第15話 殺戮団地
チズが、歓喜している。
裕香は笑った。
あの少女に罪を暴かれ、うろたえる久代の滑稽さを見ているチズが、裕香の中で笑っていた。
集会所の窓に、黒いシャツと白いスカートのチズがいる。
――チズさん、そこにいたの。
笑うチズを内側から感じながら、裕香は笑った
……ああなんだ、一緒にいたのね。
少女の横にいる女が、青ざめた顔で自分を見ている。
既視感のある女だった。
「……だれ、あんた」高之に問いかけられた。
「遺書など知らん!」
久代が外へ飛び出す。裕香はそれを追う。
「待て、裕香!」
背後から清一の声が追って来た。
久代は老人とは思えない逃げ足の早さだった。裕香は久代を見失った。
そのまま裕香は家に引き上げた。
清一はすでに逃げ戻っていた。
「なあ、どうしよう、どうしよう……あいつら、きっとまた来る……」
清一は部屋で泣いていた。
「俺、そんなのとは思わなかったんだ……だまされたんだ、おれも騙されていたんだ」
泣き声だけが回る。
それだけで何の進展も解決案も無い。
「な、なあ、ゆうか」
肩を強く掴まれた。
「お前、カラダ売ってくれ」
「……」
「おまえは、まだ女として価値がある、そうだ、そうしたら……な?」
ああ、いやだ。
嫌悪感で胸が一杯になった。
まただ。こいつ、またか。バカか。
数年前、清一が事業で失敗した最初の日を思い出した。
あまりにバカらしくて、世の中そのものが愚かに思えた。
今朝に清一が出て行った。
その後にここに押し寄せて来た老人たちの顔は、醜怪そのものだった。
「金を返せ」口々に喚きながら部屋から引きずり出され、もう駄目だと思った時に、裕香はチズを感じたのだ。
集会所の中で責め立てられながら、チズも老人たちにこうやって苛められたのだと、チズの想いと記憶が自分に重なった時、裕香は笑った。
そして今、チズは自分の内にいるのだ。
裕香は自分が強くなったのを感じる。
独りじゃない。チズさんがいる。いいえ、私は裕香でもあり、チズだ。
立ち上がり、風呂場へ向かう。
清一が追って来た。
「なあ、なあおい、ゆうか」
ああ、あった。
風呂場用洗剤のスプレーを、清一の顔に吹き付けた。
悲鳴を上げて、清一が風呂場へ転ぶ。
そのまま顔を押さえて呻いている間に、裕香は台所から包丁を取ってきた。
刺した、刺した、刺した。
顔を押さえ、悲鳴を上げる清一を刺した。
背中、手の平、首から下は真っ赤になった。
確か、ノコギリがあったと思うけれど。
電動のこぎりがあれば楽なのにと思いながら、裕香は押入れの中を探した。
※
儂は被害者だ。
その一心だけを抱えて、久代は家に戻った。
「おい、あきこ!」
妻の明子はまだ帰ってきていない。
宇野に貯蓄を全て騙し取られたと知って、あの大人しい妻に掴みかかってきたのは驚いた。驚きと怒りのあまり、殴り飛ばしたら警察へ行ってしまった。
「儂は悪くない……儂のどこに落ち度があるって言うんだ、あの馬鹿ども」
宇野に金を預けたのは、宇野の言葉を信用したからだった。
騙された自分が、宇野の仲間のように思われ、責められるとは心外だった。
おまけに、卑怯と言えばあの嫁姑だった。自分たちを安全圏に置いて、金を騙し取られる皆の様子を黙って見ていたのだ。
あいつらこそ責められるべきではないのか。
しかもあの小娘、思い出すも忌まわしい過去を、皆の前で暴露するとは。
久代は、阿川千鶴子の遺書を思い出した。白い便せんにびっしりと、自分が受けた仕打ちを書き連ね、団地の住民1人1人の名を書いて『殺してやる、呪ってやる、恨んでやる』この逆恨みでつづられた、忌まわしい書面。
あんな内容を部外者に見られたら、この団地が鬼と悪魔の住処に思われてしまう。 だから、捨てた。
「はるか昔に、ほかのゴミと一緒に焼却場だ。証拠もない。遺書の事は、あの小娘の言いがかりだ。雪村の嫌がらせだ、それ以外にない」
しかも宇野に金を騙し取られたという状況で、何とかして金を取り戻さないといけない場面で、あの小娘は何故遺書の事を言い出したのだ。一体何を考えているのか。
……その前に、金をどうやって取り戻すのか。
通帳から引き出した合計1800万を思い出し、久代は頭を抱えたが、ふと雪村淑子の言葉が浮かんだ。
『事件の情報を集めながら、被害者の会を……』
久代は顔を上げた。そうだ、新聞によく出てくる『被害者の会』事件の被害者たちが、賠償や裁判のために手を組むのだ。
雪村淑子にも協力させようと久代は考えた。あの女は、世知に長けている。
――玄関のチャイムが鳴った。
人に会う気にならない。無視していたが、チャイムは執拗だった。
仕方なくドアのスコープを覗き、訪問者を見て気が変わった。
宇野清一の顔がスコープの中で広がっていた。何を考えているのか、スコープに顔を押し付けんばかりにして外にいる。
久代はドアを開け放った。
「キサマ! 金を……」
宇野清一ではない、女が立っていた。
黒と白の服が目を焼いた。
20年前、自殺した女が宇野の頭部をボールのように持っていた。
読んだ遺書の内容が、久代に襲い掛かった。
「……」
本能に背中を蹴り飛ばされ、久代は女の脇を走り抜けた。
泣いているのか、喚いているのか、悲鳴なのか、自分でも出している声の意味が分からないまま久代は走る。
集会所にまだ人がいるかもしれない。
だが、集会所の入り口よりも早く、今は老朽化して使われていない物置が目に飛び込んだ。
錆びついて軋む戸を開き、古い鋤や鍬を外に放り出した。出来上がった狭い空間に久代は身をねじ入れ、渾身の力で戸を閉めた。
清一の頭を小脇に抱え、肉切り包丁片手に裕香は外に出た。
久代が逃げ込むとしたら、人がいる集会所だろう。
集会所の横に、古びた物置が目に入った。その下に散乱している鋤や鍬が目に飛び込み、裕香は嬉しくなって包丁を捨てた。
包丁より、こっちの方が良い。
長い柄に鉄の刃をつけた得物を手に、集会所の出入り口をそっと開けた。
仕切の向こうで女たちが喚いている。
「主人の退職金を全て盗まれたんですよ!」
干からびた女が、顔を涙で汚しながら叫ぶ。
「ばれたら、りこんよ、どうしよう……」
「30年間、ずっと積み立てて来たお金を……どうしよう、息子がなんて言うか」
老女が泣き伏した。
「こんなの、誰にもいえやしない」
「あの宇野の奴、殺してやりたい」
「今まで正直に生きて来たのに、あんな悪党に……」
「あいつの家に行きましょう。あの男を警察に引き渡すんです」
「警察に渡したって、お金はどうなるのよっ」
老後の資金、貯金、宇野、犯罪者、裏切りものと、罵声と悲嘆が渦巻いていた。前向きな提案や建設的な意見も無い、悲惨なだけの宴だ。
憐みがこみ上げた。
あいつらを楽にしてやろう。
裕香はドアを閉めて鍵をかけ、鍬を持つ手に力を入れた。
部屋に足を踏み入れると、 太った女と目が合った。
「あんたっ」
部屋が騒然となった。
「あんた、あんたか! ここに亭主を連れてこい!」
「宇野の嫁か? それでも俺らの金を返せ! 体売ってでも作れ! 責任取れ!」
罵声が吹き荒れ、やがて消えた。
全員の視線が、裕香の手にある清一に集中している。
家から持って来た頭部は重い。
しかも血でぬるついて、手から滑り落ちそうだった。
「はい」
恨み言はこれに言えよと、裕香は清一の首を皆の前に放り投げた。
生首は血の筋をつけながら会議テーブルを転がり、被害者たちの輪の中に落ちた。
全員の顔にある、眼球と口が一気に広がった。
裕香はそのまま突っ込んだ。
一番近くにいた女の頭に、両手で鍬の刃を振り下ろした。
頭が脳漿と共に散った。
「……っ」
10人以上人がいるというのに、意外な事に悲鳴が上がらない。
しゃっくりみたいな声や引き攣った声を出しながら、老人たちは地べたを這い、よろめきながら室内を回る。
携帯を取り出そうとしているのか、ズボンをさすっている男の腰に、裕香は横殴りに鍬を叩きつけた。
裕香は鍬を振るった。
重い鉄の遠心力か、体中にみなぎる興奮のおかげか、全く鍬の重さを感じない。
軽やかに鍬を振るい、落とす。
そのたびに肉や骨が潰れ、悲鳴が上がる。
血が飛び散り、指や手足が床に散乱した。
許しを乞われ、助けてくれと聞こえた。すみません、ごめんなさいと叫ばれたが、憐憫や躊躇は全く起きなかった。
むしろ顔を歪ませ、よたよた動き回る様は、虫けらを踏みにじる嗜虐を煽った。
世の禁忌を破り捨てた解放感、清一をはじめとする、自分の運命を狂わせ、自分を笑った奴らを叩き潰して回る快感。
濃い血の匂いが、一層の興奮を煽る。
土を耕す目的の分厚い鉄で、白髪頭や禿げ頭を割り、顔を砕き、手足を潰し、曲がった背中を潰して回る。
「ひいぇ……」
退職金の事で泣いていた女が、床に落ちた携帯を拾おうとし、また落とした。
通報したいらしいが、震える手の動きが緩慢でイラついたので、裕香は女の手首ごと携帯を叩き潰し、首を刎ねた。
千切れた首が窓に当たって、千切れた腕の上に落ちた。
窓から逃げようとしていた男の腰に、「まってぇぇ」と太った女がしがみついている。
「はなせぇっ」
もがきながら窓から転がり落ちる2人を、裕香はまとめて割った。
鍬を振るいながら、裕香はチズと共に笑った。
チズも復讐に酔っている。自分を苦しめた役員共が、命乞いをしながら逃げ回り、次々と粉砕されていく様を楽しんでいる。
獰猛に、思いのままに力を解き放つ解放感、他者を踏みにじる快感。その先にあるものは、人格を失くして潰れた肉塊だった。
最後の1人を潰し、裕香は息をついた。大人数を全て仕留めた達成感は、ゲームを高得点でクリアしたような爽快感があった。
足元で振動する携帯があった。裕香は血の池からそれを拾い上げた。
『もしもし、母さん?』
着信には『哲也』と出ていた。声は若い男だった。
『あのな、さっきニュースでヒショウ会とかいう名前があったんだけど、それって母さんが最近買ったファンドじゃないよな? なあ、どうなの? 買ったのか? いくら買った?』
「……」
『怒らないから、正直に言えよ母さん、マコトがものすごく心配して……』
裕香は、腰から下が2つに分かれた女を眺めた。
その指にはめてある、スネークの指輪に気が付いた。
「ブルガリ……」
『え? なに? もう一度言えって』
裕香は携帯を切り、手足と肉塊で埋まった赤い床に放り捨てた。
恵たちは、5号棟の家庭菜園、鈴音の家の菜園スペースにいた。
畑のフェンスの向こうに道路があり、7号棟が建っている。宇野高之は自分の住居から目を反らして、地面を見つめている。
雑草が生え、手を付けていない鈴音の家の菜園スペースを、恵と淑子、鈴音は何も言わず見ていた。土をいじっている住民の会話が聞こえる。
「さっき、えらい人数が集会所集まっていたけど、何かあったの?」
「何か、金を騙し取られたとかどうとか……ニュースがどうとか」
「へえ、後で誰かに聞きに行こか」
びくりと動いた高之の肩を、恵は黙って叩いた。
今の高之にかける言葉はない。当事者でなければ、手当てできない傷がある。
「おばさん」
さっきから黙っている淑子へ、恵は思い切って声をかけた。
「ごめんなさい」
別に、と淑子は言った。
「恵ちゃんが謝る事じゃあないでしょう。むしろ、私と鈴音さんを庇ってくれたんだから」
「でも、あの場では余計な事を言いました……ごめんなさい」
「恵ちゃん、もしかして阿川さんと、会ったの?」
淑子の静かな問いに、恵は頷いた。
そう、と淑子は呟いた。
「もしかして、怖いものを見せたわね。ごめんね」
「怖いっていうより……」
可哀そうだった。
母を亡くした心細さは恵にも良く分かる。
自分の一部が無くなって、不完全になってしまったまま、補完もされない欠落感。
心細さを無視して、欲しくもない善意を押し付けられて、役立たずと罵り、蔑むだけの他人がどれほど怖かっただろう。
「お義母さん、今後自治会に出るの、どうします?」
鈴音が淑子に聞いた。
「もう自治会は抜けますか? 正直、あの久代率いる老害集団には私、もうウンザリですよ」
ため息混じりに鈴音は続ける。
「人が集まること自体は、悪い事じゃないです。1人じゃ出来ないけど、人数揃えば出来る事も広がりますけどね、でもあの自治会は集団ゆえの弊害しか無いですよ。声がでかい奴と多数の意志が正義で、少数派の意見は尊重どころか悪です。今回だって、久代のような我の強い奴に雰囲気が引っ張られたから起きたようなもんでしょ」
「そうね……わたしもちょっと疲れたかも」
淑子が空を見上げた。
「疲れたら、甘いものが欲しくなるわね……思いっきり炭水化物的で、カロリーの高いもの」
「良いですね、思い切り不健康で、ダイエットの大敵なんてどうでしょ」
「ホットケーキミックスと粉砂糖があるから、ドーナツ揚げましょうか。餡子も残っていたから、餡ドーナツが良いわね。作るの手伝ってちょうだい」
「やった!」
鈴音が高之の頭に手を伸ばし、髪をかき混ぜた。
「恵ちゃんにほら、あんたも行くぞ。しけた顔するな」
「……」
高之の顔が泣き笑いになり、頷いた時だった。
向こうから、足をもつらせながら女性がやってくる。
6号棟の住民だった。泣いている顔より、白い服に赤い染みが飛び散っている。その背後に、鍬を持つ人間が歩いてくる。
風に生臭い、不吉な匂いが混じる。
鍬を持つ手も、顔から全身が赤く染まり、すぐに宇野の妻と分からなかった。
手にした鍬を女性の頭に向けて振り上げた。
恵は悲鳴を上げた。淑子が目を剥いた。
空を切って小石が飛んだ。
石は宇野の妻……裕香の頬をかすった。「外した」鈴音が舌打ちした。
きびすを返し、逃げる裕香へ淑子が叫んだ。
「阿川さん!」
地面に崩れ落ちた女性は、わなわなと震えながら6号棟を指した。
「たす、たすけ……」
何があったか説明は要らない。
女性をその場にいた人たちに託して、4人揃って6号棟へ走る。
6号棟の家庭菜園は、血にまみれた住民3人が呻き声を上げて倒れていた。
淑子の悲鳴が聞こえた。
「阿川さん、待ってちょうだい!」
淑子が、裕香を追って7号棟へ向かっている。
戦慄が恵を駆け抜けた。
「おばさん!」
視界の外で、無事な男が一人いた。
手を動かして怪我人の止血を行いながら、鈴音と高之に他の怪我人の応急処置を教えている。
「そう、そうやって心臓の近いとこを押さえて……さ、おじさん、携帯で救急車を呼ぶから、もう少しだけ我慢して下さい」
古いガラケーを取り出し、男は恵を見た。
知らない男のはずなのに、一瞬、男と雪村吾郎が重なった。
男は裕香を追いかける淑子へ目を向けて、行けと目で恵に合図する。
その目に背中を押され、恵は走った。
団地の中央に位置する集会所があり、その向こうに7号棟と淑子が見えた。
集会所の横を駆け抜け、恵は窓を見やった。
そのガラスに恵の足が止まった。
ガラスに顔と手の平を押し付けた、中年男の顔が圧し潰されていた。
動かない男の向こうに、いくつもの首があった。手足が見えた。
ガラス越しの赤黒い光景に、恵は腰が砕けた。
裕香が持っていた鍬が浮かんだ。足が震えている。
7号棟へ行くのが怖い。
「おばさん」
恵は泣き声を上げた。
帰って来て、おばさん、行かないで。
すぐそばの死の光景が、冷えた手足を掴んで離さない。
その時だった。
「メグちゃん」
頭を強い声が殴った。恵は周囲を見回した。
信じられなかった。
母の声だ。
「メグちゃん」恵をそう呼ぶのは、母しかいない。
――母の葬儀後、父は一時期酒に溺れた。
何も出来ない父に、ある日、淑子は家に来て父に怒鳴った。
『死んだ人にはいずれ会えます。生きている間にすることしなさい。貴方は恵ちゃんの父親ですよ』
あの日、母の遺影は淑子を見ていた。
おばさんは、私たちにとって恩人で大好きで大事な人だ。
守れなくてどうする。
足の震えが消えた。恵は立ち上がる。
そうだよね、お母さん。
恵は駆けた。
ドアを開けると、まるで祝福するかのような風が優しく裕香を包み込んだ。
いつもチズと語らっていた南向きの和室に入る。
鴨居があって、ロープが垂れ下がっている。簡素な木製の椅子がある。
裕香は、よく働いてくれた鋤を畳の上に置いた。
血に染まった鋤は、刃の根元に髪の毛が絡みつき、貫禄さえあった。
これですっきりした。
裕香は息を吐いた。目障りなもの、不快なもの、自分に絡みつく全てのしがらみや怒りを叩き切り、潰した爽快感があった。
チズも嬉しそうに笑っている。
「二人の共同作業ね」
裕香は、もう一人の自分でもあるチズに語りかけた。
目の前には、ロープがある。
チズの囁きに従って、裕香は椅子に上った。ロープの結び目を確かめた。
アカワさんと声が響いた。邪魔が入った。
「待って! まちなさい!」
中年の女だった。
アカワさん、そう女が叫んだ時、裕香は狼狽した。
女は裕香を椅子から引きずり落とし、そして引き起こした。
「その人は、関係ない……止めて」
女は膝をついたまま、裕香を見た。
ごめんなさい、と女は言った。
「ごめんなさい、貴女を、庇えなかった。ごめんね……ごめんなさい」
涙を流す女に、チズが狼狽している。
「あの時、私がいちばん、阿川さんと立場が同じはずだった。私も夫に置いて行かれて、寂しくて悲しくて、辛かった。だからいちばん、気持ちが分かっているはずなのに、なのにあの人たちから、あなたを助けられなかった。ごめんね、ごめんなさい……」
女は裕香にしがみついた。
それを振り払おうとしたのに、チズがそうしなかった。
チズの記憶が裕香に見えた。
役員たちの中で、この女が唯一、チズの味方だったのだ。
集会所に呼び出された時、今は彼女にそんなことをいう時期ではないと、役員たちに意見をした。矛先がチズからこの女に向けられた風景が見える。
「ごめんなさい……アカワさん」
裕香は狼狽した。チズはこの女を好いている。
女の謝罪に、チズの喜びが伝わる。裕香の中に嫉妬が燃え上がる。
女を突き飛ばした。畳に置いた鍬を取った。
飛び込んだ悲鳴が手を止めた。
「止めて! おばさん!」
少女が飛び込んできた。女が目を剥いた。
「恵ちゃ……っ」
少女が裕香に突進してきた。
鍬を持つ手を狙う少女を振り払おうとしたが、離れない。
「おばさん、逃げて!」
「恵ちゃん、離れなさい! アカワさん、お願い止めて!」
少女は離れなかった。むしろ、力一杯に裕香にしがみついた。
「あなたの気持ちは分かる、私もお母さん死んじゃって、すごく悲しくて……それなのに、あのひとたちに、いじわるされて、ひどいよね、辛いよね」
裕香の中で、チズが震えている。少女の言葉に耳を傾けている。
「だから、自分の気持ちを正直に紙に書いたのに、せめて誰かに、辛かった気持ちを分かって欲しかったのに、その紙まで隠されちゃったなんて、残酷すぎるよ。ここの人たち、身勝手だよ……ひどいよ」
泣いている少女に狂喜するチズが、裕香にははっきりと伝わった。
殺してやる。
獰猛な嫉妬がこみ上げた。
チズは自分だけの女、裕香だけの味方なのだ。
もう、味方を失いたくなかった。
鍬を振り上げた。
この少女を先に殺し、そしてあの女を殺す。
そうしたら、チズには私だけになる。
『駄目』
チズの声に、裕香は鍬を取り落とした。
横にチズがいた。
黒と白の組合せの二人は、鏡合わせのようだった。
チズが裕香の手を取り、微笑んだ。
行きましょう、とチズが言う。
二人でずっと一緒だと言ったじゃないの、このチズの言葉は裕香の怒りを消した。
「ええ、ずっと一緒」
ベランダに目を向けると、青い空があった。風が優しく二人の背中を押した。
裕香はチズとベランダへと走った。
そして手すりを乗り越え、空へ向かって飛んだ。
※
物置の中に、久代はいた。
鉄の扉によって閉ざされた空間は狭く、正に棺桶だったが、棺桶のように横になる事は出来ない。外を覗くことも出来ない。
今、何が起きているのか、どうなっているのか。
脳裏には宇野清一の生首と、それを持つ女が住みついている。
殺人鬼が外で待ち構えている想像に囚われ、動けなかった久代だったが、外からサイレンの音が聞こえたとき、命拾いした幸運で力が抜けた。
外に出よう、出ても大丈夫だと、限られた動きの中で戸に手をかけ、引いた。
動かない。
焦りと汗が背中に伝い落ちた。
引き戸のはずだが、間違えているのかと思って押した。
だが、戸は屋根と一体化したようにびくともしなかった。
「助けてくれ!」
久代は絶叫した。叫びはサイレンの音にかき消された。
戸を叩こうにも、スペースは圧迫されていて、腕を大きく動かせない。
隙間を広げようともがいたが、大きいものや重量のあるものばかりが押し込められていた。動かすことも出来ない。
仕方なく、久代は待った。
出て行った妻が戻って来て、自分の不在に気が付くのを待った。
集会所に人が押し寄せる気配に安堵し、そのまま誰かが気が付いてくれるのを、イライラしながら、そして愚鈍な救助へ怒鳴り、何故気が付かないのだと罵声を放ちながら待った。
時間が過ぎて、周辺の人の気配が消えた。
空気が冷えていく中、怒りは恐怖に固まっていた。
「タスケテ……開けてくれ」
横にもなれない、しゃがむことも出来ない場所で、自分の体重を二本の足で支えている内に体力と気力がすり減っていく。
座る事の出来ない拷問を受けて、疲労で声は枯れている。咽喉が乾き、吸う酸素も薄くなった。心臓が苦しい。
開けてくれ、久代は願った。
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