『 チケット 』
桂英太郎
第1話
警察官のサコダは地域住民からの通報を受け、とあるアパートに軽パトを走らせた。築三十年はあろうかと云う二階建ての古アパート。その一番奥の部屋に若い夫婦とその子ども二人が住んでいるらしい。そこで繰り返される父親の怒声と激しい物音。「夫婦とは云っても、一緒に居るからそう見えるだけで、本当は違うかも知れませんよ」周辺の住民たちは一連の話の最後を揃ってそう結んだ。
ドアをノックしてから少なくとも三十秒は返事がない。留守かも知れないな。そう思って踵を返そうとした瞬間、中に気配を感じた。
「カシワギさーん」
こんな時努めて柔らかな発声を出せるのは、学生時代にやっていた人形劇サークルのお陰かも知れない。
「…誰?」
相手からの返事はぞっとするような低い声だった。
「通り角の交番からですが、年度毎の巡回連絡で来ました」
サコダは淀みなく、当たり障りのない導入を口にした。
「警察?…別に」
サコダはそこでようやく声の主が女であることを悟った。
「奥さん、お時間は取らせません。ご家族の構成とか、事務的な確認だけですから10分ほどで終わりますよ」
それでもドア越しの緊張はそう易々とは緩まない。事実気配が遠のいたようだ。もしかしたらダンナも奥に潜んでいるのかも。サコダはそう推察する。
「奥さーん」
サコダの呼びかけがあと何たびか繰り返され、その声は春先の鶯かのように辺りに響いた。
実際サコダはこの街に赴任してきてまだ日が浅い。警察官になって一年半。警察学校を入れても二年とちょっとの新米だ。この街の空気がまだ自分を受け入れていない。そう感じることも度々ある。
交番に戻ると同僚であり先輩のイズミダが机で書類の整理をやっていた。
「どうだった?」イズミダは台帳にペンを走らせながら背中で聞いてくる。
「ええ、母親は出てきました。子どもはいなかったと思います」
「と思います、か。上の娘は学校に来てないんだろ。中の様子は窺えなかった?」
「ええ、今日はちょっと…。すみません」サコダは警帽を壁のフックに掛けるとそれとなくイズミダの方を見た。当人は書き物の手を休めない。「世間話をしながら相手の背後を窺う。言葉じゃなくてその後ろにあるものをだよ。そうすればやましいところがある人間ほどそれが不自然な動きに出る。学校で習わなかったか?」
そう言われてサコダは内心「学校でそんなこと教えるか?」といぶかしんだが、振り返ったイズミダの顔を見てそれが警察学校の事であるのに気づき、「ああ、そうでしたね」と咄嗟に笑ってみせた。
正直この三十過ぎの頼り甲斐満載の先輩は、今のところ自分にとって苦手意識そのものでしかない(特にその力ある三白眼)。この場をどう切り抜けよう…。思案に暮れていた時交番の戸が開いた。「あのう、すみません!」
見ると小学生らしき女の子とその弟らしき子がランドセル姿で入ってきた。
「やあ、学校帰り?」不意にイズミダが柔和な表情で言った。「何かあった?」
「傘が道端に落ちてたの」女の子が言い、「落とし物だよ」と弟がそれを掲げて見せた。
「そっか、落とし物ね。OK、了解。じゃ、おじさんが話を聞くからそこに座って」 イズミダは幼い二人に椅子を勧める。サコダが外を見ると、さっきまで晴れていた空がどんより曇り、小雨まで降り出している。
「雨降ってるのに、どうして傘放ったらかしになってたんだろうね?」
「知らなーい」イズミダの言葉に弟が暢気に返す。
「本当、どこに行っちゃったんだろうね、その人」
サコダが振り向いて言うと、今度は女の子の方が口を開いた。「最近、知らないうちに人がいなくなっちゃうんだって。大人も子どもも。急にいなくなって、死んじゃったって言う人もいるし、どこか遠くへ逃げちゃったって言う人もいる。お父さんがそう言ってた」
イズミダがちらっとサコダの方を見た。サコダは二人が届けた傘を手に取る。透明な安物の傘。しかしまだ新しい。
「有難う。持ち主が分かったらお知らせするね」
イズミダが連絡先を確認しそう言うと、市民としての責務を果たした姉弟(きょうだい)は心なしか誇らしげに席を立ち、元気良く小雨降る玄関口へと向かう。そして戸を開け脇に立て掛けておいた傘を手に取ると、バサッと音を鳴らしてそれを広げた。目が覚めるようなお揃いの黄色の傘。「さようなら」イズミダの言葉に二人は傘で返事をし、やがて通りの向こうにその姿は消えた。
「…何なのかな?」
イズミダが呟くように言い、サコダは「そうですね」とまた曖昧に返した。
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