第8話
それからは、一度トイレに行った以外は自室にこもりきりだった。ルアムと話したあとで少し落ち着かなかった気持ちも、時間が経つにつれてだんだん収まってきた。
……いや。
やはりまだ少し、おかしいかもしれない。
「ふふ……」
取り組んでいたプログラミング作業が、これまでにないほど捗る。いわゆる、スポーツ選手が「ゾーン」に入ったときのように。ゲームのクオリティを上げるアイデアが、次から次へと湧いてくる。少しの遅延もなく、それを実現するための最良のアルゴリズムを思いつける。
リズミカルにキーボードをタイプしている今の自分はきっと、難しい曲を難なく演奏しているピアニストと変わらないだろう。
自分が、ルアムのことを気になり始めている……? それは、確かに少しはあるのかもしれない。だが、今の気持ちを説明するには、それだけでは足りない。
きっと自分は、嬉しいのだ。
自分が、誰かに求められていることに。
今の自分を認めてくれている他人がいる。尊敬できる第三者から、見た目ではなく、自分の内面を認めてもらえた。今の自分のままでいい、と言ってもらえた。それが、嬉しかったのだ。
今の自分はまだ恋人のユウジと別れたわけでないから、ルアムの気持ちに応えることは出来ない。でも、彼とはよい友人にはなれるかもしれない。隠し事なんてしないでお互いのことをよく分かりあえる、親友になれるかもしれない。
そんな可能性を感じて、らしくもなく高揚していたのだった。
気付けば、時刻は夜の九時。ルアムがここに来てから、一時間近く経っていたらしい。しかし完全に集中して作業していたハイメには、それは数分間程度に感じた。
精神と体を満たす、心地よい疲労感。本当に、ピアノで難しいクラシック曲を演奏しきったような気分だ。……実はハイメは、ピアノも他の楽器も演奏出来ないのだが。
②と③もまだ作業を続けていたようで、アプリ上の作業履歴画面には、定期的に二人のユーザー名と、その作業の
これまでにも気分がのっているときは、作業の効率が上がることはよくあったが、それにしたって今日は少しやり過ぎだ。
ふふ……。
もしかしたら、LANの向こう側の②と③は、①の自分がさらに二人とか三人とかに増えてしまったのか?なんて思ってるんじゃないだろうか。
そんなことを考えて、ハイメはまた、一人笑みをこぼしてしまった。
そのとき、だった。
ドンドンドン!
また、音楽室のドアがノックされた。しかし今度は、さっきとは全然違う。力強く乱暴で、何らかの「緊急性」を感じる音だ。驚いて、小さな悲鳴をあげてしまった。
一応チャットを確認するが、今回は何のメッセージも届いていない。
「ハ、ハイメちゃん! 大丈夫⁉ 何か、変なことになってない⁉」
さらなるノックとともに、ドアの向こう側からルアムのそんな声が聞こえてきた。やはりそれにも、「何らかの緊急事態」を予感させる力強さがある。
「な、何よ⁉」
PCを置いてある教卓から離れ、慌てて入口の方に向かう。
「そんな乱暴に……何なのよっ⁉」
そして、鍵をあけて引き戸を開いた。
「ああっ! 無事なんだね⁉ よ、良かった!」
「え、無事……?」
そこにいたのは、やはりルアムだ。それに、その隣にはオタクのマナオの姿もある。二人がそれぞれ何番なのかまでは、分からない。
「無事、って一体何が……」
尋ね終わる前に、ルアムが一方的に告げる。
「た、大変なことになっちゃってて……と、とにかく俺たちと一緒に、今すぐ三階に! 三階の、生徒会室に来てっ!」
「え?」
意味が分からず、ルアムとマナオに交互に視線を泳がせる。
二人とも、からかっているような態度ではない。真剣な表情でまっすぐにこちらを見ている様子は、本当に、何か重大なことが起きていると物語っている。
ただ……。何回か視線を合わせたところで、確かに真剣だったはずのルアムが、急に不自然になった。彼はハイメの顔ではなく、体の方をチラチラと見るようになった。
そこでハイメは、さっきのルアムが帰ったあとで自分が、リラックス出来る寝間着――オーバーサイズのTシャツとボクサーパンツ姿に着替えたことを思い出した。
「緊急事態」の予感に慌ててしまったため、身だしなみを気にしている余裕がなかったのだ。すぐに音楽室の中に引っ込み、入口のドアで身を隠す。
「あ、あとから……着替えてから行くわ!」
「え」
ルアムは、少し困るように眉をしかめたが、
「わ、分かったよ! で、でも、なるべく早く来てね⁉」
とだけ言うと、ハイメに背中を向ける。そして、マナオと一緒に、近くの上り階段に消えて行った。
「な、何なのよ……」
改めて鏡で自分の姿を見て、恥ずかしさに頬が染まった。あまりにも不用心な格好だ。Tシャツは透ける生地ではなかったし、何も困るものは見られていないはずだが……。
着替えるためにドアを閉めようとしたところで、廊下のトイレを挟んだ教室の前で、さっきのとは別人らしい二人のマナオがいるのに気付いた。そこは、ミエリの①がいるはずの一年一組だ。
二人のマナオは、その教室の入口ドアを強くノックして、さっきルアムが言っていたのとだいたい同じようなことを言う。そして、おそらくは教室の中にいるらしいミエリ①と扉越しにしばらく何か会話をしてから、この音楽室の近くにあるのとは別の、廊下の突き当りにあるもう一つの上り階段の方へと走っていった。
どうやら、全員に声をかけているらしい。本当に、いったい何が起こっているというのか……。
白いブラウスとスカートに着替え、ハイメもマナオたちのあとを追って、生徒会室のある三階へ向かった。
通り道の廊下も階段も、照明は点いていた。先に行ったルアムとマナオが点けたのだろう。しかし、それでも夜の校舎というのは不気味だ。幽霊を信じているわけではないのだが、理屈を超えた本能的な部分で、嫌悪感を感じるように出来ているのかもしれない。
階段を上りきると、ハイメ③がいるはずの三階の多目的室のすぐ前に出る。そこから、トイレ、三年一組、二組、三組の教室があって……さらにその先で、何人か集まっているのが見えた。そこが、さっきルアムが言っていた生徒会室だ。確か、ルアム③の部屋になっていたはずだ。
「くっそ、ダメか⁉」
「も、もう一度行きましょぉ! ……せーのぉっ!」
マナオ三人とルアム二人が、交代で入れ替わりながら生徒会室のドアに向かって体当たりをしていた。
いくつもの衝突音が、静かな校舎内に響いている。
「あ、あなたたち、一体、何を……?」
「あと少しですぅ! も、もう一度ぉっ!」
ズドォーン!
何度も繰り返された体当たりによって、ついにそのドアが室内に吹っ飛ばされた。生徒会室の前にいた一同が、なだれ込むように室内に入っていく。ハイメもそれにつられて中に入る。
室内の照明は点いていない。ただ、開け放たれた入口から廊下の照明が入ってくるおかげで、中の様子がおぼろげながら見ることが出来た。
中央には、職員室にあったような事務机が六個集められ、その周囲にパイプ椅子が並んでいる。あとは、壁際に書類棚やロッカー、可動式のホワイトボード、その他よく分からないダンボール箱が何個も積み重なっている。事務机の向こう側にはベッド代わりのエアーマットと寝袋が見える。でも、そこには今誰もいない。
ただ、さらにその奥。入口からは対角線上の、部屋の隅。ベランダに通じる側の壁に、もたれかかるような人影があった。
誰かが……寝ている?
目を凝らしながら部屋の奥に進もうとすると、室内が突然明るくなった。先に入っていたルアムの一人が、部屋の照明のスイッチを入れたようだ。
部屋の奥の「人影」のことが、よく見えるようになった。
「え……」
その「人影」のショートカットの金髪と、グレーのTシャツには、見覚えがあった。ここに来る前に、自分の部屋を訪ねてきたときの「彼」の格好。今も、それと同じ格好をした人間が周囲に二人いる。
「ちょ、ちょっと……一体、何の騒ぎなの?」
ハイメの後ろから、遅れてやってきたらしいもう一人のハイメの声が、聞こえてくる。
「バカ騒ぎなら、あなたたちで勝手に……っ⁉」
最初は何かふざけていると思ったらしいそのハイメも、「それ」を見て言葉を止める。
それから、
「こ、これって……」
さらにあとからやってきた三人目のハイメと、
「ねーねー? 来いって言われたから来たけどー……ここでわちゃわちゃ何してるのー? もしかして、肝試しー?」
「えーえー! そーゆーのやるなら、前々に言っといてよー⁉」
「そーそー。知ってたら、早々にカメラ回してたのにー! ……って、え?」
最後に、三人一緒にやってきたミエリたち。
彼女たちも、「それ」の意味はすぐに分かったようだった。
そのくらい、「それ」は異様な状態だった。
驚いたように目を大きく見開いて、口からは血を垂らしている。爽やか好青年風の印象は今はもうどこにもない。スライド式の金属ドアに背中を預け、生徒会室の床に座るような姿勢で、長い脚を伸ばしていたもの……それは、漆代ルアムの死体だった。
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