ep.014 血染めの牙、精霊の巫女

「い、いのちだけは、たすけ——」



その先は言葉にならない。


ひゅーっと空気が抜ける音だけが耳元で聞こえた。


俺は首元に突き立てた牙を、さらに押し込む。

ごぼごぼと、口の中を汚す液体が溢れてくる。


致命傷だ。


もはや動かなくなった獲物を投げ捨てる。



今夜は良く晴れ、月の明かりが眩しいくらいだ。

次の標的もよく見える。



「か、金で雇われただけなんだ!」


一歩ずつ近づく。

標的は腰を抜かしたようだ。


「たのむから、見逃してくれえ!!」


地を這って逃げようとする。

そもそも、“人間ごとき”では俺からは逃げられない。



俺は手に持った刀を、月に掲げる。



「巫女に手を出したことを、後悔するんだな——」




---




早朝。



「もう、もっとちゃんと洗わないとダメ!」



がしがしと頭をこすられる。


最近は少しずつ冷えてきている。

森の川水は、かなり冷たくなっていた。



「いや~……おひいさん、もう良くないか?」


「だ~め! 私の唯一の癒しなんだよ?」


おひいさんのこだわりは尊重したいが。

被毛を持つ狼獣人の俺でも、さすがに寒い。



「ちょっとでも手入れを怠るとパッサパサになるんだから」


特に血を被ったあとは、ね。


今はちょうど、冬毛が生えてくる換毛期。

フワフワの良い毛に育ててやると、彼女は意気込んでいた。


「昨日のうちにもっとちゃんと洗ってくれれば……」


さっきからチクチクと責められる。



「逃げるあいつが悪い……」


「噛みつくのは最終手段にしてね」


「…………はい」


追いかける場面では、噛みつく方が楽なんだもん。



ざくっざくっと草を踏みしめる音が近づいてくる。

この歩き方は——



「シュエルン様、ほどほどにしてあげてください」


ドウゲンが助け舟を出してくれた。


コイツは、いけすかない事を言う時もあるが。

常に冷静な判断をしてくれる、俺らの参謀的な存在だ。


「ハクがフワフワになった姿を想像してみてください」

「どうです? 護衛としては威厳が損なわれかねませんよ」



やっぱいけすかねえわ。



「可愛くていいじゃない」というおひいさんを余所に。

ドウゲンは川辺の岩に腰掛けて、続ける。


「そのままでいいので聞いてください」


いや良くないが?



「昨夜の襲撃者、やはり排斥派の差し金でした」


「そうですか……元老院の長老たちは関係あります?」


おひいさんはあまり興味なさげに聞き返す。

ドウゲンは首を振る。


「巫女が近くにいるなら、あわよくば身代金――」

「……程度の、辺境の木っ端ですね」



彼女が毛を洗う手は止まらず、


「そうでしょうねぇ。あの人たちにそんな度胸はないもの」


と、皮肉げに言い放つ。

ごしごし洗う手つきに力が入っているのが伝わってくる。



「元老院は引き続き静観……という名の放置が方針のようですね」


ドウゲンが静かにそれに答える。


巫女は“精霊”に対する、“人”の代表者だ。

間に立ち、彼ら精霊と対話を行う重要な役目がある。



だが、“今の”リオル霊領連合という国には、様々な思惑が渦巻くらしい。


巫女の旅に護衛はなく、常に刺客がつきまとう。



「ふざけた話だ」


ついつい口に出てしまう。

美味しいところだけ利用しよう、という魂胆が気に食わない。



「よーし、ハク! あれやって!」



おひいさんとドウゲンは俺から距離を取るように離れていく。


おひいさんは、人間のために、必死にやってんだぞ。

あんな少女が、血まみれになりながらだ。



――俺がなんとしてでも、守り抜いてやる。

彼女が安心できるようになる、その時まで。



そう、決意を新たにした俺は。



ブルブルッと体を震わせて、被毛についた水気を盛大に振るい落とした。

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