第2話 女子高生とクリームソーダ②
「! え……!?」
愛の目がおかしくなっていないのであれば、接客に応じたのは、猫であった。愛の膝までしか身長のない、灰色の縦縞の猫が二足歩行して喋っている。のみならず、首には赤い首輪ならぬ赤い蝶ネクタイをしていて、腰には黒いエプロンを締めていた。
「お好きなお席にどうぞ。ただいまお冷やをお持ちします」
ねこは愛の動揺など一切意に返した様子もなく、愛想よく接客を続け、そしてくるりと背を向けて去っていってしまった。去り際に見えた、エプロンの結び目からチラリと覗く灰色の尻尾は細長く天井に向かってピンと立っており、そしてふさふさしていた。
「…………」
呆気に取られた愛は、その場に立ち尽くし続ける。
なぜ、ねこ? 着ぐるみかな? いや、でも、あの身長からして人間が中に入っているとは思えない。だとしたら本物のねこ? なんでねこが喋って、歩いて、接客しているの?
愛が呆然と立ち尽くしていると、奥からもう一人、ヒョイと店員が顔を出した。
「あれ、須崎さん。顔出してええの」
「はい、彼女は大丈夫です」
「んなら俺の出番はなしか」
その店員は、どことなくイントネーションが標準語とは違った。関西訛りだ。
関西訛りの店員は幸いなことに猫ではなく人だった。
愛より少し年上、大学生くらいに見える青年だ。
くしゃっとした黒髪、色白の肌と細い体は繊細というよりはただの不健康に見える。腰には先ほどの猫の店員と同じく黒いエプロンを巻いている。顔立ちは整っている方だろうが、青年から漂う退廃的かつ無気力な雰囲気がそれを台無しにしていた。全体的に、あまり関わり合いになりたくない部類の人種だった。少なくとも愛の地元にはこうしたタイプの人間はいなかった。
青年店員は空いている席の一つにどっかりと腰掛けると、ポケットからタバコを取り出してゆっくりとふかし始めた。
「…………」
再びの閉口。
店の人間が、客を前にしてこうも堂々と喫煙するなんて。
地元ではそういう店もあった。忙しさがひと段落すると、テレビを見始める中華料理屋のおじさんがいたものだ。けれど、まさか東京にもそんな店があるなんて。愛の中では、東京の飲食店はすべからく接客が丁寧で、そしてどことなく機械みたいに冷たいという印象が根付いていた。
愛がその場でぐるぐる色んなことを考えながら彫像と化していると、青年がタバコを一息吐き出してから、一言。
「突っ立ってないで座ればどう?」
「あ、はい。ごめんなさい」
「なんで謝ってんの?」
「あ、ごめんなさい」
圧のせいで気弱な愛はついつい謝ってしまった。
ひとまず店員のいう通りに席に座る。程なくすると、水の入ったグラスを載せた銀のトレーを両手で掲げ、小脇にメニュー表を抱えた縞猫が再び店の奥から現れた。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
猫は水とメニューをテーブルに置いて、愛想よく目を細めながら言う。だが愛としては注文どころではない。
「やっぱり、猫……」
愛はついついそう呟いた。無理もないだろう。いいかもと思って入店した店で、いきなり接客する猫に出会えば誰でも同じ反応をするはずだ。
すると猫は何を思ったのか、自分の額を肉球でぺちんと叩くと、「あちゃあ」という顔をした。
「申し遅れました。私は店長の須崎と申します」
「すざき、さん?」
「必須事項の須に、山へんの崎と書いて須崎と申します」
「須崎さん……」
「はい。以後、お見知り置きを。では」
須崎と名乗った猫は、ペコリとお辞儀をしてから去っていく。
残されたのは、愛と、店員なのにタバコを吸ってくつろいでいる青年だけだ。
愛はこのとっつきにくすぎる店員に、おずおずと小声で話しかけた。
「あの……さっきの須崎さん? って、猫ですよね」
「猫やな」
「どうして猫が歩いて喋って喫茶店の店員やってるんですか?」
「須崎さんは店員じゃなくて店長や」
訂正すべき箇所はそこじゃない気がする。
「それに、須崎って……あんまり猫っぽい名前じゃないですよね。猫ってもっとこう、シマとかトラとかクロとか、もしくはタマとかミケとか、そういう名前つけません? 須崎って……苗字っぽくないですか?」
青年店員は一際ゆっくり息を吸い込むと、タバコの煙を天井に向かって吐き出した。細めた目の下にくっきりとした隈が浮かび上がっていて、青年の疲労が色濃いことを告げている。
「別に、猫が歩いて喋って接客しててもええやないか」
「はぁ……」
「可愛いし、癒されるし、何よりゆっくりタバコが吸える。こんな最高な店、いくら探しても他にはないで」
「まあ、確かに……」
喫煙に関して愛は一つも理解できないが、確かに縞猫の須崎は可愛い。愛は猫が好きだった。地元にいた近所の猫とよく遊んだものだ。
それにノスタルジックな内装の店の中も落ち着く。外界の音をシャットアウトしてくれているのもいい。まるで故郷に戻ったみたいだ。
「それに須崎さんは須崎さんや。猫っぽい名前かどうかなんて関係あらへん。大体、名前なんて自分でつけるもんやないんやから、いちゃんもんつけられたって須崎さんだって困るやろ」
「まあ、確かに……」
愛は先ほどと全く同じ相槌を打った。青年は面倒臭そうな口調で、ほとんど無気力と言ってもいいくらいなのだが、言っていることは的を得ている。
「で、注文決まったん?」
「いえ、まだです」
青年店員に言われて愛は慌ててメニュー表を開いた。
並んでいるのは店の前で見たサンプル同様、飾り気のない喫茶店メニューばかり。
何にしようか悩んだあげく、独り言のような小さな声でポツリ。
「じゃあ、クリームソーダにしようかな……」
すると青年は、椅子に座ったままくるりと首だけ店の奥の方に向け、大声を出した。
「須崎さん、クリームソーダひとつ!」
店の奥から「かしこまりました」という声がした。
青年店員はそれきり愛に何も話しかけず、黙々とタバコを吸い続けている。
「お待たせいたしました、クリームソーダです」
程なくして須崎の手によって運ばれてきたのは、細長いグラスに入ったクリームソーダ。
なみなみと注がれた薄緑色のメロンソーダの中でシュワシュワと気泡が立ち上る。丸いバニラアイスの上にはさくらんぼが載っていた。
まごうことなきクリームソーダ。愛が地元の喫茶店で、家族や友人たちと一緒によく飲んだそれと、寸分の違いもない。
ストローに口をつけてメロンソーダを飲んでみた。甘く弾ける炭酸の味わいは、懐かしさを感じさせる。
柄の長いスプーンでバニラアイスをすくって食べると、ヒヤリとした冷たい甘さが舌の上でとろけた。
「……おいし」
思わず、笑みが溢れた。
久々に外で自然に笑った気がした。最近はずっと、作り笑いばかりだったから。
しゃりしゃりとしたバニラアイスとメロンソーダを交互に食べたり飲んだりする。上に載ったさくらんぼも、美味しかった。
東京にもこんな場所があるんだなぁ、と思った。
次はお母さんお父さんと来ようかな、と思った。
本当は友達と来たいけど、こんな場所に一緒に来てくれるような学校の子はいない。
私、これから先、やっていけるのかなと思った。
そんな風に考えると、先ほどまで美味しくってたまらなかったクリームソーダの味がしなくなる。スプーンを動かす手が止まってしまった。視界の先が揺らいで、目に涙の膜が張った。
あ、まずい。泣きそう。
「お悩みですか」
学校のことを考えていたせいで再び気が滅入っていたら、突如話しかけられる。声のした方を見ると、須崎がちんまりと立っていた。須崎は猫の顔に慈愛に満ちた表情を浮かべていた。ヘーゼル色のまんまるな瞳で、まるで全てを見透かすかのように真っ直ぐ愛を見つめている。
愛は手の甲で目元をゴシゴシこすると、思わずここ数ヶ月感じていた悩みを吐露した。
「……居場所がなくって。学校では気の合う子がいないから私一人で浮いてるし、東京の人ってみんなせかせかしてて冷たいし……この先、どうすればいいのかわからなくて……どう生きていけばいいのかわからなくて……もう何をしても、楽しめる気がしなくて……本当に笑えることなんかないんじゃないかなって思ってて……」
初対面の、しかも猫にこんな悩みを話すなんてどうかしている。
頭ではそう理解していても、気持ちが追いつかない。愛は誰かに話したかった。苦しい気持ちを吐き出したかった。誰かにわかってほしかった。
須崎は愛の話をひとしきり聞いてから、ゆっくりと口を開き、猫の口から正確な人語を発する。
「誰にでも悩みはあるものです。愛さんの悩みも、愛さんだけのものではない。他の誰もが抱えている類のものです。しかし一歩を踏み出してみると、案外あっさり解決するかもしれません」
「え……でも。もう、笑われたくないし。拒否されるのも……怖い」
そう。結局愛は、怖いのだ。
友達が、居場所が欲しいと思っていながらも、嘲られるのが嫌で自分から一歩が踏み出せない。誰か話しかけてくれないかなと淡い期待を抱きながらも、当然そんなことが起こるはずもなく、願いが打ち砕かれる日々。
そうした小さな絶望を積み重ねていく中で、いつしか愛は前を向いて歩くことができなくなってしまっていた。
孤独は人を暗くさせる。歩みを止めさせる。
「笑われるかどうかは、やってみないとわからない」
須崎は、猫のくせに、やけに重みのある言葉を発した。
「笑う人もいるでしょう。でも、アナタが必死なら、きっと笑わない人だっている。耳を傾けてくれる人だっているはずです」
「…………」
「学校中の、全員と話してみたのですか? お客様が話したのはごく一部の人だけではないのですか。それで決めつけるのは尚早だと思いますよ。恐れずに一歩踏み出すことこそが、重要なのです」
「恐れずに、一歩を……でも、どうやって?」
「そうですねぇ」
須崎はまるで人間がするみたいに前足を胸の前で組むと、肉球を顎に当てた。
「お客様の心がほぐれるまで……ひとまず当店にいらしていただく、というのはいかがでしょう」
「このお店に?」
「はい。そうすれば、お客様の抱えている悩みが、お客様だけのものではないということがおわかりになると思いますから」
「…………」
意味がわからなかった。
どこにも居場所がないという愛の悩みは深刻で、心が苦しくて、落ち着かなくて、いてもたってもいられない。
この悩みが愛だけのものではないというのは、どういうことなのだろう。
須崎のヘーゼル色のまん丸な瞳を覗き込んでみても、真意はわかりそうにない。
穏やかな笑みを猫の顔に浮かべているだけで、これ以上何かを語ってくれそうになかった。ちらりと、客席でタバコをふかし続けている青年店員に視線を送ってみるが、彼は愛と須崎のやりとりに全く興味がなさそうだった。ただただ、ぼんやりと天井を見上げて、燻る煙の行く先を辿り続けている。
愛は青年店員に意見を求めるのを諦め、須崎に向き直る。須崎は相変わらず微笑んでいた。その笑顔は、まるでひだまりの中でくつろいでいる野良猫のように、見ている者までもを和ませるものだった。
愛はその須崎の顔を見て、小さく頷いた。
「お小遣いが、許す範囲で……」
この愛の返事に満足したようで、須崎は喉をゴロゴロと鳴らす。そしてペコリと頭を下げた。
「決まりですね。失礼ながら、お客様のお名前をお伺いしても?」
「愛です。江藤、愛」
「では、愛さん。ごゆっくりどうぞ」
須崎はチョンと頭を下げると、すたすたと店の奥に引っ込んだ。エプロンの裾を持ち上げて、臀部から伸びる縞模様の尻尾が少し誇らしげに揺れていた。
愛はクリームソーダをストローでかき混ぜた。バニラアイスが溶けて、メロンソーダと混ざってしまっている。アイスが溶けたメロンソーダはもったりした甘味があって、これはこれで美味しかった。
クリームソーダを飲み干した愛は、席を立つ。
気配を察した青年店員の方が、タバコをギュッと灰皿に押し付けてから立ち上がり、会計をしてくれた。
「はい、百円のおつり」
チーンとレジがレトロな音を立てて開き、青年の指から愛の掌に百円玉が落とされる。
同時に須崎が現れて、まるでお手本のように丁寧なお辞儀をしてくれた。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしています」
「はい、また来ます」
顔を上げた須崎の髭が嬉しそうにピクピクと動いている。
「ええ。是非ともご贔屓に」
外に出ると、雨が止んでいるのに気がついた。
六月。
そろそろ、夏休み明けにやる学校最大の行事、学園祭についての話し合いがある。
お嬢様学校の学園祭の催し物なんて想像もつかない愛はダンマリを決め込むつもりだ。
まだ、提案するような勇気なんて出ない。
愛が何か言い、蔑みの目と嘲笑と、呆れたため息が教室中に広がるのが怖い。
立ち止まり、ちらりと先ほどの喫茶店を振り返った。
不思議な店だった。
店長が喋る猫で、店員はやる気なく客席でタバコを吸っていた。
もしかしたら夢幻のように消えて無くなっているかもしれないと思ったけど、店は確かに存在している。
私の悩み、あのお店に通っているうちに、解決するのかな。
とてもそうは思えないけれど、今は藁にも縋りたい気持ちだった。
また行こう。店員のお兄さんはともかくとして、須崎さんは可愛かったし。
愛はそう思い、うつむきがちだった視線を上向かせ、駅に向かって歩き出した。
ビルの隙間から見える雨上がりの空では鈍色の太陽が顔を覗かせていて、愛の気分は少しだけ上向いた。
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