第4話 おじいさんとナポリタン②

六月の空はどんよりとしていて、太陽は厚く覆われた雲越しに鈍色の光を投げかけている。

 治部良川を筆頭として、須崎、愛、大吉の三人と一匹は夕方の日本橋に繰り出した。この時間帯はちらほらと帰宅する人々も増え、人通りが多い。須崎は人の波に潰されて見えなくならないよう、大吉に抱き抱えられていた。

 しかし納得がいかない様子の大吉は、須崎を抱えながら眉間に皺を寄せてブツブツ言っている。

「何で俺まで行かなあかんの」

「まあまあ大吉さん。私のお守りだと思ってくださいよ」

「確かに須崎さんが迷子にでもなったら、困るけど」

「でしょう?」

 大吉と須崎の関係性も不思議で気になるが、今は治部良川だ。あんなにも電話を無視する理由を教えるのに、どうして外へと連れ出したのだろう。

 歳の割に早歩きな治部良川の後を、愛は小走りでついていく。

 須崎の喫茶店があるれんげ通りから出て地下鉄日本橋駅を通り過ぎると、すぐに駅名の由来となる日本橋に行き着く。

 日本橋という地名は、その名の通り日本橋という橋に由来している。下を流れる川の名前は日本橋川というらしい。

 愛は初めてその橋を見た時、軽い衝撃を受けた。

 なぜならば日本橋は、真上に首都高が走っているのだ。景観としては最悪である。

 橋の下を流れる川も澄み渡った清流などではなく、どことなく下水道を思わせるような濁った水で、しかも周囲はごみごみしたアスファルトの道とビルに塗り固められている。風情も何もあったものではない。

 しかし橋自体に施されている装飾が立派なのはさすがというべきだろう。愛は足を止めて、橋の側に鎮座している彫像を見上げた。翼の生えたその像は、龍かなにかだろうか。

「麒麟ですよ」

 愛の胸の内を見透かしたかのようにそう声をかけて来たのは須崎だ。須崎は大吉の腕の中にすっぽり収まって、彫像を見上げている。

「キリン?」

「中国の霊獣ですね。普通、麒麟には翼は存在しませんが、製作者の渡辺長男が『日本中のすべての道のスタート地点として、ここから飛び立っていけるように』との願いを込めて翼を生やしたと言われています」

「へぇ……」

「そして橋の四隅に設置された唐獅子像は、お寺や神社のように橋を守ってくれるという意味が込められているそうですよ」

「須崎さん、詳しいんですね」

「伊達に長くこの場所に住んでいませんから」

「須崎さんって、日本橋に住んでるんですか?」

「ええ。店の二階で寝起きしています。猫の縄張りはそうそう広くはありませんから」

「行くぞ、こっちだ」

 治部良川は日本橋に鎮座する青銅の立派な唐獅子と麒麟像をちらりと見てから、そう言ってみんなを先導した。

 治部良川が連れて来たのは、界隈でも一際高いビルが立ち並ぶ地帯だった。

 天に向かってそそり立つ高層ビルはどれもこれもピカピカで、絶えず出入りする人たちも洗練された服装だ。愛が近づくことすらおこがましい。

 治部良川はそんなビルの一つに臆せず近づくと、眩しそうに目を細めて見上げる。愛も見習うが、どれだけ首を上げても天辺が見えないほど高い。

「このビルの工事に、俺も関わった」

「えっ。そうなんですか?」

「ああ」

 治部良川はくるりと背を向けると、二車線の広い道路を挟んだ向かいのビル群を次々に指し示す。

「あっちのビルも、あれも、そっちも。俺が現場監督をした。……俺ぁ鳶職人なんだよ」

「鳶職人? ってなんですか?」

「言ってみりゃあ、高所で作業する人間のことだな」

 そうして治部良川は、真っ直ぐに空に向かって伸びるビルを見上げながら自分のことを語り出した。

 治部良川じぶらがわ庄左衛門しょうざえもんは、伝説のとび職人である。

 足場鳶として五十年も工事現場で働き続けた治部良川の組む足場は安心安全に定評があり、その丁寧な仕事ぶりは業界に広く知れ渡っている。

 治部良川の組んだ足場において、この五十年間死者はおろか一人の怪我人も出したことがない。事故ゼロである。奇跡のような出来事だ。

 治部良川はいつしか「治部神様」と呼ばれ、同じ鳶職人や工事現場の人間から尊敬され、のみならず発注先の大手建設会社のお偉いさんからも崇め奉られるようになっていった。

 ……だが、過剰なほどの羨望の眼差しが、治部良川を苦しめるようになったのだ。

「俺は疲れた。過剰な期待も、不必要なほどの気遣いにも」

 治部良川は、歳に似合わぬ屈強な体を縮こまらせ、均一に平されたアスファルトの地面に向かって深いため息をつく。

「辞表叩きつけて会社に行かなくなったんだ。俺は神様なんかじゃねえ。これまで大きな事故がなくて、怪我人が出なかったのだって、何も俺がいるからってだけじゃねえ。他の奴らの頑張りあってこそだ。なのにこんなに崇められて、神だ神だと祀られんのは落ち着かねえよ。……俺ぁ、ただの人間だ。それももう六十八歳になる、ただのジジイだ」

 治部良川の背中はますます丸まっていく。俯いた頭は地面を見つめたままで、哀愁漂う姿は先ほどまでの眼光鋭い老人の気配が微塵もない。

「じゃあ……さっきの、お店で鳴っていた電話って」

「ありゃ、俺をどうにかして呼び戻そうとしてる連中だろうな。家にも押しかけてるだろ」

「…………」

 愛は、胸の前できゅっと拳を握った。

「よく、わかんないです」

「あぁ?」

 愛の一言で、治部良川がもたげていた頭を持ち上げる。

「治部良川さんはすごい人で、会社の人に必要とされてるんですよね? だからこんなにも電話が来る。私には……羨ましい。私は誰からも必要とされてなくて、居場所がなくって、苦しくて……治部良川さんみたいにいなくなったとしても、きっと誰も気にかけてなんかもらえない」

「…………」

「必要とされてるなら、応えてあげた方がいいんじゃないですか?」

「おめぇなぁ。そう簡単じゃねえんだよ、世の中っつーのは」

 治部良川は呆れたように手ぬぐいに覆われた頭をボリボリ掻きながら盛大なため息をついた。まるで、「子供にはわからねえだろうが」とでも言いたげな口調と態度だ。

 そんな風に拒絶されてしまっては、弱気な愛にはもう何も言えない。そもそも確かに愛には、治部良川の悩みも苦しみも全く理解できないのだ。

 そんな風に俯いて、これ以上のコミュニケーションを諦めてしまいそうになった時。

「愛さんのいう通りですよ」

 優しく穏やかな須崎の声が、愛の耳に届いて、下げかけていた視線を再びあげた。

 須崎は相変わらず大吉の腕の中に抱かれたまま、したり顔で治部良川を見上げている。

「人間、必要とされている内が華というものです。そりゃ、治部良川さんの悩みもわかりますよ。私の店も昔、大繁盛で息つく暇もなく忙しかった時がありましてね……その原因というのが、『幸運を呼ぶ招き縞猫』、つまり私のせいでした」

「ほぉ」

 須崎は昔を懐かしむようにヘーゼル色の瞳を細め、髭をヒクヒクとさせる。

「喋って接客する猫が珍しかったんでしょうね。ひっきりなしにお客さんが訪れて、てんやわんやの大忙しです。それこそ、猫の手も借りたいほどでした」

「猫は須崎さんやろ」

「ふふ。大吉くんのそのツッコミを受けるのは二回目ですね」

 大吉のツッコミに須崎が楽しそうにそんな返答をする。

「お客様の期待に応えねばと、睡眠時間と休憩時間を削って働いた私は、身と心を壊してとうとう倒れてしまいました」

「猫なのに……?」

 愛は己の中の猫像を思い浮かべ、思わずそう疑問をこぼす。

 愛の知っている猫というのは、自由気ままで勝手気まま。好きな時に寝て好きな時に起きて、食べたい時に食べる。気が向いたら人間に触らせてくれる。ひだまりの中でのんびり日光浴をして、一日中ゴロゴロしている……そんなイメージだ。

 少なくとも、働き過ぎて倒れる猫というのは聞いたことがない。

「ともあれその時、思ったのです。『人気者すぎるのも考えものだな』と。お店が儲かるのはいいことかもしれませんが、ほどほどの忙しさが私には合っているようです。ですからそれ以来、私は私を本当に必要としている人の前以外では、普通の猫でいようと決めました」

 ……ん? 本当に必要としている人ってどういうことだろう。それに須崎さんって、普段はお店の中でただの猫でいるの?

 愛はそんな疑問を抱いたが、流石に今の流れでこの質問をぶつけるのが無粋だというのはわかる。

 治部良川はじっと考え込むように須崎の顔を見つめていた。穴が開くほどに見つめられている須崎は全く意に介した風もなく、大吉の腕の中で大人しくしている。

「オメェも苦労してるんだな、猫のくせに」

「ええ。結構いろんな苦労をしているんですよ。何しろ立地が立地ですからね」

「確かにそうだ」

「ですが、完全に店を畳んでしまおうとは思いませんでした。あの店を求めている人がいるのは確かですから。ですので治部良川さんも、いきなり辞めて失踪してしまうのではなく、まずは話し合ってみてはいかがです?」

 治部良川は納得したように深く頷く。

「それもそうだな。いきなり来なくなったんじゃ、死んだと思われても仕方ねえし」

「そうですよ」

「あぁ」

 治部良川はポケットからスマホを取り出し、画面を眺める。チラリと愛の視界に映ったその画面では、相変わらず着信が鳴り続けているようだ。

「……ありがとうよ。お節介な店員がいてよかったぜ」

「大切なお客様のためになるなら、お節介も焼くというものです」

 須崎はにこりと猫の顔に笑みを浮かべる。平穏そのものの猫の笑顔だ。

 治部良川はスマホをタップし、耳元まで持ち上げる。そして愛想など一欠片もない、腹からドスの効いた声を出した。

「なんじゃ我ぁ、ピロピロピロピロ電話してきやがって!!」

『あぁ、治部神様! よかった、やっと出てくださいましたね。もー本当によかった。急に辞表置いて居なくなってしまうから、驚いたんですよ!!』

 最大音量になっているせいで、愛にも電話相手の声がよく聞こえた。その声は、驚きと安堵が入り混じっていて、本当に治部良川の身を案じていたのだとわかる。

『ご自宅に伺っても、奥さんからどこにいったかわからないと言われてしまうし……! それで、今、どちらにいるんですか!?』

「日本橋だ」

『日本橋ぃ!? じゃ、今から、会社の若い者派遣するんで、大人しく日本橋に止まっていて下さいよ!』

 電話相手の声が上ずってひっくり返っている。焦り具合が伝わってきて、愛は思わず須崎と目を合わせた。大吉の腕に抱かれている須崎は、ヒクヒクと髭を震わせている。

 一言二言会話を交わして電話を切った治部良川が振り向いた。

「……よぉ。何笑いを堪えたような表情してやがる」

「いえいえ。無事に連絡が取れてよかったですね。ねぇ、愛さん」

「はい、本当に」

「解決したんなら店に戻ろうや。俺はそろそろタバコが吸いたい」

「そうですね、戻りましょうか」

「あ、私、クリームソーダ飲みかけだった!」

 愛はしまった、と大声を出す。もう時間が経ち過ぎて、アイスも氷も溶けてドロドロになってしまっているだろう。がくりと肩を落とした。

「あーあ……」

「愛さん、もう一度作り直しますので、お店にどうぞ」

「え、いいんですか?」

「もちろん。治部良川さんのアイスコーヒーも淹れ直しますよ」

「さすが、気が効くじゃねえか」

「ふふふ。うちには頼れるアルバイトの大吉くんがいますから。ね、大吉くん」

「…………」

 大吉は須崎を腕に抱えたまま、ぼんやりと歩いている。視線は目の前の道路を映しておらず、どこか遠くに思考が飛んでいるようだった。この人大丈夫かなぁと愛は心配になった。なんというか、雰囲気が薄暗い。その目は半分死んでいるように見える。まるでこの世の全てに興味がなさそうな様子に、愛の背筋がゾクっとした。

 ふと愛は、この青年は、愛なんかよりもっと途方もない悩みと闇を抱えているのではないかと思った。

 そしてそれを須崎に見透かされて、喫茶店でアルバイトをしているのではないかと思った。

 ともあれ、あまり深く介入するのも野暮だろう。治部良川のように明らかに気になるような類のものではない。

 店に戻ってから須崎が作り直してくれたクリームソーダはひんやりと甘く、もう治部良川のスマホのコール音を気にせず堪能できて、とてもおいしかった。


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