第5話
もともと矛盾を孕んだ職業なのだ。教室隅にある自分の机に座り、片桐マリエは思う。もうじき学校(ここ)も週一度の定時帰宅の時間。今日は一日よく晴れていた。五時間目は体育だったが、本当なら歩いて10分ほどのところにある市民公園に行って、のんびり散歩でもしたいほどの陽気だった。それなのに…。
「片桐先生には、もっと自信と威厳を持って頂きたいですね」
普段は殊更にフランクさを周囲に振り撒いている校長が、今日はいささか脅迫じみた目で自分に迫ってきた。呼び出しの理由は分かっている。自分の担任する児童の親から数件のクレームが寄せられているせいだ。授業がつまらない。えこひいきの傾向(むき)がある。話しかけづらい。冷たい感じがする。終いには、化粧の趣味が悪いとまで…。親たちは教師に一体何を求めているのだろう?マリエはここ一年ほど、その問いを繰り返している。
「保護者の不満と云うものは、一つ一つが独立したものではないんです。それは漠然とした、それでいて強い不安感から派生するものなんです。そうでしょう?」
マリエは一瞬口を開きかけるが、本能的にそれを押し留める。校長はそれを知ってか知らずか、そこでトーンを幾分落とした。
「片桐先生の疑問は分かりますよ。『どうしてそこまで教師が?』。その通り、全く異論はありません。現に私も、長年同じような悩みを持ち続けてきました。だからこそ今言えることがあるのです。分かりますね?」
…で、その言えることが「自信」と「威厳」と云うわけか。マリエは心の中で果てしなく救いのないため息をつく。
大体、校長の問いかけ(クエスチョン)話法には未だにどうも馴染めない。本人はソフトさを強調したいのだろうが、言外にその秘めたアグレッシブさが漏れ出てしまっている。それに気づかないこと自体、教育者としてどうなのだろう。マリエは思いを巡らす。それで本当に「柔らかい感性」で子どもたちに相対(あいたい)していると云えるのだろうか?そもそもそちらから尋ねておきながら、こちらの主張については頭から否定する体制がすでに出来上がっている。だったら最初から業務命令にしてしまえば事は早いのに。「背筋を伸ばせ。もっとしゃんとしろ。我々は教育者なのだから」。いささか時代錯誤の匂いはするが、個人的には思いが溢れた感じで嫌いではない。マリエは思う。
その後も婉曲多様の訓示は続き、結局「以後気をつけます」、マリエは頭を下げ校長室を辞した。教室までの長い廊下を歩きながらマリエは思う。自分の中に月と太陽が一緒に顔を出しているみたい、と。
マリエは何気なく机の引き出しの中を覗く。そしてそこに細長い一枚の紙が入っていることに気がつく。「何これ?」
青い…チケット?もちろん身に覚えはない。マリエはまず子どもたちのイタズラを疑(おも)う。無論他愛ない場合がほとんどだが、だからこそ対応を間違えると教室運営にも支障が出かねない。今年五年目のマリエにもそれくらいのことは分かる。厚みのあるケント紙。ちゃんと切り取り用のミシン目まである。「日付?」今月の二十日、水曜日。しかし時間が奇妙だ。深夜11時45分。あとの記載はない。場所はどこ?何のチケット?
マリエは青い紙片を眺め回し、そして再び引き出しに仕舞う。ほのかに「悪質」な匂いがする。それに大の苦手な恐怖映画のテイストさえ。子どもたちの中には親同様、べたべたと担任のプライベートに関わりたがる者がいる。教師の方も初めこそ「無邪気な人懐っこさ」として歓迎しがちだが、そのうちそこに危険な罠が紛れていることに感付く。もっともマリエの場合、最初から「戸惑い/(ないしは)迷惑」な気持ちを否めないのだが。
やれやれ…。マリエは何度目かのため息をつく。久々にコンサートとか、生の演劇でも観て気分を一新したいと思う。このまま学校と自宅の二点移動では、知らぬ間に「聖職者/公務員」に為り下がってしまう気がしてならない。
チャイムが鳴っている。マリエは今夜の持ち帰り分を鞄に詰め、カシミヤのコートを羽織るとようやく教室を後にした。
:それはちょっとヤバいよ、センセ。
:何が?
:最近その界隈で、変死とか人がいなくなる事件が多発してるのは知ってる?
:ああ、それは学校でも噂に。
:その事件現場には必ず青いチケットが残されてるって。それに…。
:まだあるの?
:その現場近くでは決まって幼い姉弟(きょうだい)の姿が目撃されてるって。
ちょっと待ってよ。マリエはスマホ画面を覗きながら呟く。それって完全にホラーじゃない。え?じゃあ、あの青い紙切れは例のそれってこと?
そのままをタイプして返す。
:(笑)うそうそ、ゴメンナサイ。多分子どもたちのイタズラだよ。あなたが怖いモノ超苦手だから、わざと噂話を真似て作ったんじゃない?可愛いわよね、子どもって。
そんな単純じゃないって。マリエは通信の相手(大学時代の友人)に密かに毒つく。
今夜の宿題(残業分)は済ませた。テストの採点は量は嵩むが苦労は少ない(教科にもよるが)。それに心配するほど不出来な子もいなかった。全く、どうしてこれで親からのクレームが続出するのか?首を捻らざるを得ない。
「可愛げのない女」。学生の頃からよくそう言われていた。「小骨の多い女」とも。それでもこの御時世、何より正直さが大事だと自分なりに頑張ってきた。たとえ多少周りとズレることはあっても、それが自分のささやかなる矜持だと…。
やっぱり、私のせいなのかなあ。マリエはちょっぴり悲しくなる。
:センセはさ、どっかに「消えてしまいたい」って思うことはない?
:そんなの、しょっちゅうデス。校長からは「もっと威厳を」と言われ、先輩同僚からは「もっと肩の力を抜いて」と苦笑いされる。もっと・もっと・もっと。でもそれって彼らの理想論なのよ(特に年配の立場からの)。
:ああ、分かるわ~。やっぱりセンセの世界も同じか。逆に建前のある分余計にしんどかったりして。
ザッツ・ライト。自分を含め教師なんて、「ええかっこしい」の「安全志向」。作り笑顔を振り撒いて、下校のチャイムが鳴ればとりあえずホッとする、哀れな「小心者」なのよ。
でも…。
:私はどっかに行きたいとは思わないなあ、まだ。
:失踪とか?
:後のこと考えるとね。それこそ私が学校の怪談のネタにされちゃいそう。
:あり得るかも(笑)。でも、それだけセンセはまだ大丈夫。今夜はしっかり寝て、また明日からボチボチ精出して。
通信終わり。マリエはケースカバーをパタンと閉じる。そしていつの間にか、昼間より少しだけ気持ちが軽くなっていることに気づく。それは本当に有難いことだ。それにしてもそろそろ「センセ」は止めて欲しいなあ。マリエは苦笑する。そう呼ばれる度に、心の何処かが張り詰めちゃうから。
それから間もなく、マリエは保湿ケアと目覚ましの設定確認のあと、かくれんぼの鬼から逃れるように布団に頭から潜り込んだ。
翌朝。教室の引き出しの中には、すでに青いチケットはなかった。どう云うこと?マリエは疑問に思ったが、子どもたちと音楽の授業準備に掛かっているうち、いつの間にか綺麗さっぱり頭の中からも消え去っていた。
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