第3話 おじいさんとナポリタン①

ピリ。ピリリ。ピリリリリリリ。

 スマホがけたたましく着信を告げている。二百五十三コール目を数えたところで、たまらず愛は隣に腰掛けている年老いた男に話しかけた。

「あの……」

「…………」

 老人はスマホのコール音を無視してスパゲティ・ナポリタンを食べ続けている。

 愛は勇気を出してもう少し大きな声を出した。

「あの……電話、もう二百五十回以上鳴ってますよ。出なくていいんですか」

「あぁ、なんじゃワレェ!?」

「ひっ」

 老人の眼光鋭さに愛は思わず身をすくませた。老人はスマホを見もせず、乱暴に言い放つ。

「いいんだよ。どうせ大した用事じゃねぇんだから」

「大した用事じゃなかったら、こんなにコールし続けなくないですか?」

「…………」

 老人は愛の言葉に全く構わず、まるでラーメンのように勢いよくナポリタンを啜って平らげる。紙ナプキンで口元を拭い、水を飲んで一息。

 当然、この間にも電話は鳴り響き続けていた。

 よくこんなにもうるさい中でこんなにも平然と食事を続けられるものだなぁと愛はいっそ感心した。

 須崎の言葉に甘えて店に来店すること、二回目。

 愛は早速別の客に出くわし、そして戸惑った。

 そこに腰掛けていたのは、地下足袋にニッカポッカ、頭には手拭いという目立ちすぎる出立ちの、七十近いご老人だった。

 愛は店に来たことを早くも後悔しつつあった。

 ナポリタンを食べ終えた老人は、愛の反対隣の席でタバコをふかし続けている店員に声をかける。

「おい、大吉。冷コー持って来い」

「なんでや。須崎さんに頼めば」

「お前もバイトならちったぁ働けよ」

 どうやらこの青年店員の名前は、大吉というらしい。見かけとは裏腹に縁起が良い名前だなぁと思いながら、愛は二人のやり取りをぼんやりと聞く。

 大吉青年は老人の言葉にちょっと嫌そうな顔をして、それでもタバコを灰皿にぐりぐりと押し付けてから消すと、のっそりと立ち上がった。

 するとタイミング良く、奥から店長の須崎が愛の注文したクリームソーダを持って現れる。本日も須崎は縞猫の体に赤い蝶ネクタイと黒いエプロンを締めていた。

「まあまあ、治部良川さん。こうみえて大吉くんは、結構働いてくれているんですよ」

「そうは見えねえが。少なくとも俺が来る時にゃあ、いっつも客席でタバコふかしてんぞ」

「常連さん相手には、私が接客しますからね。はい、愛さん、お待たせいたしました。クリームソーダです」

「ありがとうございます」

 愛は前回喫茶店を出てから、摩訶不思議な猫である須崎に関してひとしきり悩んだ。一晩悩んで悩んで悩み抜いて、そしてこう結論を下した。

 きっと東京では、ねこも働かなければ生きていけないのだ、と。

 生きていくにはお金が必要で、だから猫も日々自分の生活のために喫茶店をやっているのだろう。世知辛い世の中だ。これが東京のねこカフェの形なのだ。

 地元にもねこカフェは存在するが、当然ねこは喋らないし歩かないし接客もしない。ねこたちはただただ室内を自由に歩き回り、くつろぎ、気が向いたら人間の方に来てくれる。

 やっぱり東京は違うなあ、と愛は感心した。

 そうして自分を納得させたところで、二回目の来店である。

 まだまだ学校では浮わついた存在だから、少しでも居場所が欲しくて逃げるように駆け込んだ。

 愛は細長い銀色のスプーンでバニラアイスを食べながら、ちらりと隣の席の老人に視線を送る。

「どうぞ。冷コー」

「んああ」

 老人は、相も変わらずけたたましいコール音を鳴らすスマホに全く構わず今しがた運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけだした。

 ピリリリリリリリリリ。

 よくこんなにうるさいのにくつろげるものだと、愛はいっそ感心した。

 老人だけではない。

 須崎も大吉青年も、全く意に介していない様子だった。気にしているのは愛だけだ。

 一度気になりだすと、居ても立っても居られない。

 愛は勇気を出して、もう一度老人に話しかけてみる。

「あの……」

「んああ!?」

 老人は、喧嘩でもふっかけてきそうなほどの剣幕だ。愛は決意が挫けないうちに一気に捲し立てた。

「な、何度も話しかけてごめんなさいっ。けどっ、出る気がないなら、せめて音消しにすればいいんじゃないかなと思ってっ」

 ピリリリリリリリリリ。

 静寂を切り裂いてコール音のみが響き渡り続ける。

 老人は、バツが悪そうに口をへの字に曲げ、小さくつぶやいた。

「……やり方が、わからん」

「えっ」

「おめぇ、できるか」

「たぶん……」

「じゃあやってみろ」

 老人はロックを解除してからスマホを愛に差し出した。

 機種は古いが、モデルは愛が使っているものと同じだ。愛が少しいじれば、音量はどんどん下がっていき、とうとう無音になった。

「はい、どうぞ」

「おぉ、おめぇすげぇな。あんがとよ」

 老人は感心し、満足してズボンのポケットにスマホをしまい込んだ。

「けど、本当にいいんですか? あんなに鳴ってたってことは、やっぱり急ぎの用とかなんじゃ……」

 どうしても気になった愛は、食い下がる。

 あれほどコールがされるというのは、愛の感覚からすると少し異常だ。

「大切な話かもしれないし、一回くらい出た方がいいんじゃないですか?」

「お節介だな、ワレは」

「ご……ごめんなさい」

 老人の鬱陶しそうな声に愛は謝罪をした。

 あとはもう、気まずい沈黙が場を支配する。

 コール音を消したので、BGMのない店内で聞こえる音といえば、大吉青年が再びタバコに火をつけるシュッという音だけだ。

 愛はクリームソーダに口をつけてごまかした。

 あぁ、またやっちゃったのかなぁ。

 東京に来てからというもの、人との距離感がうまく縮められない。どうしてこうダメなんだろう。大好きなクリームソーダの味すらしないまま、愛の気持ちが沈む。

 するとこの重苦しい雰囲気を打破するかのように、のんびりとした声が響いた。

「治部良川さん、若い子にはもっと優しくしましょうよ」

「須崎……」

「愛さんには何の罪もないんですから」

「んなこと、わかってら」

 治部良川という名字らしい老人はボリボリと頬を掻く。

「嬢ちゃん、悪かったな」

「いえ。私も、事情も知らないですみません」

「そういえば、なぜこんなにも電話がかかってくるのか、私も聞いたことありませんでした。ねえ、大吉くん」

「どうでもええわ」

「そう言わずに。せっかくの機会ですから、常連である治部良川さんの話を聞かせて頂けませんか?」

 治部良川がこの言葉に、ちょっと顔をしかめる。

「何でおめぇらに俺のことを話さなきゃならねえんだよ」

「そりゃあ、喫茶店の店長として、お客さまのことは知っておきたいではありませんか」

「そんな喫茶店、普通はねぇだろ」

「それはそれ。ここは普通の喫茶店ではありませんから。ねえ、大吉くん」

「…………」

 ことあるごとに話しかけられる大吉は、心底興味なさそうに天井を見つめていた。須崎は大吉から興味を引き出すことを諦め、矛先を愛へと向けてきた。

「愛さんも気になるでしょう?」

「え? まあ、そりゃあんなに電話が鳴ってれば気になるけど……」

 むしろ気にならない方がどうかしている。大吉の無関心さはいっそ感心するレベルだ。

「決まりです。治部良川さん、お話頂けないでしょうか」

 治部良川は腕を組み、険しい顔で視線をテーブルの上のアイスコーヒーに固定している。アイスコーヒーは表面に水の粒を纏わせ、それがツツツとコースターへと滴っていた。

 治部良川はしばらくそうしてから、急に立ち上がった。

「しゃらくせぇ。説明してやるから、ついて来な」

 そうして治部良川は、なぜか店の外へと一行を誘ったのだった。

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