第3話

 二日目の朝。


 高い天井。穴があいたパネルの壁と、五線譜が描かれた黒板。顔を動かすと、古びた譜面台や、歴史を感じさせるグランドピアノも見える。

 目を覚ましたときハイメは、いつもの自宅のベッドから見るのとは全く違う景色に、一瞬戸惑ってしまった。しかしすぐに、自分が今、仲間たちと廃校に合宿にきていること。そしてここが、その四日間の合宿で、自分が寝泊まりする自室として選んだ音楽室であることを思い出した。


 その廃校は、普通の座学の授業が行われていた教室などが入った三階建ての教室棟と、職員室や校長室などがある一階建ての事務棟の二つの校舎から構成されており、一階部分が渡り廊下でつながっている。

 教室棟は、東西に横長に伸びた構造になっていて、西の端には事務棟に繋がる渡り廊下。そこから廊下を東に進んでいくと順に、音楽室、トイレ、一年一組、二組、三組の教室、そして美術室がある。

 廊下の東西の両端――つまり音楽室と美術室のすぐ前には、二階に繋がる上り階段が一つずつある。基本的には二階も三階も同じつくりで、二階に二年の教室、三階に三年の教室などがあるらしい。だが、合宿参加者の四人は全員一階の教室を自室として選んだので、今のところはその階段を上がる必要はなかった。

 トイレは、教室棟の各階に一つずつの、計三つ。もともと中学校として使用されていたときのものから、洋式の水洗トイレにリフォームされている。校舎の各部屋にはエアコンも完備されていて、来たときから全室の物を常時稼働させていたので、校舎内は廊下も含めて快適な温度が保たれていた。

 だが、学校という体裁を保つためか、さすがにベッドや布団まではなかったため、ハイメたちは人数分の寝袋と、その下に敷くエアーマットを持参していた。



 寝袋のジッパーを開け、芋虫のような状態から蝶が羽化するように体を起こす。部屋の分厚い遮光カーテンを開けると、すでに外は完全に明るくなっていた。さっきまで真っ暗だった音楽室が、容赦のない真夏の日差しで照らされる。エアコンで快適な室内とは違い、外はもうかなり暑くなっているようだ。窓ガラスが伝える熱気で、室内温度が少し上がったような気がした。


「……はあ」

 寝起きの体調が優れないのは、慣れない寝袋のせいだけではないだろう。最近、ずっとこうなのだ。

 夢見が悪くて、眠った気がしない。

 その夢の内容は、ほとんど覚えていないが……。うっすらと、「もう一人の自分」が現れて自分の足を引っ張る、というようなものだった気がする。

「夢の中くらい、嫌いなヤツのことを忘れさせてよ」

 自分のことが嫌いなハイメは無意識にそんなことをつぶやきながら、部屋の隅にあるテーブルのところに行く。

 各自の自室には、100円均一で買ったらしい紙コップが1パックと、1.5リットルのミネラルウォーターのペットボトル8本入りのダンボールが1箱。ボックスティッシュが一箱ずつ。ゴミ袋が10枚くらいずつ用意されていた。

 テーブルの上の紙コップにペットボトルの水を注いで、喉に流し込む。すると、水冷装置を作動させたCPUが回転数を上げていくように、ようやく頭がまともに回り始めた気がした。


 部屋を出てすぐのところにある女子トイレで顔を洗ったあと、簡単な化粧をして、カットソーに黒のキャミソール、下はロングスカートに着替えた。

 毎朝八時に職員室に集まって、全員で朝食をとることになっている。朝食のあとは、これから本格的にグループ課題をどう進めていくかを話し合うことになっていたが……。あんなメンバーでは、どこまでまともに話し合いができるか。

 憂鬱さに頭を痛めながら、錆びついたトタン屋根の渡り廊下を通って、音楽室から、隣の一階建て校舎の事務棟に移動した。


 校舎の中は、古い木の匂いの中に、ほのかに黒板やチョークを連想させる匂いが混じっているような気がした。職員室は、50m近くまっすぐ伸びる廊下のちょうど真ん中あたり。事務棟にはその他に校長室や保健室があるが、それらの部屋は使う予定がないので、来たときのまま鍵がかかっていた。

 廊下を歩くたびにギシギシと音がして、強く踏んだら穴があいてしまうのではないかと心配になる。でも、一応この廃校をリフォームしたときに施設内は全て点検されて、必要に応じて補強や交換されているはずなので、それは杞憂なのだろう。

 歩みを進めていくハイメ。目的地の職員室に近づくにつれて、徐々に、その部屋の中から声が聞こえてくるようになった。

「……? ……っ⁉ ……ー!」

「……。……、……」

「……」

 朝からテンションの高い声は、チャラ男のルアムだろうか。その他に、ボソボソとつぶやくような声が「二つ」交じっている。一つは、気持ち悪いオタクのマナオとして、あともう一つは……。

 もしかしたら。

 この時点でハイメは、そのとき起きていた「異常事態」に、気づくべきだったのかもしれない。そうすれば、少しは心の準備が出来ただろうから。


 ガラァ。

「おはよう」

 職員室の引き戸を開けて、中の人物たちに形だけの挨拶を投げる。


「あ、おはよーっすっ! ……って、え?」

「……あ、あれぇ?」

 脊髄反射的に元気のいい挨拶を返したのは、やはりルアムだ。しかし、その声は途中で止まってしまった。マナオも、昨日のような気持ちの悪い笑顔ではなく、引きつったぎこちのない表情になっている。

「え? え? え? ハイメちゃんが……え?」

 想像通り室内にいたルアムとマナオの二人は、たったいま入ってきたハイメと、すでに室内にいた「もう一人」のことを、交互に見ていた。


「ちょっと? これ、何の冗談よ?」

 位置的に、入ってきたハイメから見えたのは「その人物」の、長い黒髪と横顔だけだった。だが、その人物が「誰」なのかは、見間違えるはずがなかった。そのくらい、「それ」はいつも見ていた顔だったから。毎日毎日、何回も何回も、嫌になるほどに。ついさっきも女子トイレで身だしなみを整えているときに「鏡の中」で見た顔だ。

「何? ……何なの?」

 ルアムたちの様子に気づいた「それ」が、こちらに振り返る。その声も、やはりハイメには聞き飽きたくらいにおなじみのものだった。

 不機嫌そうに首だけを動かして、入ってきたハイメの方に向けられた顔。サラァッと長い黒髪を揺らしながら、ハイメに正面が見えるようになった「それ」は、

「ちょ、ちょっと……? これ……何の冗談よ?」

 さっきのハイメと、同じようなセリフを吐いた。


 その顔も、声も、キャミソールとロングスカートも……何もかも。

 「それ」は、どこからどう見ても、城鳥ハイメそのものだった。



「は、はぁぁーっ⁉ ハ、ハイメちゃんが、二人ぃーっ⁉ な、何これっ⁉ ちょ、なになになにっ⁉ 何が起きてんのっ⁉」

 職員室入口のハイメのもとに、駆け寄ってくるルアム。慌てすぎた彼は礼儀や遠慮を忘れて、近距離からマジマジとハイメの顔を覗き込む。

「こ、これ、ドッキリ、ですよねぇ……? ここにすでに城鳥さんがいるのに……あとからもう一人、別の城鳥さんも入ってくるなんて……。つ、つまり城鳥さんは、双子だったっていう……ことなんですよねぇ?」

 マナオも、顔を引きつらせながらヘラヘラと笑っている。

「ク、クールな城鳥さんも、こういう悪ふざけするんですねぇー? お、面白いですぅー……」

「はぁっ⁉」

 そんな二人を押しのけて、「もう一人の自分」が、苛立たしそうにこちらに向かってきた。

「じょ、冗談じゃないわっ! あなた、誰よっ⁉ なんでこんなことしてるのよっ⁉」

 肩を掴む、相手の「ハイメ」。しかし、ハイメの方も全く同じ気持ちだ。

「は、はぁっ⁉ ふざけてるのっ⁉ あなたこそ、こ、こんな私のモノマネなんかして……ばっかじゃないのっ⁉」

 反対の肩を乱暴に掴み返し、その顔をにらみつける。

 しかし、見れば見るほどそれが自分自身そのもので……得体の知れないものに対する恐怖と、気持ちの悪さがだんだん大きくなってきてしまって。結局、自分からその手を離してしまった。

「ひっ」「うっ」

 しかも、「二人」同時に、だ。


「ま、まあまあぁ……お二人ともぉ。ちょっと落ち着いてくださぁい……。ボクたちは、もう充分ドッキリを楽しみましたのでぇ……そ、そろそろネタバラシを……」

「「だ、だからこれは……!」」

 未だに状況を理解できていないマナオに対して、二人のハイメがやはり同時に反論しようとしたところで、

「はあ……あなたたち、朝からうるさいわよ? 何をさっきから……って……え?」

「……え?」

「……へ?」

「え、えぇ? えぇぇ……?」

 その職員室に、さらにもう一人がやってきた。その「人物」の服装も、顔も、やはり「城鳥ハイメ」そのものだ。

 三人目の「ハイメ」は、自分を見ている二つの同じ顔を交互に見てから、

「ちょ、ちょっと……こ、これ、何の……冗談よ……?」

 やはり、前の二人が言ったようなセリフを吐いてしまうのだった。



 既に、頭の中は完全にパニック状態だった。その場の誰もが、今の状況を正しく理解出来てはいなそうだった。しかし、状況は彼らが落ち着くのを待たず、さらに混沌と混乱を極めていく。

 ルアムとマナオ、そして「三人のハイメ」が不毛な言い争いをしている職員室に、さらに、次々と「仲間たち」が現れた。


「ちょっとみんな、聞いてくれよー! 俺さー! さっき目が覚めたら……なんとなんと、校舎の二階で寝てたんだけどーっ⁉ これ、やばくねー⁉ 起きたら階を移動しているとか、どんだけ寝相わるいんだよーっ、って…………え?」

「バーカ、二階くらいでイキってんじゃねーよ! 俺なんか、三階だからね⁉ 昨日は確かに一階で寝たのに、起きたら三階で…………て、あ、あれ? つーか、お前、誰……って言うか、俺?」

「ぐ、ぐふ……ぐふふ……な、なんだか、とんでもないことになってますねぇ……」

「や、やはり……こ、『この不思議現象』が起きていたのはぁ、ボクたちだけじゃなかったみたいですねぇ……」

 ほぼ同時にやってきたのは、二人のルアムと、二人のマナオ。

 当然のように、彼らの見た目や声も、最初からいるルアムとマナオと全く同じだ。


 そして最後に、

「ねーねー。みんな、聞いて聞いてー? ていうかー、見て見てー?」

「なんかあたしー、寝てた間にワラワラ増えちゃってたみたーい」

「これ、なかなか意味わかんなくなーい? でもでも、めっちゃ映えるよねー?」

 なんて言いながら三人のミエリが軽いノリで入ってきたときには、誰もが混乱を通り越して、呆然と立ち尽くすことしかできなくなっていた。



 やはり。この状況について、理由や原因を考えるのは無意味なことなのだ。それよりはもっと単純に、端的に、起きたことをただそのまま受け取れば良い……というより、そうするしかないのだろう。

 四人の大学生たちは、その朝目覚めたときに、それぞれが三人に増えていた。

 その四人は、各自が全く同じ見た目と性格を持った三人に増殖し、三倍の十二人になっていたのだった。

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