第6話

 ドス! と音がして、王妃セルピナは目を開くと、馬車の側面上部に、深く何かが刺さっていた。見慣れない形の刃。

 ハッとして前方を見る。


  ――ネーリは、右手の手の甲に痛みが走った。


 思わず仰け反るように返した手から、三角刃が弾き飛ばされる。

 反射的に左手の刃の紐を引くのと、二枚を繋ぐ紐が、切り返したレイピアの斬撃で断ち切られるのは同時だった。繋ぎを断たれた三角刃が後方へ飛ぶ。それに構っている暇はなかった。

 弧を描く軌道で、前に踏み出して来た斬撃を、左手で受けるだけが限度だった。

 重い金属音が鳴った。腕に仕込んだ【フィッカー】に、ラファエルの斬撃が決まったのだ。それを確かめる一撃だったと、一瞬ラファエルの口許に浮かんだ笑みで気付いた。

 仮面の下で目を見開いて、左手から瞬間的に持ち替えた三角刃を振り払い、ラファエルを弾くが、彼は軽やかに身を弾ませて躱したその、着地の足の反動だけで瞬間的に再び切り込んで来た。

 レイピアの神髄である鋭い突きが飛んで来る。

 耳元に躱し、ネーリは左手の甲をレイピアの刃に渾身の力で叩き込んだが、細い刀身は大きくしなったものの、折れることはなかった。街の警邏隊なら、今ので武器を落すか破壊し、顔面に蹴りでも叩き込めばそれで終わった。

 耳元で風が動いた。

 背筋がぞわり、と震える。

 本能だ。

 引き込まれて行く、風。ラファエル・イーシャが手繰り寄せる。

 ネーリは思い切り地を蹴り宙を返って後方に飛んだ。ラファエルの放った鋭い突きは、そのまま敵を追って来る。胴、足元、切り上げて顎元を狙いレイピアを振り上げたが、ネーリは風のような連続技を全て躱した。最後の一撃を後ろに飛び退って避け、低い体勢のまま、手の平に巻きつけた三角刃を、軌道を狙い澄まして投げつける。

 シャッ、と紙を割くような音がして、普通なら飛んでこない角度から刃が飛んで来た。

 樹幹を通ったのだ。

 ラファエルは青い瞳を輝かせる。なんて切れ味だ。

 揺れた長い金髪の先が僅かに切られた。

 彼の外交の神髄は何事にも動じない剛胆さで、どんな相手にでも臆せず、礼節を弁えながらも接することが出来ることだったが、ラファエルはその持ち前の剛胆さを、全く違う戦場であるここでも発揮した。普通なら今の斬撃を見たら、恐れおののいて追撃を止めるところである。

 ラファエルは――更に追った。

 樹に蹴りを加えると、枝が折れる音を頭上で響かせながら木が倒れて行く。

 倒れて行く方と逆に向かってラファエルは駆けた。

 今ので臆して、追撃を止めてくれれば、というネーリの願いは断ち切られる。再び三角刃を振り回して斬撃を放ったが、ラファエルは迫って来た。表情を見ると、全く引く様子がない。彼は戦いを望まない性格をしているが、後方にいる王妃が追撃を諦めない理由に関わっているのだろうと思った。

それに、彼の表情。

 瞳。

 美しい瑠璃ラピスラズリの瞳が輝いているのだ。恐れがない。それは楽し気にと表現してもいいような明るさで、異質な武器を持つ敵を更に追って来る。威力は理解したが、紐で繋ぎ止めている以上、振り回しても範囲が限られる。ラファエルはもうその飛距離を見きったのだ。

 一瞬で敵の武器の間合いを見切って応戦して来たのは、あの日、ヴェネツィアの街で偶然対峙したフェルディナント・アークを除けば初めてだった。

 ネーリは左手の自動弓を意識した。

 小手のように装着してあるこの武器は、指に通すと、指を動かすだけで五カ所の部位から「矢」を放つことが出来る。最大五本の矢を同時発射出来、武器自体を下に向けることで、装填してある限りの「矢」を補填し、連続攻撃も出来た。

【フィッカー】の扱いには自信はある。

 これほどの剣技をラファエルが使うようになっているとは予想もしなかったが、それでも、フィッカーの発射速度を考えれば、狙った場所に当てる自信はあった。

 だが。

 ラファエル・イーシャと再会した時の驚きが過った。

 まさかこの世に、まだ自分に会うためにヴェネトにまで来てくれる者がいると思わなかった。過去は過ぎ去り、凪のように何も無くなり、人生において自分を知るものなど、消え失せたはずだとネーリは考えていたからだ。

 刃を激しく叩きつけ合い、弾き合う合間にも、強く思う。

 ラファエルの剣技は、ネーリは見たことがあるのだ。

 幼いころ、彼は剣の扱いも弓の扱いも、馬にさえ乗れなかった少年だった。

 弓は子供用の弓さえ、彼は最後まで引く力が無く、的まで矢を辿り着かせることも出来なかった。大人たちは子供の無力さを可愛がって笑っていたが、ネーリには、自分に弾ける弓をラファエルが弾くことが出来ないことに本当に傷ついていることが分かったから、いつしか彼の側では弓を撃たなくなった。

 小さい頃、初めて狩りを見た時、射られた動物が可哀想で、泣きじゃくったことがあると彼に話した。

 弓は狩りの為に、貴族は身に着ける。

 自分も狩りは好きじゃないから、だから弓など出来なくても気に病むことはないんだと伝えたかった。勿論やらないことと出来ないことはまた違うから、どれだけ励ませたか分からないけど。

 ラファエルは相手に怪我をさせることも怖いのだ。

 そんなことはまともな剣が使えるようになってからじっくり考えればいい、と豪気な祖父は言っていたけど、ラファエルの気持ちがネーリは分かった。

 他人が血を流すということは怖いことだ。

 自分が流すことより、ずっと怖い。

 痛みの程度が分からないからだ。

 自分ならこのくらいなら平気だと思っても、他人にとっては信じがたい痛みかもしれない。

 大切な人なら、尚更怖い。

 ラファエルは人を傷つけたくないのだ。

 そういう、少年だった。

(どんなに……)

 打ち込んで来る連撃。

 ラファエル・イーシャの表情は戦ってる間でも明るい。青い瞳が輝いている。

 戦いを楽しんでいるのではない。相手を傷つけないで打ち倒せることを、知っているのだ。自分の力量が分かっている。出来ることが分かり、力あることが自信となっている。

 少しの血を見るだけでも怖くて泣いていた少年が、これだけの剣術を身に着けるまでに、どんなに努力をしたんだろうと思う。

 僕は変わったんだ、とラファエルは嬉しそうに言った。

 信じがたいことだったが、君に会うために変わった、と。


(――ラファエル!)


【フィッカー】を指に装着しようとして、ネーリはやめた。

 フェルディナントに撃ち込んだ時、あの時は彼を全く知らなかったからそうしたけど、今になって思い出すとそれだけでも恐怖なのだ。彼を殺していたかもしれない。

 もうあの時のことは取り戻せないけど、今は変えられる。

 自分に会うためにこんなところまでやって来た心優しい友に、例え、威嚇の意味が最大であっても矢を打ち込んで手傷を負わせることなど出来なかった。

 ラファエルの切り払った斬撃が仮面の頬のあたりを斜めに走った。割れはしなかったが、傷が走ったのは分かった。

 どうして彼がここにいるのか、

 王妃の顔や、

 追手のことがチラつく。


【シビュラの塔】。


 開扉してるかどうかだけでも確認したいのだ。

 フェルディナントに、今は閉じているから、開扉しない限り再びの攻撃はないはずだと言ってあげたい。

 開扉していた場合は……、

(開扉していた場合は……僕はどうすればいいんだろう?)

 ぽっかりと突然、穴が開いたように頭の中がその疑問だけになった。

 その瞬間。

 肩を深く、通る。

 針が貫いたような痛みと共に、ネーリは斬撃を受けて後方に倒れた。

 ドサッ、と浮いていた身体が地面に叩きつけられる。

 ラファエルはようやく倒れた敵に、更なる追撃を与えようとしていた切っ先を緩めた。

 集中している間は詰めていた呼吸を、やっと吐き出す。それでも、さして彼の呼吸は乱れていなかった。

「やれやれ……これじゃあ騎士の剣も聞いて呆れる。やっぱりたまには剣も振るっておかなければダメだね。最近踊り暮らしてた、つけが回ったよ」

 仮面の男の側にやって来て、見下ろす。屈強な警邏を何人も仕留めてると聞いたから、もっと大柄な人間を想像していたけど、こうして見ると、小さい。打ち合いには非力さは感じなかった。しかし、打ち込んで来る速さや角度で、相手に見た目以上の衝撃を与えることは出来る、と師から教わったことがある。

 そういう相手は、天性の才があるのだと。

 自分より大柄の人間も倒せるし、一人で何人もの敵を打ち負かすことも出来る。それに体格は関係ないのだと。

 ラファエルは、不思議な感じがした。これほどの手練れに会ったことが無かった。

 自分が負けると思うほどではなかったけど、手強いとは思った。

 ……ラファエルは実は、いつしか師に対しても手強いという感覚を持たなくなった。

 この感覚は久しぶりだ。剣を習い始めた頃の、何もかもままならないというあの感じに近い。

 目の前の人間は、それくらいに強い。興味が湧いてしまった。

 お前がダメだと言われるのはこういう所なのだと自分でも分かったけれど、ラファエルはゆっくり屈んで、白い微笑みを見せる仮面に手を伸ばした。暴いて顔を見たいと思ったのだ。それは、自分がこの場における、課せられた使命の重さを考えれば全く恥ずべき欲望だったと思うが、止められなかった。

 ドン、と肩に衝撃が走り、足で突き飛ばされてラファエルは少し、よろめいた。

 震えるように動いた敵の左手が、奇妙に強張る。

 そのかわり、右手の攻撃性に迷いはなかった。

 ラファエルの手に持っていたレイピアをと弾き、刃部分の大きな三角刃を返すように腕を引く動作で切りつけて来る。

 ネーリの狙いは、ラファエルが避けるのを最大限に期待した、肩口を掠る程度の斬撃だった。今は不意を突いたのが分かったので、十分効き目があると思った。

 打ち倒した隙にこの場から離脱するつもりだったが、ラファエルが反射的に足を引いて身体を開いた時、身に着けていた上着が翻り、ネーリは仮面の下で目を見開いた。

 彼は祖父から、様々な戦士の戦い方や流儀を教わって来た。

 肩口を細心の注意で斬り払うことだけを考えていたネーリは、ラファエルの腰に挿してあった美麗な装飾の鞘を見て、しかも、そこに刃がないことを視覚で確認した時、全身の血の気が引いた。


(そうだ、レイピアを持つ者は)


 間合いが長い分、敵の攻撃が懐に及んだ時の為に、それを躱すための特別な【短剣マンゴーシュ】を持っている――。


 次の瞬間、ネーリの左肩に鈍い音を立てて深く、突き立った。

 一瞬だ。

 一瞬が命取りになる。

 ネーリは深手を受けながらも、その一瞬を掴んだ。

 理屈などではない、彼が神から与えられた天賦の才が、導き出した答え。

 指に装着した【フィッカー】が刹那の間合いで発射された。

 引き上げたレイピアで、一撃必殺の矢を二本、弾く。

 細い刀身のレイピアに矢を当てたのは、ラファエルの技術である。

 しかし、動物のように横に飛んだ相手が放った三本目だけが頬を掠った。

「っ、!」

 さすがに頬を押さえて顔を顰めたが、ラファエルはすぐに敵が、樹間を離脱していくことに気付き、追った。

「待て!」

 普段ならば逃げた敵を彼は追わない。しかし王妃はこの賊を逃がしたら、ラファエルであっても許さないことは分かったからだ。

 森を抜けたところは切り立った崖だ。

 止める間もなく、仮面の男は飛び降りていた。

 数秒遅れてラファエルが下を覗き込むと、崖に激しい波が当たり、水しぶきが大きく跳ねるのが見えた。

 今日は風が強い。

 波もある。この所天候は良かったのに、今日は怒る様にヴェネトの海は荒れている。

「……。」

 ラファエルの最後の斬撃は、確かに敵の肩を深く抉った。

 深手だ。傷が無くても、この海を逃れることは至難の業だろう。つまり、あの男は死んだのだ。

 側に、白い仮面が落ちている。拾い上げると、頬に傷が走り、ひび割れていた。



「ラファエル!」



 王妃がやって来た。

「妃殿下」

 ラファエルは膝をつき、手にしていたレイピアの切っ先を、後ろに向けて王妃から遠ざけた。

「賊はどうしました?」

 守備隊もやってきたようだ。声がする。

「申し訳ありません。捕らえたかったのですが、海に飛び込みました」

 王妃は海を見下ろし、一瞬、嫌悪にも似た色で波の立つ海を見下ろした。

 しかし、すぐにラファエルの手を掴み、彼を立たせる。

「いいのです。この海に落ちて万が一生きていることはないでしょう。よくやってくれました」

 ラファエルは頷き、騎士の所作でレイピアを鞘に納めた。

 それを待ってから王妃セルピナはラファエルの身体を抱きしめた。

「ラファエル」

 王妃は全ての戦いを見届けられたわけではないが、敵を追い立てるラファエル・イーシャの剣技はしっかりと目撃した。

「神が貴方をここへ遣わしたことを、感謝しましょう」

 聞いたこともない愛情を込めた声で、王妃は言った。安堵したようにラファエルの長身の胸に顔を埋める。

 ラファエルは、非礼にならない程度に王妃の身体を抱えたが、肩越しに海を見下ろした。

 地に落ちた白い仮面。

 あの仮面を剥ごうとした時、不思議な感じがした。不思議な昂りが。

 今になって振り返ると、会ったこともない剣の手練れで、ラファエルの中に、言い知れない疑問、だが確信めいた直感でもあるそれが生まれていた。

 それは、あの仮面の男は「男」ではないかもしれない、というもので、あの時もしあの白い仮面を剥ぐことに成功していたら、例え相手が美しかろうが醜かろうが、どんな容姿であれ――自分は心を奪われていたかもしれない、と思ったのだった。



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