第5話

 湿地帯の捜索部隊が迫っていた。

 ネーリは真っ直ぐに、駆け抜けた。

 山に向けて切り立つ崖に向かって三角刃を投げ、打ち込む。刃についた紐を頼りに、微かな岩場に、足を掛け、彼は驚異的な速さで登っていく。

 ネーリは夜目が利いた。船の上でも夜、月が無くても明かりも無く、マストを器用に上って行くので「フクロウのようだ」と、よく祖父が笑っていた。

 比較的大きな足場を見つけると、再び上に刃を打ち込んだ。

 崖上が見えて来ると、両手に握り締めた三角刃を交互に打ち込みながら腕の力だけで瞬く間に上り終えた。

 一瞬大きく肩で息をし、後ろを振り返る。

 広がる一面の湿地帯。

 霧の中に、明かりがチラつく。自分を探しているのだ。

 時間がない。遺体がないと分かれば捜索が広がる。

 森の中には人の気配がした。守備隊だろう。当然だ。

 ネーリは木の上に身軽に上がると、枝をしならせて動物のように隣の樹に飛び移った。

 この森は樹間が狭く、彼からすると、移動は楽だった。鳥のように枝を弾ませながら猛然と西へ突き進んでいく。

 今日は風が強い。この風が自分の気配を隠してくれる。幸運だ。

 ザッ、と一度立ち止まった木に、フクロウが巣にしている穴があった。白い雛フクロウが顔を出している。驚かしてしまったかな、とそっちに詫びるような優しい笑みを向けてから、すぐに再び飛び立った。

 もうすぐ森が終わる。

 飛び降りた時だった。激しい馬の嘶きがして、ネーリは振り返った。

 一台の馬車がこちらに走って来るところで、しまったと思った時に、すぐ逃げれば良かったのだが、馬車から覗いた顔に、思わず足が竦んでしまったのだ。


(ラファエル!)


 王宮に出入りしていることは聞いていたけど、まさかこんなところで鉢合わせるとは夢にも思わなかった。ラファエル一人だけだったら、正体を明かせたかもしれないが、馬車の御者を気にすると、すぐに馬車から別の顔が覗いた。

 ぞわ、とネーリの背筋を震わせたものは、得体の知れない感情だったが、そこに現れたのがヴェネト王妃、その人だと理解すると、決してこの仮面の下を悟られるわけには行かないことになったと理解する。自分がここにいることが分かれば王妃は必ず自分を消しにかかるはずだ。そもそも彼女がネーリに今は手出しをしないのは、王宮の一切に関わらないで生きていくという暗黙の了解があってのこと。

 ましてや【シビュラの塔】などに興味を示したなら、必ず消しに来るはずである。

 ネーリはその場に、ラファエル、御者、王妃の気配しかないことを素早く確認した。

(ラファエル、ごめん……)

 彼を傷つけたくはないけれど、とにかく彼の気を失わせでもして、この場を離れるしかない。

【シビュラの塔】の周囲は海だ。とにかく島に上陸して、塔までたどり着けるかは分からないが、ダメなら海に飛び込み逃げるしかない。どのみち湿地帯に戻ることは出来ないのだ。後方からはイアン・エルスバト率いる追撃部隊が近づいている。

 ラファエルが剣を抜く姿が見えた。

 確かに彼は戦うのが苦手だが、騎士でもない御者と王妃しかいないのなら、戦えるのは彼しかいない。

(とにかく、長引かせずに決めなければ。ラファエルには絶対傷を付けたくない)

 ぎゅ、と三角刃の柄を握り締めた。この刃の切れ味は本当に凄まじいのだ。この特別な金属は、人間の骨でも、紙のように斬る。少しの軌道のズレも、ラファエル・イーシャに死傷を負わせる可能性がある。


(頼むぞ)


 まるで友人のように、手にした武器に心の中で語り掛け、ネーリは身構えた。

 飛び込んで、剣が噛み合ったら、弾き飛ばし、体勢を崩したラファエルの首裏あたりを狙い気を失わせる。狙いは決めた。

 青年になったラファエルが剣を構える所を初めて見る。美しい構えだ。でも美しすぎる。

 師からの教えを忠実に模することは出来るが、実戦で鍛え上げた気配が少しもしない。

 昔から、心優しく、争いごとや武芸だけはダメだった少年――。



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