第3話


 ラファエルは普段誰かといる時は自分の方が喋っている男なのだが、今宵は口を閉ざしていた。共に馬車に乗って山道を揺られているヴェネト王妃はあるところで向かいに座るフランスの貴公子が、いつになく、押し黙っていることに気付いた。

「今日はあまり喋られませんのね。ラファエル様」

 山中の木々ばかりでさして何も外の景色は見えなかったが、その暗闇の方に視線をやっていたラファエルが気付いて、王妃を見ると、微笑んだ。

「これは失礼いたしました。妃殿下のご様子から、尋常ではない状況だと感じまして、黙っていた方が良いのかと。もちろん御所望ならばいつも通りにいたします」

「貴方がフランス社交界で重宝される理由が分かるわ。賢い者は、状況によって自らの振る舞いも変えねば。聞けば、フランス王や王太子殿さえ、貴方と馬車を共になさることを所望されるとか」

 ラファエルは明るく笑った。

「王は人と話をするのが好きな方なのです。特に芸術に造詣が深くいらっしゃるから、よく私を呼んでくださいます」

「貴方の話術の巧みさも、それは魅力でしょうけれど。どんな状況でも穏やかでおられるところが、王はきっとお気に召しているのではないかしら」

「そう言っていただけるのは光栄ですが、家族にはよく暢気だと呆れられていますよ」

 王妃はいつになく優しい表情を一瞬見せたように見えたが、すぐに笑みを消した。

「ラファエル殿。今は緊急に貴方をお連れしましたけれど……この先に行けば、私は貴方に、二度とフランスに戻ることを許さないようになるかもしれませんわよ。この先にあるものを見たら、二度と国に帰れないかもしれない。その覚悟がなければ、ここで降りた方がいいでしょう。それは許します」

 ラファエルにとって、王妃の言葉はあまり意味のないものだった。彼女にとっては大きな意味を与えて口にしたのだろうが、ラファエルは結局、王妃に例え帰国を禁じられても、貴方が望むのであれば許しましょうと言わせることこそ外交だと思っているので、何ら問題はなかった。

 イアンとも話したが、確かに王妃が自分の親族の娘と結婚しろと命じたら、結婚するしかないとは思う。大切に遇するしかない。しかし実際に愛せるかどうかはラファエルと、その姫の問題だ。そこまでは王妃も命じることは出来ない。彼女は例え古代兵器で三国を消滅させることが出来ても、人の心の奥まで思い通りにする力はないのだ。

 それを考えれば、ラファエルは人間の心とはどこまでも自由で、誰にも縛ることの出来ない、とても強いものだと思えるのである。命じられたり、束縛されることを恐れる必要はないのだ。本当は、そんなことは誰にも出来ないのだから。

 帰国を望めば、死ぬ気になってでもこの王妃を説き伏せて、帰国する自信がラファエルにはある。だから彼は微笑んだ。

「お気遣い、ありがとうございます。しかし妃殿下が国へ戻るなと仰るならば、私はそうするだけです」

「それでも構わないと?」

「ヴェネトに来て私は身に余る厚遇を与えていただいております。確かに、自分の終の棲家となるならば、住まいなどは小うるさく希望を出させていただくかもしれませんが。日常のことなど、多少の我儘を大目に見ていただけるならば、喜んで」

「まあ」

 王妃セルピナは華やかに笑った。

「貴方をここに送り込んだフランス王は、本当にいい人選をなさったこと。感謝しなければいけませんわね」

「では妃殿下、一つ確認させていただいてもよろしいでしょうか」

「許しましょう」

「今から赴くのは【シビュラの塔】と思ってよろしいのでしょうか?」

 王妃は静かに笑みを消した。


「そう……。ヴェネト王国が古の時代より、神からその番人となるように定められて来た天魔の塔。あれは我が王家の秘密なのです。だから衛兵たちも、この森を警護することは許されますが、島に上陸することは許されません。あの地には本来、王家の者しか足を踏み入れてはならないのです」

 ラファエルは【シビュラの塔】が三国を消滅させたのか? という問いはしなかった。

 明確な理由があったわけではないが、勘である。そして五月蝿く質問を重ねて来なかった貴公子の聡明さを、王妃は非常に好ましく思ったのだった。

 ずっと暗かった山道に、不意に月の光が射し込んだ。

 湿地帯が見える。

 しかし随分上って来た。眼下に広がっている。篝火がチラホラと見えた。

「湿地帯を捜索しているようですね」

「この王家の森と、王家の狩場であるあの湿地帯。これはいずれも王家の人間以外、踏み入れてはならない聖域なのです。由々しき事態よ。陛下のお耳に入ったらさぞやご心痛になるでしょう」

 不思議に思うことはある。

 例えば、王家の神殿とも言うべき場所なら、厚い警備を張ればいい。

 この森には十分な警備はいるように思えるし、追って塔の守備隊を増員してもいい。

 だが、賊が西の塔に現われたと聞いただけで王妃は自らこの地にやって来た。

 本当は参謀を連れて来たかったらしいが、それも叶わないのであれば、他国の自分をやむを得ず連れて来るほど、自国の人間すら、近寄らせることを嫌う場所だということだ。

(自国の人間に知られることも、歓迎されないのか)

 だから【シビュラの塔】は大した警備も置かれず、難攻不落の自然の砦のような島に、ただ静かに立っているのだろうか?

 森を抜けた。

 道を下って行く。

 ラファエルは急に開けた景色を窓から見た。

 遠くに王都ヴェネツィアが見える。つまり迂回して回り込んで来たような状態だ。

 切り立った崖のような島が多いのに、そこだけは海辺のように白い浅瀬が続いている。

 入り組んだ地形の奥だ。ここだけ景色が違う。

「……美しい」

 ラファエルはごく自然に、そう呟いていた。

 月明かりの下で白砂がキラキラと輝いている。

 ネーリはこの景色を見たことがあるのだろうか?

 幼いころに、塔の近くまでは行ったことがあると彼は言っていた。

 この景色を彼に描いて欲しいと思って、もしその絵が出来上がっても王家の人間が許すはずがないことが分かった。そうなのだ。ネーリの絵を描く才能が、紛れもなくヴェネト王宮は厄介なのだ。彼は一目見たものを完全に模写出来る才能がある。

 実際に描き出すのは、彼が描きたいと思ったものや、愛した景色だけだが、その気になれば彼に描けないものはない。ネーリの絵は、彼の目にして来た記憶と深く結びついている。ラファエルは危惧を覚えた。

(ジィナイースがこの地にいれば、いずれ命を必ず奪われる)

 だが彼は絵を描かなくてはならないのだ。絵を描くことが、彼が天から与えられた才能であり、天の使命だから。例え命の危険があっても、あの人は描く、とラファエルは分かった。

(どんなに危険でもあの人は目を輝かせて絵を描く)

 今初めて分かった。ヴェネトだから、目の届く場所にいるから、ネーリはまだ命を奪われていない。奪わない理由は何であるか、明確には分からないけれど。しかし他国に渡ってネーリ・バルネチアが自由に絵を描くほど、ヴェネト王宮にとって怖いものはないのだ。

(だからローマの城なんかを引き合いに出したんだ)

 あそこならば監視出来ると。しかしそれ以外の場所で、ヴェネト以外で、ネーリが絵を描くことを王宮の連中は許さないだろう。

 ラファエルはネーリをヴェネトから連れ出す時は、相当注意が必要だと思った。

 自分のフォンテーヌブロー領ならば安全かと思ったが、ネーリには出来る限り自由な暮らしをさせてやりたい。フランスもまだヴェネトに近い。もっと遠くの土地でなくてはダメだ。

(船を用意しよう。ユリウスがかつてジィナイースを乗せていたように、大きな船を。そして遠い大陸に行けば、脅かすものはついては来れない)

 ヴェネトに来るまで、船酔いに死ぬほど苦しんだのもすっかり忘れ、ラファエルはその船には自分も必ず乗ってついて行くのだともう心に決めていた。どんな辛い航海になっても構わない。ジィナイースがいてくれるなら、彼はそれだけで強くなれる。幸せになれる。

 そうと決まれば、ジィナイースが乗るに相応しい、美しい船を作らせなくては。

(どんな船にしようかなあ)

 そうだ外装は自分で考えてみよう。戦は嫌いだが軍船の美しさは分かる。ジィナイースにこの船の外装は俺が考えたんだよと言ってあげたい。きっと目を輝かせて喜んでくれるはずだ。ラファエルは楽しい気持ちで一気にそこまで考えた。

 美しい白砂の景色が終わり、また少しだけ森に入った。

 視界が暗くなって間もなく「うわ!」と御者の驚く声がして、馬が立ち上がったのだろう、大きくガクン! と馬車が揺れた。向かいに座る王妃も思わず反動で前のめりになったが、咄嗟にラファエルが、足を対面の椅子にかけて支えにし、両手で王妃の身体を手を添えるだけで受け止めた。

「なん……、」

「大丈夫ですか?」

 ラファエルはまず自分よりも高貴な身分の女性の無事を確かめた。かなり大きな衝撃だった。ラファエルがいなければ、対面の壁に投げ出されて身体や頭を打っていたかもしれない。

「え、ええ……大丈夫よ。ありがとう」

「この御者は山道でもかなり腕がいいと感じたんですが……何かあったかな?」

 ラファエルの言う通りだ。この御者は王妃の馬車をいつも任せる一人である。こんな粗相をするのは非常に珍しい。ラファエルが窓から顔を出した時だった。御者が何に驚いたのか分かった。

「も、申し訳ありません、上から突然降って来て……」

 白い微笑みの仮面がそこに立っている。

 おや、とラファエルは小首を傾げた。

「ラファエル殿?」

 王妃も首を出し、ハッとした。

「お前は……! こんなとこまで入り込むとは……ここはヴェネト王家の神域だというのに何と無礼な!」

 仮面の男は静かにそこに立っているだけだ。

「礼儀を弁えて投降してくれるような相手ならいいのですがね……」

 ラファエルが扉を開けて馬車から降りると、ジャキッ、と仮面の男は両手に三角刃を構えた。

「……だめか」

 ラファエルは小さく溜息をついた。

「きみ、ここは僕が引き受けるから妃殿下を安全な所へ……」

「いけません! ラファエル」

 御者に声を掛けたラファエルを、王妃が遮る。

「素性の分からぬ者を、何人たりとも、この先に向かわせることは出来ないのです。私の無事よりも大切なことなのです!」

 自分が何よりも優先されるべきだ、という考え方を普段から見せるヴェネト王妃が初めて口にした言葉は、ラファエルには意外だった。

「【シビュラの塔】を見たいのなら見せてやればいいと愚かな私などは思うのですが……そういうわけには行かないのですね?」

 王妃は頷く。

「神域は簡単に暴かれるべきではありません」

「……」

 ラファエルは数秒考え、頷く。

「では、普通は一番に妃殿下を安全な場所に避難させるべきですが、ご自分でそれはいいとお考えになるのですね?」

「そうです。あなた、今すぐに守備隊をここへ呼んで来て」

 御者に王妃は声を掛けた。

「しかし……、」

「早く!」

 いつも泰然とした態度を見せる王妃の、尋常ではない様子に御者も戸惑っているようだ。

「行くんだ。ここは私が引き受けるよ」

 御者が慌てて御者台から降り、来た道を駆け戻っていく。

「森の警備は厚いですから、彼がある程度道を戻ればすぐにも助けが来るでしょう」

「ええ……ラファエル……、」

「妃殿下は馬車の中からお出にならぬように。相手は屈強な警邏隊を何人も仕留めるような野蛮ですから、万が一にも妃殿下に歯向かう恐れはあります」

「助けが来るまで凌げますか?」

「自信は全くありませんが、やってみましょう」

 ラファエルは苦笑して腰のレイピアの柄を持った。

 引き抜いた余りに細い刀身に、心細げに木々の間から漏れ伝う月の光が当たる。

 王妃は思わず、引き留めた。

「ラファエル、貴方にもしものことがあれば、私はフランス王に何と申し上げればいいのか……」

 ラファエル・イーシャは敵前だというのに、わざわざ王妃の方を振り返って微笑んだ。

「御心配には及びません。これは外交の話ではなく、騎士道の話ですよ。蛮族に襲われて、女性が居合わせたのに、男が戦わずに逃げたらオルレアン家の名は末代まで汚れます。さすがの暢気な私もそれは忍びない。ここで私が死んでも、ヴェネト王妃を守ったのならば、王はお許し下さるでしょう」

 ザッ、と仮面の男が右足を前ではなく後ろに一歩大きく広げて、体勢を低くし身構えた。

 対するラファエルは、人の血に一度も汚れたことがないような美しい細身の剣を、教本通りのような美しい姿勢で構えている。

 仮面の男が、見慣れない構えから、身体を弾ませるような一瞬の動きから地を蹴り跳躍した時、王妃の目にはラファエルは身動きもせず、あまりに無防備に見えて、思わず彼女は目を瞑っていた。


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