さよなら初恋

もり

さよなら初恋

 

 社交界にデビューして二年目のルチアは、初めての恋をした。

 サムウェル公爵家の一人娘として、両親にも兄たちにも可愛がられ、甘やかされて育ったルチアには叶えられないものはないと思っていた。

 そのため、彼に――グレン・アイルトン伯爵に出会ったとき、当然のことながら彼に求婚され、幸せな結婚生活を送れるものと想像したのだ。


 グレンは父親の喪が明けたばかりだったが、ルチアも同じように父親を亡くし、昨年喪が明けて社交界デビューしたので、不謹慎ながらこれも運命だと思っていた。

 お互い適齢期なのに、今まで別の相手に出会わなかったのは、二人が出会うためだったのだ、と。

 その気持ちを素直に兄に――公爵位を継いだばかりの兄のレイフに伝えれば、どうにかしようと答えてくれた。


 そして、ルチアはグレンに兄から紹介され、何度かのデートに誘われ、プロポーズされたときには舞い上がった。

 プロポーズは迷うことなくすぐに受け、その日から結婚式の計画を立て始めたルチアは、グレンがずっと冷めた表情であることに気づかなかったのだ。

 ようやく薔薇色の世界から現実世界に引き戻されたのは、夢見ていた初夜がひどく苦痛を伴うものだと知った後だった。


「これで無事に結婚は成立した。よって、今後は必要な時以外は会うこともないだろう」

「……グレン様? どういう――」

「その名前で呼ばないでくれ。私はあなたにそれを許した覚えはない」

「で、ですが……」


 今までの優しかったグレンの態度が一変したことで、ルチアは戸惑った。

 出会ったときから優しく、デートのたびに花束を持って迎えに来てくれ、ずっとルチアの希望を叶えてくれていたのだ。

 そんなグレンが冷たい目をしてルチアを見ている。

 そこでようやく、ルチアはグレンの冷めた目が今までと変わらないことに気づいた。


 口角が上がっていたから笑ってくれていると思っていたが、この冷たい青色の瞳は何も変わっていない。

 ただ今は口角を上げることさえ――微笑んでいるふりさえしていないだけなのだ。


「我がアイルトン伯爵家は父が多額の借金を遺して亡くなったことで困窮していた。そこにあなたの兄上であるサムウェル公爵が多大な援助を約束してくれたおかげで領地も何もかもが救われる。そのことには感謝しても足りないが、だからといって貴女のことが好きなわけではない。最低限、夫としての務めは果たすつもりだが、それ以上は期待しないでくれ」

「さ、最低限とは……?」

「パートナーが必要な夜会などは前もって伝えてくれ。他には後継ぎをもうけることだ」


 もちろん、貴族の娘として生まれたからには後継者となる息子を産むことは義務だとわかっている。

 しかし、これほど冷たく無機質に告げられたことに、ルチアは大きなショックを受けた。

 そんなルチアを慰める素振りも見せず、グレンは乱れた服を簡単に直すと寝室から出ていく。


「ああ、確か女性は妊娠しやすい時期というものがあるらしいから、それは君の乳母にでも訊いてくれ。その時期にはまた義務を果たすから」


 グレンはドアの前で足を止めると、そう告げて出ていってしまった。

 ルチアはベッドの上に座ったまま、その後姿を声もなく見つめていた。

 夜衣ははだけているだけで全て脱げているわけではない。

 それだけでおざなりに初夜を終わらせられたことがわかるのだが、ルチアは何もわかっていなかった。


(グレン様は――旦那様はきっとお疲れになっていたんだわ)


 現状が信じられず、ルチアはそう自分を納得させた。

 明日からはアイルトン伯爵夫人としての生活が始まる。

 だからもう寝ようとベッドに横になり、体の気持ち悪さを無視して目を閉じた。


 ――翌朝。

 グレンに言われたとおり、昨夜の出来事を乳母のポリーに告げた。


「まさかそんな……伯爵様は本当にそのようなことをおっしゃったのですか?」

「ええ、そうよ。きちんと理解はできなかったけれど、要するに私に伯爵夫人としての義務を果たしてほしいってことよね?」

「え、ええ。さようでございますね。ですが……」

「なら、頑張らないと! さっそく、このお屋敷の家政婦に会うべきだわ」


 ポリーはかなりショックを受けた様子だったが、ルチアは気付かなかったふりをして明るく振る舞った。

 まだグレンとは出会って半年なのだ。

 伯爵家が困窮していたなら、父親の死の悲しみも癒えぬうちに家督を継いで大変だったのだろう。

 さらに結婚となれば、グレンも冷静ではなかったはずだ。

 公爵家の援助を受けることでプライドが傷ついたのかもしれない。

 それでも、資産家の女性は他にもいるのにルチアを選んでくれたのだから、と前向きに捉えることにした。


(きっと……妻として立派に務めを果たしていれば、旦那様も私のことをちゃんと好きになってくれるはずよ)


 一晩眠ってすっきりした頭で考えたルチアは、これからの未来に希望を持っていた。

 ルチアはその日からアイルトン伯爵家の女主人として張り切った。

 甘やかされて育ったとはいえ、しっかり教育は受けている。

 家政婦から話を聞き、料理長と打ち合わせをして、執事のハンスとも話した。

 夕食は少しだけ豪華にしてもらい、食卓でグレンを待つ。

 しかし、グレンが現れることはなかった。

 二日目も三日目も、五日目も。


 そして七日目の夜、夕食の席についにグレンが現れた。

 だが顔を輝かせるルチアに、グレンは席に着くことなく言い放つ。


「悪いが食事は一緒にできない。何か特別な時――晩餐会を開くとか、そういう時には前もって伝えてくれ。だからもうこういう無駄なことはしないでほしい。では、私は出かけてくる」


 ルチアは並べられた食器を前に座ったまま、出かけるグレンを見送ることもできなかった。

 食事の間、他愛ない話ができれば少しは打ち解けられるのではとの希望を抱いていたのだ。

 それが打ち砕かれたルチアは立ち上がると、ハンスに当分は晩餐室を閉め切るようにと命じた。


 翌夕。

 ルチアが家族用の食事室で夕食を終えて部屋に戻ると、ポリーから今夜は伯爵様が寝室にいらっしゃるはずです、と聞いて驚いた。

 どうやらポリーはルチアに緊張させないようにと、ぎりぎりまで言わなかったらしい。


「でも、旦那様は今夜もお留守なのではないの?」

「いえ……おそらくお戻りになるかと……」

「そうなの? では、やっとお話できるわね」

「……さようでございますね」


 喜ぶルチアからポリーは顔を逸らし、ぼそぼそと答えた。

 ルチアは首を傾げながらもいつもより薄い夜衣に袖を通し、上着を羽織る。

 期待に胸を膨らませ寝室で待ち、あくびを懸命に堪えているところにグレンがやってきた。


「旦那様、お久しぶりです。何か飲まれますか?」

「いや、必要ない。もうベッドに入ってくれ」

「……はい」


 ベッドに入ったらすぐに寝てしまいそうだ。

 それではあまり話ができないと心配しながらベッドに入ったルチアは、ひと言もグレンと話をすることはできなかった。


 明かりがすぐに消され、グレンの顔を見ることもできず、初夜ほどの苦痛はない行為。

 眠気は消えてしまったが、わけのわからない悲しみが込み上げ、グレンが無言で去ってから、ルチアは泣いた。

 だが、その行為は五日ほど続き、またグレンと会わない日々が続く。

 何か伝えたいことがあれば、ハンスを通せばいい。

 この状態はルチアの夢見たものではなかったが、それほど異常ではないことは、結婚後に招かれるようになった茶会で知ることができた。


 未婚のときには耳にすることのなかった明け透けな男女間の話。

 初めの頃は驚いたが、今ではかなり慣れてきていた。

 そこで知ったのは、ルチアたちがいわゆる仮面夫婦というもの。

 後継ぎさえ生まれれば、後はもうお互い好きに恋人を作ってもいいらしい。

 ルチアの両親は仲がよく、仮面夫婦なんて言葉を知りもしなかった。

 だが二人は親同士が決めた結婚で、結婚してから愛が芽生えたというのも母親からよく聞いていたので、まだ希望は捨てていなかった。


(もうすぐ結婚して初めての伯爵家主催の夜会を開くもの。それが上手くいけば、きっと旦那様も私を見直してくださるわ)


 ルチアが世間知らずのお嬢さんだったというのは、結婚後の茶会で何度も言われていた。

 それは確かなことで、だからグレンも妻としてルチアを見てくれないのではないかと考えたのだ。

 結婚してからの二カ月、夜会に同伴したのはルチアの実家であるサムウェル公爵家の夜会だけだった。

 そのため、主催者としてでも一緒に過ごせることが、ルチアは楽しみだった。


 やがて、ルチアが念入りに打ち合わせして準備した夜会の日。

 どうしても主催者として招待客に気を配らなければならず、グレンと話はほとんどできなかったが、彼の笑顔を見ることができてルチアは満足していた。

 夜会も大成功とまではいかなくても、初めての主催としては上出来だろう。

 少しだけ休憩したくなり、ルチアは会場の隅にある大きな植木鉢の陰に隠れていた。

 そこで聞こえてきたのは、噂大好きなご婦人三人の話し声。


「久しぶりに見たわね、カードン大佐のお嬢さん」

「名前は確か……ナタリーだったかしら? でも昔の恋人の奥様が主催する夜会にやってくるなんて、なかなか大胆じゃない?」

「あら、昔じゃないわよ。今だって、伯爵は足繁く大佐のお家に通っているじゃない」

「それは大佐の体調が思わしくないからでしょう?」

「そんなのただの言い訳でしょうよ。いくらお世話になったからって、新婚の妻を置いて出かけるかしら? 一緒にお見舞いに行けばいいじゃない」

「それもそうね」


 カードン大佐はグレンの父親と仲がよく、幼い頃からお世話になったとは、結婚前に聞いていた。

 ただ病気療養中で結婚式には出られず紹介はできそうにないとも。

 結婚生活が始まった当初は、執事のハンスにグレンの出かけ先を尋ね、大佐のお見舞いだと返答を受け納得もしていた。

 だが、ハンスが答えるときの微妙な間と奇妙な態度を今さらながら思い出す。


 ルチアは女性たちに見つからないようにそっと離れ、別の物陰から会場内を見渡した。

 背の高いグレンはすぐに見つかる。

 その顔にはルチアが今まで見たことのない笑みが浮かんでおり、目線の先には儚げな女性がいた。

 先ほど出迎えのときにグレンから幼馴染だと聞かされた女性――ナタリーだった。

 離れた場所で別々の相手と話しているのに、二人は時々視線を交わしている。

 ルチアは叫びだしたくなる衝動をどうにか抑え、必死に主催者としての務めを果たした。


 今までナタリーに会ったことがなかったのは、ルチアが出席するような催しには呼ばれるような身分ではないからだろう。

 それとも意図的に避けられていたのかもしれない。

 ルチアは大佐にも会ったことはなく、グレンの人生のほんの一部しか知らされていなかったことに気付いた。


 しかし、ここで嘆いている場合ではない。

 過去はどうであれ――たとえ今もだとしても、妻はルチアなのだ。

 ルチアは背筋を伸ばし、挨拶を交わしながら会場内を歩き、二人の視線の間に割って入るように立つと、笑顔を浮かべてグレンへと向かった。


「旦那様、何も問題はないでしょうか?」

「ああ。特にないな。大したものだよ」

「ありがとうございます」


 グレンの顔から笑みは消えていたが、ルチアはそれでも嬉しかった。

 この夜会について褒められたと思える言葉をもらったのだ。


「それにしても、盛大だな」

「資金についてはご心配には及びませんわ。これは私個人の財産から――」

「何だって!?」


 伯爵家が困窮していたと聞いたルチアは、持参金とも実家からの援助とも別に持っていた私財から費用を賄ったのだ。

 新しい伯爵夫人として、夜会を催すのは当然の義務であると思っていたため、伯爵家が侮られないようにと悩んだ結果だった。


 グレンは大きな声で注目を集めてしまったことで、それ以上追及することはなかったが、あからさまにルチアに対しては不機嫌になった。

 これでは夫婦仲が悪いと噂されてしまう。

 焦ったルチアはグレンの機嫌を取るように話しかけ、それがかえって周囲からの同情を引いていることになってしまっていた。


 * * *


 あの夜会の日から二年。

 ルチアは未だにグレンに好きになってもらおうと努力を続けていた。

 自分の私財を使うことはせず、それでも屋敷を美しくするために庭の手入れに力を入れ、季節を問わず花で溢れるようにしている。

 屋敷の中も常に花を飾り、華やかさを演出して、たまに茶会を主催してもいた。

 だが夜会は費用がかなりかさむので年に一回だけにして、特別感を演出するのだ。

 その夜会についてはグレンに許可も取っている。


 公爵家の援助のおかげでアイルトン伯爵家は持ち直し、今年は黒字が見込めるらしい。――兄であるサムウェル公爵から聞いた話だが。

 二年前と違って、グレンは時々家で夕食をとることもあり、自然と会話することも増えていた。

 相変わらずグレンはカードン大佐のお見舞いに頻繁に出かけてはいたが、それについては気にしないことにしている。

 お世話になったカードン大佐が病床にあるのなら、心配なのは当然だろう。

 しかし、本当はそのことに触れて、グレンに拒絶されることが怖かった。


(大丈夫。もう二年だもの。きっと旦那様だって私のことを……)


 好きになってくれたとはまだ言えないかもしれないが、少しずつ心を開いてくれている気がしていた。

 ルチアはご機嫌で出かける支度を始めた。

 今日でちょうど結婚二周年なのだ。

 その記念に、劇場で観劇をしてから、屋敷で少し遅めの晩餐をすることになっていた。


 支度を終えて部屋で待っていても、グレンが帰宅したとの知らせはなかなかこない。

 このままでは劇が始まってしまうので、先に劇場に向かうことにして、グレンへの伝言を従僕に託す。

 遅れるかもしれないが、グレンは劇場へ来てくれるだろう。

 楽観的に考えて、ルチアは劇場で出会う友人たちと挨拶を交わし、予約していたボックスシートに座った。


 男性が約束に遅れることはよくあること。

 だから気にしない。

 ルチアは舞台に夢中になっているふりをしながら、今か今かとグレンが現れるのを待っていた。

 最近、グレンが見せる困ったような笑顔で「遅れてすまない」と言ってくれるに違いない、と。


 結局、ルチアは舞台の内容も入らず、アンコールの前に劇場を後にした。

 急いで屋敷に戻れば、グレンが待っているかもしれない。

 入れ違いになるのを恐れて、劇場に来なかったのかもしれない。

 そして屋敷に帰ったルチアは、腕を振るってくれた料理人に謝罪して、自室へと入った。

 その夜、グレンが屋敷に戻ることはなかったからだ。


「――旦那様、一昨日はどちらにお泊りになったのですか?」


 二日経って、ルチアがようやく口にすることにできた質問に、グレンは不快そうに眉を寄せた。

 ルチアはグレンの機嫌を損ねたことに緊張しながらも、答えを待った。


「カードン大佐の体調が悪化したと知らせがあったんだ。そのせいで君に連絡ができなかったことは申し訳なかったと思う」

「……それで、大佐のご容態は?」

「ああ、大丈夫だったよ。風邪をひいてしまったせいで、咳が止まらなくなってしまったようだ。それで呼吸が難しくなってね。医師の処置が功を奏したおかげで、今はもうかなり回復している」

「それなら安心ですね」


 グレンはルチアが大佐の心配をしたことで気をよくしたのか、穏やかな表情に戻り、お茶を飲んでいる。

 だが、ルチアは笑顔で答えながら、心の中はずたずただった。

 カードン大佐のことが心配なのは正直な気持ちだが、その連絡をしてきた相手に対してはどうしても嫉妬してしまう。


 今回の計画は、二周年記念のお祝いだとグレンには伝えていなかった。

 本当は望んでいない結婚を思い出させてしまうのではないかと、不安だったからだ。

 それに、初めての夜に告げられたとおり、毎月五日から七日にわたって夜にグレンが寝室に訪れる行為は変わっていなかった。

 それ以下もそれ以上もない行為は、ただただ義務を果たしているだけ。

 しかし、もう二年になるのに、ルチアには妊娠の兆しが一向になかった。


 妊娠すれば、子どもが生まれれば、グレンは変わってくれるのではないか。

 子どもだけでなく、少しはルチアのことを大切にしてくれるのではないか。

 そんな希望は、その夜に月のものが始まったことで、また打ち砕かれてしまった。


「また……」

「ルチア様、こればかりは仕方ありません。ですが必ず神様もルチア様の頑張りを見ていらっしゃいます。ですから、そろそろ――」

「もう二年よ? 旦那様はしっかり義務を果たしてくださっているのに、それにお応えできないのは、私のせいだわ」

「まさかそのような! ルチア様のせいなどではありません!」

「でももう……疲れたわ……」


 今までずっと頑張ってきた。

 この二年間、陰で悪く言われようと夫婦仲を揶揄されようと笑顔でかわし、グレンを信じて耐えてきたのだ。

 いつかきっと、グレンは私を好きになってくれる、と。

 しかし、もうルチアは疲れていた。


 事情があったとはいえ観劇を連絡もなくすっぽかされ、二日も帰ることなく、グレンは昔の恋人と一緒に過ごしていたのだ。

 その弁解も、ルチアが訊くまで何もなかった。

 それほどにルチアはグレンの中で軽い存在なのだろう。

 そこに月のものがきて、ルチアの心はポッキリ折れてしまった。


「……明日、公爵家に戻るわ」

「ルチア様!?」

「お兄様には迷惑がられるかもしれない。それよりも怒られるかもしれない。だけどもう、耐えられそうにないの」


 嘆くルチアに、ポリーはもう何も言うことができなかった。

 この二年、ルチアがどれだけ努力と我慢をしてきたかを知っていたからだ。


 そして翌日。

 ルチアはいつものようにグレンに会うことなく、公爵家に戻った。

 執事のハンスには、しばらく公爵家に滞在する、と伝えて。


「――ルチア、帰ってくるなら先に言ってくれればよかったのに」

「ごめんなさい、お兄様。お客様がいらっしゃったのね……」


 まだ来客には早い時間だと思っていたが、誰か客間にいるらしい気配は伝わってきていた。

 突然の里帰りに驚く兄のレイフに、ルチアは謝罪する。

 ところが兄は楽しげに笑った。


「まあ、そう気にする相手じゃないさ。お前もよく知っている相手だ」

「私が? 誰かしら」

「マシューだよ」

「マシュー? まあ、久しぶりね!」


 マシューはエリクソン侯爵家の嫡子で、兄妹で仲良くしていた幼馴染である。

 だが、マシューは一年前に妻を亡くしたばかりで、この一年は領地に籠っていたのだ。

 マシューの妻の葬儀にはルチアも参列した。

 彼女のことはそれほど知らなかったが、酷く悲しむマシューを見て、ルチアは不謹慎にも羨ましく思ってしまったことを思い出す。

 ほんの少しの気まずさを隠して、ルチアは客間へと入った。


「久しぶりね、マシュー。子どもたちも連れてきたのね!」

「ああ、久しぶりだな。アイルトン伯爵は?」

「さあ? お屋敷に戻った頃かも」


 ルチアはマシューの子どもたちもいることに喜んだ。

 娘のアマリーは前回――葬儀のときにはまだ首もすわっていない赤子だったが、今はよちよちと歩いている。

 息子のケントはちょこんとお行儀よく座って絵本を読んでいた。


 子どもたちを見て顔を輝かせながらも、グレンのことを問われて答えるルチアの声は冷たかった。

 そのことにマシューは眉を寄せたが、特に触れるつもりはないようだ。


「王都にはどれくらい滞在するの?」

「いや。もう帰るよ。用事は終わったからな」

「そうなの? 残念ね」


 マシューの返事にルチアはがっかりしながら、アマリーを見つめた。

 もしグレンとの間に子どもがいれば……。

 何度も思ったことを頭から振り払い、今度はケントを見て微笑んだ。

 ルチアは子どもが大好きで、孤児院にもよく慰問に出かけていた。


「それで、ルチアはどうして急に帰ってきたんだ?」

「それは……」


 ルチアの後から客間に入ってきたレイフがソファに腰を下ろすと、ずばり訊いてきた。

 ルチアが口ごもりながらちらりと子どもたちの子守を見ると、マシューが気を利かせて下がるようにと言いつけた。

 子守はアマリーを抱き上げ、マシューに促されて絵本を閉じたケントの手を引いて出ていく。


「俺もいないほうがいいか?」

「ううん、大丈夫。マシューは家族も同然だもの」


 ルチアは言いながら、グレンとは家族になれなかったなとぼんやり考えた。

 しかし、感傷に浸っている場合ではない。

 きちんと兄には伝えないといけないのだ。


「お兄様、私……旦那様と離婚するわ」


 勇気を出して言うと、一瞬時が止まったように沈黙が落ちた。

 その沈黙を破ったのは、レイフの大きなため息だった。


「もう決定事項なのか?」

「はい。私の意思は変わりません」

「アイルトンはどう言ってるんだ?」

「旦那様には――伯爵様にはまだ伝えていません」

「そうか」


 再び大きなため息を吐いて、レイフは立ち上がった。

 それから呼び鈴を鳴らす。


「酒が飲みたいところだが、熱いお茶にするよ」

「そうだな。判断力はなくさないほうがいい」


 冗談っぽくレイフが言うと、マシューがにやりと笑って答える。

 懐かしい二人のやり取りを見て、ルチアも緊張が解けていった。


「反対しないの?」


 運ばれてきた熱いお茶を注意しながら一口飲んで、ルチアは切り出した。

 すると、レイフは驚いたようにルチアを見る。


「反対してほしいのか?」

「いえ、もちろん違うわ。でも、この結婚は私の我が儘でお兄様に調えてもらったものだから」

「まあ、確かにお前の希望は聞いたよ。だが、決めたのは私だ。お前には多くの縁談が毎日山のように持ち込まれていたからな。ほとんどがお前の身分と財産目当てだった」

「財産目当てだというのなら……」

「アイルトンもそうかもな。だが他の男たちと決定的な違いは、彼自身からお前に近づいたわけじゃないところだな。そして、お前が彼を望んでいたってことだ」

「要するに、困窮していた旦那様に……伯爵様に、私がつけ込んだってことね」

「まあ、そうなるな」


 慰めもなくあっさり頷いたレイフに、ルチアは唖然としたが、すぐに噴き出した。

 どうやら笑いを堪えていたらしいマシューも声を出して笑う。


「酷いわ、お兄様。少しくらい慰めてよ」

「そうだなあ……。お前は私の可愛い妹だよ」

「棒読みだわ」

「本気で思ってるよ。だから、お前が離婚したいと願うなら、結婚したいと願ったときと同様に全力で応援するぞ」

「じゃあ、俺も応援するよ。ルチア、気分転換に俺の領地に来ないか?」

「エリクソン侯爵領に?」

「ああ。父さんと母さんも久しぶりにルチアに会えたら喜ぶよ。前回はそれどころじゃなかったからな」

「そうね……」


 マシューの提案に、ルチアは考えた。

 この二年、マシューの妻の葬儀以外はずっと王都で暮らしていた。

 本当はグレンの領地――アイルトン伯爵領に行きたかったが、必要ないと断られていたのだ。

 離婚についての決着はついていないが、いい気分転換になるだろう。


「では、伯爵様に手紙を書いてから伺うわ」

「それはもう伯爵家には帰らないという意味か?」

「必要な荷物はもう引き揚げてきたの」

「まったく……。ルチアはこうと決めたら絶対に譲らないからな」

「昔から頑固だったよな」

「二人とも酷いわ」


 呆れ半分でレイフがぼやけば、マシューも同意する。

 ルチアは怒ったふりをしているが、その目は笑っていた。

 もう吹っ切れているのだろうと、レイフは安堵しつつも後悔していた。


 ルチアがグレンとの結婚を望んだからでもあったが、レイフ自身も良縁だと思えたのだ。

 グレンは困窮しているにもかかわらず、周囲に頼ることなく、見栄を張って借金を増やすでもなく、着実に領地を改善して利子だけでも返済していた。

 だが目先でしかものを見ない貴婦人たちからは花婿候補として対象外とされているのが残念で、ルチアから恋をしたと相談されたときにはさすが妹だと兄馬鹿ながらに思ったものだ。


 グレンはレイフからの申し出に迷ったようではあったが、何度かルチアとデートを重ねたうえで求婚してきたのだから、祝福するべき結婚だと思えた。

 その後に何があったのか大体は把握しているが、ルチアの心の中まではわからない。

 それでもルチアが離婚すると決めたのなら、レイフは止めるつもりもなかった。

 手助けの必要もないだろう。

 決断すると早いルチアは、二日滞在した後のマシューと一緒に旅立ってしまった。

 離婚するとのグレンへの手紙は旅立つ前日に届けたらしいが、グレンがレイフの許へ訪ねてきたのはその翌日だった。


「――閣下、妻と話をしたいのですが、会わせていただけませんか?」

「今ここにはいない」

「では、どこへ?」

「どこだろうと、もう君には関係ないんじゃないかな。離婚するのだから」

「まだしていません! いいえ、それよりも私は彼女と離婚するつもりなどありません」


 グレンはかっとなったのか声を荒げたが、すぐに冷静になろうと努めているようだった。

 そんなグレンをレイフは冷ややかに見る。


「ルチアからの手紙を読んだのはいつかな?」

「今朝です」

「手紙は一昨日には届いていたはずだが、その間何をしていたんだ?」

「それは……」


 グレンは一昨日に大事な報告があるとカードン大佐に呼ばれ、その日は遅くなったためにそのまま泊まったのだ。

 昨日屋敷に帰宅したときには疲れており、ルチアからの手紙があると執事のハンスに告げられたが、後回しにしてしまった。

 公爵家に――実家にしばらく滞在すると聞いていたので、手紙も夜会か何かが開催されるとの内容だろうと思い込んで。


「もし、すぐにでも手紙を読んで駆けつけていれば、ルチアはここにいただろうね」


 レイフの言葉はグレンに突き刺さった。

 しかし、このまま引くわけにはいかないと食い下がる。


「閣下は、妻が――妹君が離婚することに同意なさるんですか!?」

「結婚してからの君の行動を見ていると、同意せざるを得ないだろう。どう見ても妹を蔑ろにしているようにしか思えなかったからな」

「妻がそう言ったのですか?」

「いいや。この二年間、ルチアは君について何か言ったことはなかったよ。だが、世間の噂というのは自然と耳に入ってくるものだろう?」

「閣下は、くだらない噂を信じられるのですか?」

「噂もすべては嘘とは言えない。世情を知るにはよい手段でもある。だがまあ、それは置いておいても、もう二年も続いている噂だ。君がカードン大佐の屋敷に頻繁に訪れるのは恋人のナタリー嬢と会うためだ、とね」

「そんなものは嘘です! 確かに、昔はナタリーのことが好きでした。ですが――」


 グレンの訴えを、レイフは片手を上げるだけで制した。

 そして軽蔑を隠さないまま告げる。


「噂が嘘か真実かが問題ではない。ルチアがずっと一人でその噂にさらされていたことだ。実際、ルチアはほとんどの夜会に一人で出席していた。もし君が、噂を知っていて放置していたなら、非道と言わざるを得ない。もし知らなかったのなら、無能としか言いようがない。それで、二年間黙って耐えていたルチアが離婚したいと望んでいることに、私が反対する理由があるか?」


 何も反論することができず、グレンは押し黙った。

 新婚当初は、まだナタリーに未練があったのは事実だ。

 自分の運命を呪いもした。

 だがルチアを受け入れられなかった一番の理由はプライドのせいだった。

 困窮した伯爵家を救うために、援助と引き換えに結婚しなければならない自分が惨めだったのだ。

 そのせいで罪のないルチアに八つ当たりしてしまった。


 それでも伯爵家の資産状況が改善するにつれ冷静になってくると、ルチアがとてもいい妻であることに気付いた。

 初めて出会ったときに、純粋で可愛らしい女性だなと思ったとおりに。

 しかし、今さらどういった態度を取ればいいのかわからず、関係改善に努めることはなかった。

 それでも、今年は領地も豊作で公爵に立て替えてもらった借金の返済を開始できる。そうしたら、ルチアと改めて結婚生活を始めようと考えていたのだ。


「先日の観劇をルチアは楽しみにしていたよ。結婚二周年のお祝いなんだと。ただ君には内緒にしておくとも言っていたが、それはなぜなんだろうな?」

「二周年……」


 珍しくルチアから特別な理由もないのに観劇に誘われたのは、そういうわけだったのかと、グレンは自分の鈍さに腹を立てた。

 この二年、自分が酷い夫だった自覚はある。

 あの日も取り乱すナタリーを宥めるのに精一杯で、連絡することが抜け落ちてしまったのだ。

 その後ろめたさから、ルチアに何をしていたのか問われたとき、不機嫌さで誤魔化してしまった。

 本来なら謝罪するべきだったのに。


「――お願いします。妻がどこにいるのか、どうか教えてください。妻に――ルチアに会いたいんです」


 そう言って、グレンは深々と頭を下げた。

 レイフはそんなグレンに心動かされた様子もなく、話は終わりだとばかりに部屋から出ていった。


 * * *


 ルチアがエリクソン侯爵領を訪れて十日が過ぎた頃。

 マシューの子どもたちと遊んでひと息ついていたところに、来客を知らされた。

 こんなところまでやってくるなんて、と疑問に思いながらも、それが誰なのかはもうわかっていた。


「どうする、ルチア? 俺が追い返そうか?」

「いいえ、大丈夫よ。せっかくここまで来てくれたんだもの。話くらいはしないと。ありがとう、マシュー」


 マシューにお礼を言って、ルチアは軽く身支度すると、応接間へと足を運んだ。

 結婚してからの二年間、こんなふうに改まって話をするのは初めてだと思うと、おかしくなってくる。

 ルチアが応接間へ入ると立ち上がったグレンは、少しやつれて見えた。

 ここまでの旅で疲れているのだろう。


「お久しぶりです、伯爵様。わざわざご足労いただき、ありがとうございます」

「いや、わざわざなんてことはないよ。君ときちんと話をしたいから」

「そうですか?」


 もう離婚をするというのに何の話だろうと疑問に思い、ルチアは気付いた。

 きっと財産についてなのだろう。


「ご心配なさらなくても、今回は私からの申し出ですので、持参金の返還は必要ありません。兄が援助した資金についてはお二人で交わした約束どおりになさってください。もし他にご不明点があれば――」

「金はどうでもいんだ! そんなことより、なぜ急に離婚などと言いだしたのか知りたい!」

「急に、ですか?」


 結婚式の夜、お金について触れていたのだから、きっとそのことなのだろうと思っていたが違うらしい。

 それに今までずっと、この結婚を忌避しているようだったのに、何を焦っているのだろうと不思議だった。

 そこでその理由に思い当たる。


「世間には私からではなく、伯爵様から離婚したことにしてくれてかまいません。それなら伯爵様の評判に傷がつくこともありませんし、今なら本当にお慕いしている方と再婚できるでしょう?」

「評判などどうでもいいんだ! 私は貴女と離婚などしない!」

「なぜですか? ナタリーさんとようやく一緒になることができるというのに」

「ナタリーはもう結婚が決まった! あ、いや、ナタリーは関係ないんだ。世間の噂がどうであろうと、私とナタリーの間には何もなかった。それを気にしていたのだったら――」

「別にどうでもかまいません。いえ、ナタリーさんのご結婚についてはお祝い申し上げます」


 興奮して否定するグレンに、ルチアは淡々と答えた。

 ルチアは自分でも驚くくらいに冷静だった。


「確かに、私はアイルトン伯爵家の妻としての義務を放棄することになります。そのことは申し訳なく思っておりますが、だからこそ、伯爵様はお許しくださると思っておりました」

「義務などと……」

「この二年間、伯爵様は義務を果たしてくださっていたのに、私は身ごもることができませんでした」


 ルチアの言葉に、グレンはさっと青ざめた。

 結婚式当日の自分の言葉が――それからの自分の行動が今すべて跳ね返ってきている。


「跡継ぎをもうけることは大切な義務でしょう? 伯爵様は新しい奥様を娶られるべきです」

「新しい妻などいらない。私は……私は貴女が好きなんだ!」


 言葉にしてグレンは初めて気付いた。

 いつの間にか自分は、妻に恋していたのだ、と。

 しかし、自分の今までの態度と、カードン大佐の病状とが枷になって、現状を変えようとすることができなかった。


 だからこそ、もう少しすれば――ナタリーが結婚すれば、今までグレンが担っていたカードン大佐の話し相手としての役割をその夫に任せられる。

 そうすれば、噂も払拭できるくらいにルチアと一緒にいられる。

 きっとルチアも喜び、今まで以上に良き妻になるだろう。

 そう考えるだけで、自分の恋心を認められなかったのだ。

 

「ルチア、私は――」

「ありがとうございます。伯爵様にそうおっしゃっていただいて、二年前の私も少しは報われます」

「二年前……?」

「はい。二年前、伯爵様に恋していた私なら喜んだでしょう。ですが今は……そのお言葉にお応えすることができず、申し訳なく思います」

「申し訳ない? だが、貴女は私を好きだったのだろう? それならもう一度やり直すことはできるはずだ」

「枯れてしまった花を元に戻すことはできません。私の恋心も、花と同じように枯れてしまいました。そのことに気付くのに時間はかかりましたが、この一年はもう執着でしかなかったと、今ではわかっています」

「執着……」

「伯爵様、どうか離婚してください。そして今度こそ、伯爵様の望まれた方と結婚してください」


 ルチアは深く頭を下げると、立ち上がった。

 もう顔を合わせないほうがいいと判断したのだ。

 もしエリクソン侯爵たちが、グレンに泊まっていくよう勧めるなら、しばらくは部屋に籠もっていよう。

 そう考えながら応接間を出ていこうとしたルチアに、グレンも立ち上がり声をかける。


「私は別れるつもりはない。離婚はしないぞ!」

「……それでも私はかまいません。ですが、伯爵家に戻るつもりはありませんので……伯爵様はどうか、義務を果たしてください」

「ルチア!」

「その名前で呼ばないでください」


 結婚してから今日まで、一度も名前で呼ばれることはなかった。

 プロポーズの時でさえ、「君と一緒に伯爵家を支えていけると嬉しい」だったのだ。

 よくあんなセリフで喜べたものだと、恋は盲目だとよく言ったものだなと思い、ルチアは扉の前で最後に振り返った。

 そこには二年半前に初めて恋した人が、愕然とした様子で立っていた。


「さよなら」


 初めての恋は夢のように楽しかったが、苦しくもあった。

 そして夢から覚めた今は少しだけ切なく、それでも心は晴れてすっきりしていた。


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さよなら初恋 もり @winwwwing

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