第3話
店先ではいつものように夫が閉店前のタイムサービスの準備をしている。今日もまずまずの客足だった。歩いて5分の場所にあった食料品スーパーが突然閉店して以来、以前の倍近くの客が午後から夕方にかけて押し寄せて来るようになった。
ようやく一息つける。チエミさんは年で痛み出した腰の具合を気にし出す。中学・高校に通っている二人の息子は部活でまだ帰ってきていない。そろそろ夕食の準備を済ませておくか。そう思って中に入ろうとした瞬間、足元にあった段ボール箱に蹴躓いた。
「おい、大丈夫か?」
夫が声を掛けてくる。
「うん。自分で箱置いたのを忘れてた」
チエミさんは返す。そしてその青森リンゴの箱を所定の位置に移動させる。あれ、私何してたんだっけ?
「もう今日は三割引きにして、さっさと店閉めるか」
夫が言う。
「でも、まだいつものお客さんもいるでしょう。仕事帰りの」
「そうだけど。今日は町内会の寄り合いもあるしな」
そう言いながら、夫の手はさっさといつもより一割増しの値引き札を付け始めている。
「いいわよ、私が見とくから。どうせ後半は飲み屋で合流なんでしょう?」
「飲まなきゃやってられねえって話」
夫はそう言うと腰を上げこちらに振り向いた。「どうやらさ、隣町の再開発が本決まりになりそうなんだ。あのスーパーも先を見越しての一時撤退に違いないって、専らの噂だよ」
「誰が言ってたの、そんなこと?」
「みんな言ってるよ。ホラ、県庁職員の青山の奥さんも言ってたな。『五年後にはすっかり様変わりしますね、きっと』だって。ダンナは土木関係らしいから詳しいんだろ」
「でも当分こちらには関係ないんじゃない?」
「バカ、何言ってんだ。駅挟んだ隣町が一大開発されるんだぞ。大きなショッピングセンターの誘致計画もあるって云うし、そのうちマンションとかも建つに決まってる」
夫はそう言いながらチエミさんの横を通り過ぎていく。「これ、新しいの買っとけよ。もう書けねえ」
今は多い仕事帰りの客が、早晩そちらの方に流れるってことか…。チエミさんは夫から渡されたマジックペンのかすれ具合を、自分の掌で確かめた。
今日の夕食は久し振りのカレーだ。これなら男所帯のウチでも誰からも文句は出ない。しかも売れ残った野菜を放り込んで作れば一石二鳥、家計的にも大助かりと云う次第。昼間佐野と云う近所の主婦と夕食の話をしているうちに自分の中では決まっていた。
「そう云えば知ってる?チエさん」
「何を?」
「アーケード街の、床屋のご主人」
「え?えーと、山口さん?」
「そう。急にいなくなっちゃったってよ」
佐野の話によると一週間前、常連客が店を訪れると中はすっかり片づけられ、玄関の戸には「長い間お世話になりました」の貼り紙がしてあったと云う。
「事件ってわけじゃないでしょうけどね」ひとしきり喋った後で、佐野は心持ち残念そうに付け加えた。
チエミさんはその床屋の主人の顔を思い出そうとするが、何故か上手く浮かんでこない。印象から言えば物静かな、どちらかと云うと陰気な感じのする男だった。確か一人息子がいたと思うが、学校を出てからは姿を見ない。きっと独立して家を出たのだろう。
カレーと野菜サラダの準備をしているとまず高校生の長男が帰ってきた。「今日はカレーよ」と声を掛けると、「ん」と言ったきり部屋に引っ込んだ。このところまた急に寡黙になった。夫は「放っとけ」と言うが、高校2年の後半ともなれば人生にとって大事な時期でもある。そう暢気に構えていられるものでもない。チエミさんはカレーのとろみを確かめるようにゆっくりとオタマを回す。
「カレーじゃん、カレー」
次男・中学3年生が匂いに引き寄せられるようにして上り口から顔を出す。こちらは根っからのお気楽な性格。その割には学校の成績は良く、今時珍しく塾にも通っていない。彼曰く「塾まで往復する時間が勿体ない。その分家で勉強した方がコスパ的に良い」らしい。来年は受験だが、ひとまず心配するほどのことはないだろう。チエミさんは思う。どこの世界でも要領の良い者、悪い者はいるのだ。
「じゃあ、後はお願いね。お兄ちゃんにも声掛けて」
チエミさんはいつものように言う。次男も「分かった」と早速食器の準備に取り掛かる。その様子を見ながらふと、「家族揃っての夕食」とチエミさんの中で漠としたものが浮かぶ。もう十五年来慣れていることとは云え、チエミさんの中でそれは消えない憧れのように、むしろ前より強く灯り続けている。
店先に戻り、床屋の主人の話を夫にしてみる。
「ああ、話は聞いた。でも一応後始末のことは商店街事務局に便りがあったらしいからな。店閉めるのを大袈裟にしたくなかっただけなんじゃないかな。あの人らしいよ」
夫は作業の手を休めずに応える。「ウチだってあと二十年、いや十年この店続けられるかどうか分かんないんだしな。他人事じゃないぞ、全く」
「後は私がやるよ。上がって」
チエミさんはそう言って夫と店番を交代する。
夫の言わんとすることは分かる。元々夫だってこの店を継ぐまでは普通のサラリーマンだったのだ。まだ結婚したての頃に父親が急に店先で倒れ病院に運ばれた。脳梗塞。以前からどうやら症状は出ていたらしいが、病院嫌いが祟って結局はその後長い入院生活の末生涯を閉じることになった。そして否応もなく一人息子の夫が跡を継ぐことになったが、それを強く願ったのは義父よりもむしろ姑の方だった。
「店ってのはね、お客の生活の一部を与ってるんだ。手前勝手に開けたり閉めたりはできないんだよ」
それが彼女の口癖。お陰で跡を継いでからしばらくは母子の諍いが絶えなかった。夫にとってみれば、いずれ跡は継ぐものと云う思惑はあったにせよ、実際はまさに青天の霹靂。その上気丈な母親からの更なる叱咤激励は迷惑そのものでしかなかったろう。事実一時期、夫は本気で店を手放すことを考えていた。そしてそれを実行しようとしていた矢先、今度は姑の方が呆気なく他界してしまった。胃癌だった。
「ずっと以前から医者には見せていたらしい」
葬儀が一通り済んだ後で、夫は親類の者からそう聞かされた。思い当たるフシもあった。つまり姑は、自分の病気を押して息子に八百屋を継がせようとしていたらしい。
「冗談じゃないよ。勝手放題にも限度ってもんがあるだろう」夫はそうこぼしながらも、それ以来店を手放す話はしなくなった。そして私は、そのことに異見を言うつもりも、はたまた逡巡する暇さえもその時持ち合わせてはいなかった。
「ねえ、母ちゃん」
「ん?」
次男がテレビの方に目を向けながら言うので、自然とチエミさんも生返事になる。
「店、いつまで続けるつもり?」
「何。どういうこと?」チエミさんは人知れず動揺する。
「ほら、見てよ。これからは野菜もネット宅配の時代らしいよ」
テレビでは大手ネット流通業者が今度は青果分野に進出すると云うニュースが流れている。長男も横にいるが、黙ってまだ野菜サラダをつついている。どうやら食べ始めるのが一番遅かったらしい。
「もうさ、店を持つ時代じゃないんだよな。ウチも考えとかなきゃ」
次男は続ける。
「何言ってんの。これからはもうあんたたちの時代なんだよ。店継ぐ継がないは自由だけど、自分の将来だけはしっかり考えててよ」
後半は長男に言っているようなものだった。チエミさんはその「我関せず」と云った様子の長男を目の端で捉えながら、自分も遅い夕食を摂り始める。
「そう云えばさ、商店街の床屋、店閉めちゃったんだって?」
次男。
「そうみたいね」
「あそこ、それなりに流行ってたのにな。どうしてなんだろう?」
「ご主人も七十近かったからね、ゆっくりしたくなったんじゃない?ずっと一人で店やってきたし」
「そうだっけ。小さい頃はよく髪切りに行ってたけどな」
こう云う時のふとした表情が父親そっくりになってきた。チエミさんは思う。あの頃は私も一緒に付いて行っていた。子どもたちが髪を切ってもらっている間、自分はアーケードで買い物をして。まだ姑が店に立っていた頃だ。チエミさんは改めて思い返す。
「お兄ちゃん。あそこの子どもさん、覚えてる?」
チエミさんは長男に声を掛ける。すると息子はすっとこちらを振り向く。
「覚えてるよ」
「髪切りに行くと、時々店にいたよね」
「ん。待ち合わせの客にジュースとか、出してた」
そうだった。どちらかと云うと父親にはあまり似ていない印象だった。
「あの息子さん、それからどうしたんだっけ?」
チエミさんは尚も尋ねる。
「多分…いなくなったんだと思う」
「え?」
「どういうこと?」
次男も反応する。
「よく分からないけど、俺、高校に入るまであの店行ってたから。おじさんが何かの時、『あいつ、急に出て行っちゃったんだ』って言ってた。理由とか事情は話さなかったけど。こっちも聞く雰囲気じゃなかったし」
「へえ」
「それってさ、失踪しちゃったってこと?」
「そう云うんじゃないと思う。ただ、急だったってのは本当だろう。おじさん、気落ちしてる感じだったから」
長男はそう言って母親の方を見る。チエミさんはスプーンの手を止める。
「親子喧嘩でもしたのかな」
次男が言う。「でもおじさんもいなくなっちゃったんだろう?その息子さんのところに行ったのかも」
「どうだろうね」
チエミさんは返事しながら、多分そうではないと考えている。何となく、ただそんな気がするだけなのだが…。
「ヒトがいなくなるのに、理由なんて要るかなあ」
長男がポツリと言う。
「要るだろう、普通」
次男は即座に返すが、長男はそれに応えるつもりはないらしい。黙って自分の皿を持って立ち上がり、台所の流しにそれを沈めた。
「ゴチソウサマ」
深夜になってチエミさんの夫はかなり酔って帰ってきた。何だか妙に御機嫌な様子で、訳の分からない歌を布団に入るまで口ずさんでいた。あれで朝は朝で起きれるのだから流石だと、チエミさんは変に感心してしまう。その酒臭い夫の横に身を横たえながら、チエミさんはふと長男が漏らした言葉を思い出す。
「ヒトがいなくなるのに、理由なんているのかなあ」
理由。確かにそれは当然あって然るべきと云う気もするし、また一方でそんなものはない気もする。もしかしたら其処にいる理由がなくなったからこそ、人はふっといなくなってしまうのかも知れない。最近チエミさんも考えることがある。ウチの店がなくなったら、いつも来てくれるお客はどうするのだろうと。「そりゃ、困るに決まってるじゃない」常連の客はきっとそう言ってくれるだろう。しかし、実際は無くなれば無くなったで、また別の店を探すに違いない。それぞれの生活が続く限り、それは致し方のないことだから。
「だったら…」思わずチエミさんは一人事ちる。ウチはウチで自分の生活を優先させてもバチは当たらないだろう。親子四人、ひっそりと同じテーブルを囲んでの一家団欒。年頃の息子たちは今更そんなことを望みはしないかも知れないが、もしかしたら自分自身、いつ体を壊して思うに任せられなくなってしまうかも知れない。多分、残された時間は自分が思っている程長くないに違いない。
チエミさんは隣りの夫の顔を覗き見る。すっかり八百屋が板に付いた中年のタマゴ顔。知り合った当時は割とスマートで、今で言うイケメンタイプだった夫も、もう十分過ぎるほどオヤジ然としている。誰だって歳は取る。そんな分かり切ったことが、それでも今のチエミさんにはひどく理不尽なことに思える。
ただその日その日を必死に生きているだけなのに、気がつくと鏡の前で愕然としている自分がいる。それでもその有り様を引き摺るようにしてまたその日一日を暮らす。思えば本当に望んだものの周りを当てどもなく、ただ歩き回っているだけのような…。
やれやれ。チエミさんはそんなやり切れない思いを抱えながら眠りに就く。そして多分、夢の訪れも感じないまま、また人より早い朝を迎えるに違いない。そう思いつつ、今夜も何かを思い切るようにゆっくりと瞼を閉じた。
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