見ながら当時の己の半生を思い返した。




 想定外にも母の胎の中に生まれた俺の生命は。誕生の瞬間、祝福に包まれてはいなかった。


 母にも父にも愛されず、ただ孤独に育ってきた。それでも自分に飯と宿を与え、学校に通わせてくれたのは両親だった。


 だから俺は両親に愛されてなくとも、彼らに縋りついていたし、愛して欲しかった。



 この夢が映す日の事は今でも思い出せる。



 その日は……テストで良い点が取れたことを報告しに行ったのだ。



 もしかしたら兄のように抱きしめてもらえるかもしれない、と淡い期待を抱きながら。俺はニヤつく頬を抑えて、嬉々として母親に答案用紙を見せた。


 冷たくあしらわれただけだった。

 


 兄(りょうま)は毎回満点を取ってくるのに、そんな事で話しかけないで



 ……確かそんな感じの事を言われた気がする。

 今となっては一言一句など思い出せない。



 でもその後に続いた、この言葉だけは色褪せずに鮮明な記憶として焼きついている。


 

ーー本当に馬鹿な子



 俺に向けられた憎しみすらこもった目。どうしてそれだけ嫌われているのか、はっきりとした理由は分かるはずもない。やつれた母、彼女が兄にかける異常な期待の言葉の数々、俺に向けられた悲痛な憎しみ。



 どこかが狂っていた。


 それでも俺は自分も家族も。

 ……そのどちらをも救ってあげたかったのだ。



 母の口癖を思い出す。



 産まなければ良かった。

 


 働いて返せ、と言われても勉学は不出来で、無能な俺は出来損ない。上には五つ離れた姉と一つ離れた兄がいたが、両親が愛していたのは兄である遼馬だけだった。



 両親は良い大学を卒業していたらしい。だからこそ俺は勉強が苦手な事が何よりのコンプレックスだった。

 


 だからこそ、馬鹿な子、そう言われてその場から逃げ出した後。


 俺には決して見せない、慈愛の笑みで満点の答案用紙を抱えた兄を撫でる母親を見た時。自然と涙が溢れ出て、俺は玄関から外へ飛び出した。



 ……ただ、ほんの少しでも良いから親の腕の中の暖かさを感じたかったのに。

 


 家を飛び出した先に、当てもなく歩いていた。


「……」


 偶然だった。金も持たずにふらりと普段は興味も持たない電気屋に立ち寄って、小さなモニターを見たのだ。


 映っていたのは使役師関連のCM(コマーシャル)だった。


 とにかく、美しい歌声が流れていたのを覚えている。哀しみの悲痛を咽ぶような曲だった。


 ただ、その曲が流れているだけなのに、心はあっけなく画面に奪われていた。



 モニターに映る十代後半ほどの若い少女が眼を開いた。あまりにも美しい宝石のような瞳だった。


 少女は格好からして使役師だと一目で分かる。艶(あで)やかとしか言いようの無い整った美しい女性は、甘やかされて育った愛らしい少女とはとても言い難い『闇』を眼に宿している。


 しかし彼女は微笑んだ。その笑顔は慈しみに溢れているのに、その美しすぎる眼だけは酷く反比するように、ドロっとしていて光を飲み込むように暗かった。



「っっ〜〜!!」



 その美の骨頂にいるかのような彼女に、頬を真っ赤に染め、例えようのない感情を抱いた。俺はその刹那、確かな憧れを覚えたのだ。


 

 翌日再び足を運んでしばらく待つと、あのCMが流れた。食い入るように見ていると、また前日と同じような燃える何かが心を熱くした。しばらく見ていたけれど、人の目が怖くて俺は名残惜しくもサッと店を出た。


 その次の日も足を運んだ。それは三度見ても俺の心を奪って行く。けれど店に用がない俺は、すぐに別れを惜しみながら店を出た。



 その次に足を運んだ日は、しばらく待っても映像は流れなかった。流石にいつまでも待っている訳にもいかず、俺は諦めて店を出た。


 

 それからはもう何度も足を運んでも、どれほど待とうともあの映像が流れることはなく。



 あの女性の名前が『小鳥遊 優彩』である事を知ったのはその何年も後の事だ。



 淡い、淡い、夢だった。

 そう錯覚するほどの朧げな記憶としてだけ、今も心に残っている。

 



 

 俺に生きる活力を与えてくれた、大切な記憶だ。



 けれど、俺には生きる活力が二つ……つまりもう一つあるのだ。



 ……兄を贔屓する両親は、俺に愛を向けなかった。同じ境遇だった俺の姉はこんな家庭に嫌気が刺したらしい。反対を押し切り早々に家を出て対異空軍……通称使役師の一員となった。



 少しだけ仲間のように思っていた姉が消え、ますます家に居場所が無くなった俺はより孤独に、ただただ物事を考える子供に変化していった。



 生命とは何だろうか。何故生まれ、何故死ぬのだろうか。銀河はどこからどうやって始まり、何故生命というものは命を繋ぐ輪廻を繰り返しているのだろうか。人生に対して一人論ずるのは、自分の孤独感と生の実感の無さを埋める為だった。



 ただ生まれ、死んでいく。そんな生物の一人として誕生した俺は。親に足蹴にされながらも、この世界で生きていくしかない俺は。



ーー何を残せるのだろう。



 そんな窮屈な人生にも、生きていくための強烈な動機はもう一つだけ存在した。

 確か八歳の時だ。



 あの電気屋にはもう通わなくなっていた。

 けれど身体が地面に引っ張られる事にさえ、酷く疲れていたある日の事。



 歴史の授業で。



 栄光をいつまでも後世に語り継がれるほど、世界に献身を働いた人物。その人を讃えるように、先生は熱のこもった授業を行った。



「彼はーー」



 先生の尊敬する人物だったらしく、その日は普段より饒舌だった。先生はその人物を熱く信奉していたらしい。その人物に対する細かい雑学とかはもう要らないから、早く授業を進めてくれと生徒達が不満を持ったほどだ。



 俺が、それを聞いた時。

 その栄光を築いた偉大な人物に対して抱いた感情は、尊敬でも憧れでも畏怖でもなく。



 嫉妬と、競争心だった。



 ……こんなにもすごい人がいる。



ーーああ、羨ましいなぁ



 誰にも聞かれないよう、言葉に出して呟く。


 生まれた意味はそこにあった。

 はっきりと言葉にして、自分が羨んでいる事を自覚した時。


 俺は彼女への憧れを思い出した。消えかけていた情熱が、はっきりと形になった気がする。分かったのだ。俺は本気で、その人を超えたいと思ったのだ。



 いてもたってもいられなくなって。


 その為に、今のたった八年しか生きた事のない人生をもう少し頑張って生きてみようと決心がついた。


 

 ……けれどやはり。そんな幼い頃に抱いた懐かしい情熱は、新たな燃料を与えられないまま再びゆっくりと冷めていって。


 成長と、環境の変化に濁流のように流され。暗い心を灯していた熱は揺らぎ消えかけそうになった。

 


 あの時抱いた強烈な焦燥は、今はもう消えてしまっただろうか。それでもきっと心の奥底で燃えているのだろうか。





 夢から覚めた。


 起き上がって、時計を見る。


 


 五月二日の朝だった。







||




『凄い、凄い! あの化け物を倒した! 小鳥遊 です!

 異空災害が終焉します! 彼が、新たな日本の英雄ーー!


 洋使徒を使う突然変異の使役師と呼ばれる小鳥遊翔! 本物だった! 当初は実力を疑われていたにも関わらず、今は疑いようがありません! 本物の逸材だった! 夜廻(やかい)組のリーダー、その実力は半端ではなかった!


 王印を瞳に宿したアテナが今、彼の元に戻ります!』


 アナウンサーが息を荒げながら、興奮気味に熱の籠った実況をスラスラと口から出している。

 

 カメラは一瞬だけ観客席のサポーターを写す。彼らの誰もが祈りを捧げ、必死に応援を叫んでいることを画面の向こうの観客にも認識させた。


 そんな中、椅子に腰をかけたままメモ帳を手に抱え、考え事を繰り返す少年が一人。


「今のは……あ、この隙に罠を……なるほど……」


 彼が今パソコンに映しているのは、かなり古いビデオのリプレイである。何せ今から二十年も前の映像だ。画質が多少荒くとも仕方がないだろう。



 何度も見返した映像だった。



 それなのに、未だこの試合を見る度上がった口角を手で覆い隠さねばならない。見返すほど新たな気付きを得られるこのスターの凄さを感じながら、ただただ焦がれるばかりだった。


 

 メモ帳を書き終え、少年は頬の歪みを治してノートを粗雑に放り捨てた。



 綺麗に整えられた彼の自室である部屋はしかし、カーテンで閉められているせいか、他の誰もこの空間を認識出来ない。電灯の黄色い光だけが部屋を照らし、陽の光すら遠ざける。それが彼の孤独さを象徴しているようだった。


 

 使役師と呼ばれる職業が出来た四十年前より、人は外敵であったはずの異種、穢者を使徒として支配下に置き穢者を駆逐して来た。



 彼の隣に置かれている二冊の聖遺書は、支配下にある穢者を呼び出す為の魔法を起動させるそれぞれの鍵である。



「明日、か……」



 明日は五月二十三日。

 俺の十五歳の誕生日であり、同時に俺が異空に潜れるようになる日でもある。



 異空がこの世界に現れ、人々が混乱の渦に陥っていた時に神(スピネル)は姿を現したらしい。そして地上へと這い出て人々を襲う穢者に抗う力を与え、人を聖職者としたのである。



 力の対価として、人類に与えられた使命。それは繰り返し異空に復活し続ける穢者らを討伐し、その邪気を完全に払い切る事を目指す事だ。



 邪気を払い切れればその穢者は異空から解放され、人類側の使徒となる。それが人類に与えられた力。使徒化は使徒が死に、異空の輪廻に穢されるまで続く。


 

 倒した穢者を封じて呼び出す。それがこの聖遺書だ。その価値は大きく、所有者の譲渡もできる為、売買もされる。

 

 人はこの装置に頼り、これに縋り、これによって発展してきた。


 そして俺の目の前の鎖の紋様が表紙になっている聖遺書には『デビル』と呼ばれる悪魔と、『ゾンビ』と呼ばれる死者が描かれている。



「まさかあの小鳥遊 翔と同じで、洋使徒とはね……これも運命かなぁ」



 俺の憧れの人、小鳥遊 優彩の父。

 引退済みにも関わらず、今も日本で最も有名な元使役師。



 一般的に日本では日本使徒の方が好まれやすい。理由は地域の加護が反映されている為、日本使徒が強くなりやすいからだ。



 なのに日本に住んでいながら洋使徒を使うどころか、仮にも聖書と呼ばれる物で悪魔を模した穢者を使徒とするとは。実に皮肉な事だ。



 ずっと、沢山の人に囲まれながらも絶え間ない孤独感と劣等感を感じていた。

 誰かくだらない話で笑い合う瞬間は楽しいのに、結局のところ誰にも信頼を置けていない。



 でも、この彼女達は違う。

 使徒はーー人間に絶対服従する。



 孤独を紛らわすように、独り言のように考えを浮かばせながら、その聖遺書を手に取り見る事もせずに撫でる。


「どんな使徒かな……」


 俺が信頼出来る何かになってくれるだろうか。服従してくれる彼らは、命令だとしても俺を大切に守ってくれるのだろうか。



 側から見れば変な光景だと認識しながらも、それでも聖遺書の本を愛でるように撫でる事をやめられない。



 回転椅子により深くもたれ掛かると、合わせるようにギギギと音を鳴らしながら椅子は優しく背中を受け止めてくれた。



「……まあ、使徒なんてみんな同じなんだけど」


 

 そして、俺は自嘲するように吐き捨てた。



||



 マスターは危険が蔓延る異空探索において、使徒である穢者らの指揮を任される。そこには絶対的な主従関係が存在し、通常マスターが気安く使徒と接することはない。


 それはマスターとしても己の使徒に舐められる行為だからだ。命令という呪縛はあるものの、マスターという存在は上座に座る。


 だからこそ、配下の使徒に反抗されるなどあってはならない行為だ。


 平和な社会、日常が蔓延する地上から来た一人の人間。


 それは時に怯え、時に無茶苦茶な命令を下す。


 とあるマスターの妄言がある。

 使徒(ケモノ)の育成に必要な物は、愛情なのだと。



 何という戯言だろうか。

 機械的な彼らに心などと言うものがあるらしい。



 犬猫ではないのだ。その存在は、人間に従順なロボット。愛情の影響力など十数年も前に検証されている。そもそも人間が愛した所で、彼らは何の興味も持たないだろう。


 互いに異種族。そこに立ちはだかるのは大きな大きな、種族の壁なのだから。



 しかし。


 もし、『愛(ラヴ)』ではなく『恋(プラトニック)』な繋がりがあったなら?



 もしそうなら。



 何かが、変わるのだろうか。











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