第4話
体に、力が入らない。
容子はベッドに腰かけたままで呟いた。数知れない逡巡(ためらい)と決死の難儀の末、どうにか体を起こしたまでは良かったが、扱い忘れた肉体の不自由さに思わず溜め息が出る。
立ち上がる?
しかし容子の様子に変化はない。むしろ魂は抜け、肉体はブレーカーが落ちたかのように項垂れている。そもそも何故身を起こそうとしたのか、その理由さえ抜け落ちてしまったかのようだ。
容子はさっきまで自分が寝ていたベッドの跡を見る。白いシーツ、使い慣れたタオルケット。特に目立ったシワや乱れはない。彼女はもう一度前を向き、今度は自室の間取りを見渡した。まるで初めて見るかのような、それでいて虚ろな眼差し。そして一旦目を瞑り、もう一度何か(例えば、宇宙船から見た青い地球の風景とか)を振り返ろうとしているかのよう…。
きっかけなんて、大したことは何一つなかった。ただ「ちょっとここらで一休み」って感じ。大学から戻って普通に夕御飯を食べ、早めにベッドに入った途端私は自分が驚くほど眠たがっていたことに気がついた。思えばここ数年、時計の針が0時を回る前に床に就いたことはなかった。受験もあったし、友だちとのコミュニケーションにも忙しかった。そして小さな紙くずがそのうちゴミ箱をいっぱいにするように、自分の中にも疲れと云うか淀みと云うか、そんな色んなしわ寄せが溜まっちゃってるんだろうな。そう思った。そして翌朝、目が覚めた私はその量がハンパなかったことに改めて気づかされた。何より体が鉄のように重たかった。そして同時に、意識が痺れるほど更なる眠りを欲していた。
こりゃあ、いかん。
小6の時に山で死んだおじいちゃんの口癖が私の口から零れ出た。あの時は確か、夏休みで長野の母の実家に遊びに行ってた時だったか…。とにかく、今の私には休養が必要と云うことだ。でないと、あの時黒い塊に襲われたおじいちゃんのように、地に伏したまま息絶えてしまうことになる。
私は即座に自分への臨時休暇を許可することにした。
さあ、いい加減腰を上げなくっちゃ。
容子は両足に力を入れてみる。さっきよりまだマシなようだが、一度小さく尻もちをついてしまった。今度は少し勢いをつけてみる。すると何てことはない。ちゃんと真っ直ぐに立ち、特に痛みやふらつきもなさそうだ。
さっきまでの倦怠感(だるさ)は何だったのだろう。
私は、歩ける。
容子はそれでも、幾分注意しながら部屋のドアに向かって進み始める。
そうだ。私は大学(がっこう)へ行かなければならない。あれから幾度となく朝と晩が訪れたが、私はそれを信号機の前を素通りするような気持ちで眺めていた。
多分…そう、今日はきっとサークルの集まりがある日だ。
ドアを開く。…いや、でも…。
容子は、少し表情を歪ませながら部屋から明るい階段の方へと向かう。
今日が何の日なのか、本当はよく分からない。
頭がぼんやりする。まるで他人の脳ミソでものを考えているようだ。ひとまず階下(した)に下りよう。そして母(ママ)に尋ねてみるのだ。全てはそれからだ。
しかし容子には、自分が今目の前にしている「状況」を理解することができない。そして全身を白い靄で覆われてしまったかのように、その目は不思議な浮遊感を漂わせている。
母(ママ)だったら、全て、私の疑問に応えてくれるわ…。
次に容子が意識を取り戻したのは、再びベッドの上。しかしそこは自宅から離れた、こぢんまりとした病院の一室だった。
白髪の目立つ初老の男が、ベッドサイドの椅子から容子の顔をじっと見ている。傍らにはもう一人。
「自分のお名前、分かりますか?」
容子はその医者からの質問にただ顎を引き頷いた。喉の奥が、詰まったように苦しい。
「ここが何処かは?」
「…病院?」
「そう。○○警察病院です」
「警察…」
「はい。でももう大丈夫です。あなたはいささか長く眠っておられました。覚えていますか?」
容子が問われるがままに記憶を辿ろうとした瞬間、身体じゅうの神経が張り詰め、胸の動悸がこれ以上ないくらいに打ち始める。医者は即座に看護師に指示を与え、投薬の準備を開始する。一方容子は、その一部始終をとても冷めた意識(め)で眺め続ける。
私はまだ、夢を見てるんだわ。
そう云えば母(ママ)は、一体どこに行ったのだろう。まだ自分の部屋かしら?目が覚めたら、今日はとてもへんてこりんな夢を見たと教えてあげよう。
昔から母(ママ)は夢の話が大好きだった。楽しい夢、怖い夢、悲しい夢、そして美しい夢…。
「夢は人生の醸造酒よ」、母(ママ)はいつか私にそう言っていた。
本当にそうだ。今の私には、それがとてもよく分かる。
そして発作に襲われた容子のその顔には、むしろ無邪気な笑みさえ浮かび上がる。それを見た医者と看護師は一瞬顔を見合わせ、またすぐに自分らの仕事(さぎょう)へと戻っていく。
容子はそうして、再び淡い睡みの中へと、一人落ちていった。
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