第2話

 専業主婦のヤヨイさんは最近ずいぶん大きなお腹をしている。妊娠八ヶ月。日常の動作をするだけでもだいぶ難儀するようになった。それでも以前からの日課である、近くの公園までのウォーキングは今のところ殊勝に続けている。もっとも、その当初の目的(ダイエット:マイナス5キロ)を達成する前に妊娠が判明した時には、正直喜びよりも「またこれか」と思わず苦笑が漏れた。そしてこれまでの、自分の不器用な人生(こと)運びの数々にしばし思いを馳せた。

 既に散歩の態で公園に着くと、そこには先客がいた。小学校低学年くらいの女の子と、その弟らしい男の子。何故か二人して砂場の脇にしゃがみ込み、じっと動かないでいる。

「どうかした?」

 お節介かとも思ったが、二人のその小さな宇宙を覗いてみたくなり声を掛ける。すると女の子の方がくるっとこちらを見て「アリがいるの」と言い、また下を向いて「とても大きいやつ、びっくりするくらい」と付け足した。

 ヤヨイさんが傍らまで来てみると、確かにそこではかなりのサイズの一群が縦横無尽に活動を展開している最中だった。

「ほんと、大きいねえ」

 ヤヨイさんはそう言いつつも一方で、自分の故郷(いなか)ではごく普通にこれくらいのアリがいて、其処らじゅうを這い回りながら地上のあらゆる滋養を巣穴に引き摺りこみ、貯め込んでいるのを思い出す。

「アリじゃないよ」弟の方が俯いたまま藪から棒に言った。「アリはこんなに動かないもん。きっと全然違う、別の生き物だよ。それに…」

「それに?」ヤヨイさんは言葉を促す。

「ちょっとデカ過ぎ!」

 その屈託のない応えに何故か急に可笑しさが込み上げてきて、ヤヨイさんは声に出して笑い出す。幼い姉弟(きょうだい)はその様子を、これまた不思議なものを見るかのように、二人してポカンと眺めている。


「おばちゃん、赤ちゃんいるの?」姉の方がしばらくしてから言った。

 ヤヨイさんは最初何を言われたのか戸惑ったが、改めて自分の格好に気づくと「そうだよ、もうすぐここから出てくるんだよ」と、二人にウェアのお腹を擦ってみせた。

「ねえ、そんな大きなお腹になってどんな気持ち?」弟がそう聞くので、「うーん、何だか変な気持ち。まるで自分の体じゃないみたい」、ヤヨイさんは笑いながら応える。

「女はね、赤ちゃんができると別のものに変身しちゃうんだって」

姉が言う。「お母さんが言ってた。自分が自分じゃないみたいになって、何だか急にイライラしたり哀しくなったり、それから『ああ、もう面倒臭いなー』とかも思うんだって」

「へえ、そうなんだ…」

 ヤヨイさんはそう応えながら自分の場合を反芻してみる。当たっているような、外れているような。でも本当のところは誰にも分からない。多分本人にさえも。そんなことをぐるぐる頭の中で巡らせた。


 日差しがきつくなってきた。帽子(キャップ)を忘れたことに今頃になって気がついた。

「今日、学校は?」

 気になっていたことを尋ねる。

「運動会の振替休日!」

 突然の二人のハーモニーに、ヤヨイさんは人知れず驚く。

「ああ、そうか。運動会ね」

 ヤヨイさんはその瞬間、生まれてくる自分の子どもが、熱い日差しの中でざらついた砂の広場を懸命に駆け回る姿を想像する。そして少し眩暈がしてきたので、こめかみを左の手で軽く押さえた。

「あ、アリが」

 弟が声を上げたのでその方を見ると、アリたちが小さな蝶の死骸に群がっているのが分かった。

「エサだ。これからみんなで食べるんだ」弟が嬉しそうに言い、「ホラ、あんたも今、アリって言ったじゃん」姉が別のツッコミを入れる。

 確かに、先程とは打って変わった組織的な動きで、アリたちは獲物を何処(いずこ)かへと運んでいく。その姿は種族を越えた生への執念を垣間見るようで、ヤヨイさんはそのいじましさに目が離せない。その時、

「えい!」

 掛け声とともに、アリの上空から突然木の棒が差し入れられる。そして見る間にその地上の営みをかき乱していく。

「何するの?」ヤヨイさんは思わず声を上げた。しかし張本人の弟は「こいつを逃がすんだよ。ほら、はやく逃げろ」と一人動かない蝶を煽動し、「馬鹿ね。もう死んでるのよ」姉はそれを見て横から冷笑を掛けている。

 ヤヨイさんはその二人の様子を半ば呆然と眺めながら、だんだんと眩暈が痛みに変わっていくのを感じる。

「おばちゃん、どうしたの?」

 姉がヤヨイさんの顔を覗き込んで言う。ヤヨイさんはそれには応えず、「よいしょ」と声を出して背筋を伸ばし、それから「またね」、立ち上がって二人に手を振ると、踵を返しその場を離れることにする。


 下腹がとても重く感じられる。まるで自分の体が地べたにめり込んでいくようだ。そしてそのまま、砂と埃と熱に埋(うず)もれていくような…。

それでもヤヨイさんは、一歩一歩歩(あゆ)みを前に進める。

「ばいばい、アリのおばちゃん」

 不意に後方から幼い二人の声が飛んできた。ヤヨイさんは急に白昼夢から戻された気分になって、ゆっくり身を捩(よじ)り、その元気な姉弟に再度別れの挨拶を告げた。

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