踏み出す勇気

佐倉真稀

もうつま先は見ない

 じゃきっと音がしてぱさりと一塊の黒い髪がナイロンの布を滑り落ち床に散らばった。

 長い間伸び放題の髪を切りに俺は美容院に来た。

 ここは母が行きつけの美容院で、店長と呼ばれた年配の男性に俺を押し付けて帰っていった。

 一応髭などはあたってきて、顔自体はすっきりしているはずだ。

『すっきりした髪型にしてください』

 母は美容師にそう言った。その顔は嬉しげで、上機嫌だった。

 引き籠りを続けた間、一度も切らなかった髪。

 それが切られて足元に落ちていく。

 ケープからのぞくつま先を見てああ、俺はずっとつま先を見て過ごしてきたんだなと気付いた。


 物覚えのついたころから、俺は母の後ろに隠れるような引っ込み思案で、地面を見ながら歩く癖があった。

 人の目が怖いから、顔を合わせないためには俯くしかなかった。

 父も母も優しくて可愛がられて育った。

 なのに他人は怖かった。

 一度、近所の子に乱暴にされて、突き飛ばされて怪我をしたことがあった。

 一回り体の大きな男の子で、近所の子供のカースト一位のような子だったと思う。

 顔も名前ももう覚えてはいないけれど。

 保育園や小学校ではよく足を引っかけられたので、余計下を見て歩く癖がついた。

 見えるのはつま先だった。

 躓かないように歩く。

 そんな俯いた陰気な子供がいじめられないわけがなかった。

 暴力にさらされたとか、そんなんじゃない。

 俺を見てにやにや笑う。

 近付くとさっと避けられる。

 なにかを聞いてもはぐらかされて答えてくれない。

 班分けでいつも最後に残って、渋々受け入れられた先で、無視される。

 そんな積み重ね。

 俺は心が折れて部屋から出られなくなった。

 中学の二年にあがる頃だ。

 母や父が部屋から連れ出そうとすると俺が震えて立てなくなってしまうのを見て、両親は相当にショックを受けたようだった。

 トイレやお風呂、ダイニングでの一人での食事に行くのはできた。

 カウンセリングも、部屋から出られないので、両親がいろいろ奔走してくれたみたいだ。

 結果、本人の心次第ということに落ち着いて、見守るだけになった。

 優しい二人には本当に迷惑をかけたと思う。


 勉強は嫌いじゃないから教科書や問題集とか自主的に学習はしていた。

 でも大学入学の資格を取るには試験場で試験を受けないといけないし、通信の大学でもスクーリングに通わないといけない。

 そこを考えると足が震えた。


 俺はもうすぐ18歳になる。


 両親に与えてもらったパソコンで画像配信やアニメやSNSは見ていた。

 その中で、投稿WEB小説を読んだ。


 何のことはないラブコメだ。

 ずっと引き籠りだった主人公が幼馴染に認められたいと、一念発起して頑張る話。

 何故だか涙が止まらなかった。

 そうしてしばらく画面を見つめていた。

 服の袖で涙を拭き、椅子から腰を上げて、立ち上がった。

 しばらくつま先を見ていたけれど、足を動かして廊下に出た。

 部屋はカーテンを引いてて暗かったが廊下は明るく、昼間だということに気付く。

 階段を降りると、洗濯ものを抱えた母にあった。


「……おはよう」

 母が驚いた顔をしたが一瞬で、微笑んだ。

「おはよう。朝ごはんは食べるの?」

 聞かれてお腹が鳴った。

「食べるのね。すぐ支度するわ」

 洗濯ものを抱え直した母は弾む声で言う。

「洗濯物、俺が干すよ」

「え? いいの?」

「うん」

「じゃあ、任せたわ。終わったらダイニングにいらっしゃい」

「うん」

 洗濯ものの入った籠を受け取ってベランダに出る。

 切ってない前髪の間から見る世界は眩しかった。

「見にくいな」

 洗濯物を干すのは意外と難しかった。

 それでも全部干して、籠を抱えてダイニングに向かった。


 ダイニングに入ると、いつもの朝食が並べられていた。

 違うのは湯気が立っていること。

「いただきます」

「お茶飲む?」

「飲む」

 母はいそいそとお茶の支度をしに立った。

 あったかいごはん。

 美味しい。

 みそ汁はいつもより塩辛かった気がする。

 母が対面に座ってにこにこと俺を見た。

「母さん。俺、髪切りたい」

「あら、じゃあ、ちょっと待って、美容院空いてるか聞くわ」

「美容院? 床屋じゃないの?」

「今どきの子は美容院よ。かっこよくしてくれるわ」

 もしもし、と母は携帯に向かって話し出した。

「今日の午後空きがあるって。大丈夫?」

「大丈夫」


 そして俺はここにきた。


「ちょっと顔上げてくれる? 前髪切るからね」

 言われるまま顔を上げると、久しぶりに見た俺の顔があった。

 首の付け根までに切られて整えられた髪。

 今どきの高校生に見える。

「目は閉じてていいよ。髪が入るからね」

 今どきの高校生は前髪は長めなんだということがわかった。

 シャンプー台で髪を洗ってもらって、乾かしてもらって、微調整したら終わり。

「どうかな?」

「す、すっきりしてます」

「よかった」

 ケープを外してもらって席を立つと、母がいた。

「男前になったわよ。さすが私の息子」

「な、何言ってるの? 母さん」

 そう言っている間も母は会計を済ませた。

「せっかくだから、服も新調しましょう」

「ええ?」

 こんな場面、WEB小説にあったような気がする。

 でもその相手は母ではなく、超絶美少女の幼馴染だった気がするけど。


 手を引っ張られて通りに歩き出す。

 俺が見ているのは母の横顔。

 もうつま先は見てなかった。






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