第14話 怒りの嫁姑、破滅する清一

 このまま家に戻る気にならない。団地の敷地にいること自体が不快だ。


「鈴音さん、焼き肉食べに行かない?」

「良いですね。割り勘で」


 淑子と鈴音は、駅前の焼き肉屋に入った。

 いつも混雑する食べ放題店は、平日の中途半端な夜の時間のおかげで空いていた。

 運ばれてきたビールとハイボールをそれぞれ手にすると、2人は乾杯も無しに同時に一気に飲み干した。


「あのどアホども!」「あの痴呆集団!」


 2人は肩で荒い息をした。キムチや肉が運ばれてきた。

 カルビ、ロースにタン。そしてホルモン。

 脂で炎が燃え上がる。怒りに焼肉はよく似合う。


「恵ちゃんとお父さんが、お母さんのお墓参りで欠席で良かった。あんなの大人の集会じゃなくて醜怪だわ」


 カルビを焼きながら、淑子は吐き捨てた。


「あんな男共を見ていると、吾郎があんな風に育たなくて良かったって思うわ。親ばかだけどね」

「何を言うんですか! お義母さん!」


 鈴音が本気の怒りを見せた。


「ゴローさんとあんなもの比べるなんて、便所の落書きとルーベンスを比べるようなものですよ!」


 ピーテル・パウル・ルーベンス『キリスト昇架』が浮かんだ淑子は、嫁が息子を表わすその例えに、姑でありながら肉を落としかけた。

 しかし鈴音の顔は本気だった。

 怯える姑の前で、鈴音は憤然と肉を焼きにかかった。


「しかし、あの老人どもは宇野ファンドに一体幾ら注ぎ込んでいるんでしょうね」

「……別に彼らの老後資金なんかどうでもイイわよ。資産運用は自己責任でするものです」


 淑子は思案を巡らせながら、白菜キムチを自分の小皿に入れた。


「だけど自治会のお金をあのファンドになんて、とんでもない」


 ファンド運用案は可決も決まったようなものだが、300万の金をすぐに下ろして購入とはいかないだろう。どこかで止めるタイミングはないか。


「栗本さんを、味方に付けましょう」

「あの何でも『はいはい』な人をですか? 人には逆らわないけど、自己保身は強いタイプです。ああいう人って強い側につくんですよ」


 今、自治会内で雪村家の嫁姑連合は圧倒的劣勢だった。孤立している。


「その自己保身の強さを利用してやればいいのよ」


 淑子は塩タンを焼き網に置いた。


「実は私、昔に投資信託に失敗したことがあってね」

「あらま」


「市場金利に世界情勢に株価に、色々なものが複雑に絡み合って相場が動くから、予測そのものがしにくいのよ。だから投資信託はプロに任せて運用してもらう訳だけど、プロでも予測できない事態ってあるからね。私の場合、リーマンショックで損害額300万」


 カルビを取り落とす鈴音。淑子は笑った。


「この体験を栗本さんに話すわ。資産運用に大丈夫はない、このまま何も決めずに運用して、もしも失敗して損失でも出せば、会計の貴方が責任を取って、下手したら損害賠償を迫られる、そうならないように、今のうちにリスク管理と責任の範囲を決めておいた方が良いって、忠告しようと思うの。聞き入れてもらえば、まだ引き返せる余地が出来る」

「な、なるほど……」


 さんびゃくまんさんびゃくまんと呟く鈴音へ、淑子は塩タンを味わいつつ、鷹揚に頷いた。


「安心して。損失は競馬で取り戻したわ」

「馬にも手を出されていましたか」


「吾郎の父親が、歴史教師のくせにギャンブル好きでね。株取引もそうだし、競馬も予測の立て方や大怪我しないコツとか、私によくレクチャーしてくれたものよ」

「はは、すごい」


 鈴音が感心の体でカルビを咀嚼し、ビールを飲んだ。


「しかしまあ、よくあれだけ胡散臭い投資を信用できるもんだ。彼らも一応、それなりに人生経験を積んでいるはずでしょ。信用って実はお安いものなんですね」


「あの人たちはね、自分に愛想が良くて、都合の良い相手なら誰でも信用するのよ。それは向こうにとっても自分は都合が良い相手だって事じゃないの。そんな事も気が付かない人の経験値なんて、正に無駄よ。今まで散々吸ってきた酸素を返せって言いたいわ」


 淑子は氷の声で突き放した。


「信じるも何も、自分にとっては良い人だからって何でもお任せなんて、信じるじゃなくて依存よ」


 高之の顔が浮かんだ。父親の借金の事を知っているのだろうか。

 出来れば今は何も知らないで、貯金とバイトの費用を作って自力で参加した、修学旅行を楽しんでいて欲しい。今、高之はあの親から離れて自立に向かっている。

 その懸命さが裏切られることなく、大人になって欲しい。


 ハラミの焼き加減を見守りながら、鈴音が言った。


「ところで、恵ちゃんがいないところで、お義母さん」

「なに?」


「チズって何です?」

「……」


「この単語が出てくる度、お義母さんの表情が固まるのが気になっていたんですよ。どうも恵ちゃんに聞かせたくないワードっぽいので、今こうやって聞いてるわけです」

「貴方にも、あまり聞かせたくなかったんだけどね」


 淑子は炙ったカルビをひっくり返した。


「昔の話よ。チズは、7号棟の502号室に住んでいた人の名前」

「ふーん、引っ越ししたんですか」

「自殺したのよ」


 鈴音の箸が止まった。


「自殺した彼女を発見したのが、白石さんと久代さん、そして山杉さんと私」


 淑子は、阿川千鶴子の自殺の経緯を話した。

 最初は相槌を打って聞いていた鈴音だったが、やがて何も言わなくなった。

 淑子は話し終えると店員を呼び、ジンソーダを2人分注文した。


「……恵ちゃんが見たのは、死んだ女って事ですか?」


「断定は出来ないわね。そもそも私は幽霊なんか信じちゃいない。だって、吾郎の父親の幽霊だって見たことないもの」


 だが、今はその思いがせめぎ合っている。

 幽霊でも良いから会いたいと思う相手を見たことがない。

 それなのに、20年前に死んだ女を高之やその継母、恵までもが口にする。


「先日、山杉さんが階段の事故で亡くなって、それから白石さん。嫌な符号だわ」


 淑子はジンソーダを一気に飲み干した。


「それに彼女の自殺で、ずっと前から気になっていたことがあったのよ」

「何ですか?」


「遺書が無かったの」


 自殺を見つけたあの日、淑子は通報するため外に出た。

 救急車を呼んで、もう一度502号室に戻った時、久代と白石がいた。

 違和感があった。


「彼女の足元には、確かに白い封筒があったはずなのよ。でも部屋に戻った時、それが無かった。見間違いじゃない。あの時の色彩は全部目に焼き付いているもの」


 黒のセーター、白いスカート。

 そして白い封筒も。


「阿川さんの自殺に、遺書はなかったって後から聞いたのよ。警察も彼女の自殺を、母親の後追いだって処理したって。でもね、それがもし私の見間違いじゃなければ……」


 遺書は死を選んだ人間が、最後に書き残す自分の想いだ。

 疑惑はあった。

 だが、そうと思いたくないから記憶に蓋をしていた。そして今、死者の手によって記憶の蓋がずらされた。


 もしも、封筒の中身を見た人間が、自分に都合の悪い内容を書かれたと知り、それを世に出すまいと故意に隠されたのだとすれば。

 どこまでも身勝手で残酷な、死者への冒涜だった。


                ※

 

 日曜日の朝だというのに、ターミナル駅の利用客は通勤ラッシュ並みの人ゴミだった。

 清一は、家で身支度を二時間かけて整え、そして駅のトイレの鏡の前で、もう一度身なりを整え、それでもまだ気は抜けず、街を歩きながら、ショーウィンドウに映る自分の姿をチェックした。


 オメガの腕時計を見た。矢島から連絡のあった待ち合わせ時間まで、あと1時間以上あるというのに、はやる心を抑えきれずに駅に到着してしまった。

 矢田から連絡が来たのは、2日前の事だった。


『宇野さん、聞いてくれ。会長が君と僕に会いたい、話をしたいと連絡が来たんだよ!』


 携帯の向こうの矢島の声は、半分泣いていた。


『僕らのチームの売り上げが、投資信託とセミナー会費や教材、項目全部3ケ月連続でオール1位を取ったんだ! しかも2位のチームとの差は倍近くある! これは飛翔会始まって以来の新記録だ。全部君のおかげだよ。会長も君の働きに感激している。優秀な成績に会長は注目しているんだ。僕と君に会って話をしたいと仰ってこられたんだ』


 清一は感激のあまり携帯を取り落としかけた。


『30の日曜日、午前10時にホテルオークラのラウンジに来て欲しいそうだ。いつも、僕らが待ち合わせしているラウンジだよ』


 さっきまで抱えていた怒りを忘れ、目の前がバラ色に包まれた。

 会計の栗本が今になって突然、自治会費の中から300万円を出すことを渋ったのだ。


『やっぱり大金ですし、もしものことがあったら大変ですから、念のためリスクのことや責任者とか、色々決めておいた方が良いって仰る人が出てきまして……』


 すぐに、あの雪村淑子と鈴音の横槍だと直感した。

 それを聞いた久代は激怒し、あの2人を呼び出せ、役員を解任して自治会から追い出してやると息巻いているが、清一も今は同感だ。

 自治会の事もあるが、それ以上に闇金に借金という恥部を知られてしまった。


 いっそ、自分の取り巻きや他の役員たちを動かして、団地の居場所を奪ってやろうかとまで考えている。

 だが、自治会の金はもう決まったようなものだった。いくら栗本が愚図っても久代の前では時間の問題だろう。


 意気揚々と、清一はホテルのラウンジへと向かった。

 柔らかなベルベットの椅子に腰を下ろし、ウェイターにコーヒーを注文する。

 ガラスの壁を通し、街中とは思えないほど緑と花に埋まったホテルの庭園が見えた。


「早く着すぎたか」


 矢島でも、流石に約束の1時間前にいるはずもない。

 清一は運ばれてきたコーヒーをゆっくりとすすった。正直、コーヒーそのものは街中の喫茶店の方が美味いが、今の清一はコーヒーではなく、成功そのものを味わっていた。


 一流ホテルだけあって、行き交う客は身なりの良い人々ばかりだ。

 清一もその中にゆったりと埋もれ、上品な人間観察を楽しみ、月収1億の予定を立てた。天馬会長と同じポルシェを買い、ジェット機を買い、世界中のリゾートに別荘を建てて美女を集め……


 ――おかしいと感じたのは、約束の時間になっても矢島が現れない事だった。

 矢島が約束の時間に遅れたことはない。待ち合わせ10分前には必ずいる男だった。


「珍しいな」


 今回に限って、何かあったのか。

 午前10時を過ぎた。

 清一は、何度もラウンジの中を確かめた。

 出て行く客、入ってくる客の顔を確かめ、もしや場所を間違えたのかと慌てたが、確かに矢島は「いつものラウンジ」と言った。


 ここ以外に間違いはない。

 20分後、矢島の携帯を鳴らした。だが、留守番電話にすら繋がらない。

 何度も鳴らし、何度も周囲を確かめた。心臓が嫌な動悸を奏で、焦燥と不安で清一の全身は濡れた。天国から不安地獄への墜落だ。


 午前10時を1時間過ぎた。

 何があった? どうして来ない? まさか事故か? だが二人揃って来ないのだ。何が起きた。何か間違いがあったのか?

 泡のようにブクブク沸き上がる不安と不吉さに、うろたえていた矢先だった。


 携帯が鳴った。矢島だ。


「矢島さん! どこに……」

『もう無理だ、行けなくなった』


「え?」清一は呆けた。


「何があったんです? 会長と会うお話はどうなるんですか?」

『もう無理だ』


 矢島は繰り返した。


『ニュースを見ろ』


 携帯が切れた。かけ直したが、つながらない。

 震える指で、清一は携帯のネットニュースを見た。


『本日朝未明、……特捜部が、セミナー詐欺を検挙。架空の投資信託など詐欺を合わせて、被害総額約40億円』


 飛翔会代表者、天馬翔、本名・柴田知良43才、金融商品取引法違反と詐欺の疑い、ネットの中で暴れる単語に、清一はたまりかねてラウンジから逃げ出した。

 外に出た。

 頭の上の街頭テレビに、清一は立ち止まった。


 決定打が脳みそに打ち込まれた。

 巨大画面に、あの天馬翔が男たちに囲まれて車に乗せられている。

 どこかのタワーマンションのエントランスから、次々と運び出される段ボール、追いかける記者たち。

 アナウンサーが事件を読み上げた。


『柴田容疑者は啓発セミナーなどを開催し、そこで出席者を洗脳したうえで、特別な投資信託があると誘導、出資金をだまし取った疑いがあるとみられ……』


 ニュースが清一を追い詰める。

 うそだと清一は否定した。

 携帯が鳴った。

 久代だ。清一は放置した。きっとニュースを見たに違いない。


 何十回も続いた呼び出し音は途切れ、間を置かずまた鳴り始めた。

 広川だった。それから携帯は狂ったように鳴り続けた。

 辻尾、田宮、工藤、着信表示が次々と表れた。メールとラインにも、狂ったようにメッセージが溜まっていく。

 携帯を思わず投げ捨てようとした時、次の着信表示に清一は手が止まった。裕香だった。


『も、もし、もし……』

「お前か、裕香」


『は、はい』

「ニュースを見たのか? いいか、あれは何かの間違いだ」


 清一は怒鳴った。


「家に誰が来ても、ドアを開けるな……」

『ああ、もしもし副会長』


 耳に冷水が流し込まれた。


『やっと出た。何度も電話したんだけどね』

「……くどう、さん」


 工藤さつきは、亭主の退職金のほとんどを飛翔会のファンドにつぎ込んでいる。


『団地の集会所に来て下さい。皆さんお待ちですから』

「ニュースを信じちゃいけません!」

『オヤジ、どこにいるんだよ!』


 声が高之に代わった。


『いきなり大勢の奴らが家に来て、アイツと一緒に無理矢理集会所まで連れて来られたんだよ、皆物凄く怒っているっていうか、泣いている奴もいるし滅茶苦茶だよ、オヤジ、あんたこいつらに何をしたんだよ!』

「……」


『早く帰ってこい、出ないと俺、こいつらに殺されちまう……』


 また、声が変わった。


『早く来てください』

 通話が切れた。


 逃げたくても逃げられなかった。逃げたら警察に通報される、それよりも団地の住人に殺される気がした。

 集会所には、自治会役員たちが全部揃っていた。

 清一は債権者に取り囲まれた過去を思い出す。あの日、債権者たちは清一にビジネスライクに刃を向けたが、今の集会所は、怨嗟と憎悪、失望が渦巻いていた。


「お金を返して!」


 真っ先に掴みかかってきたのは、工藤さつきだった。


「退職金なのよ! 主人に知られたら殺される! 返してっ」

「本当なの、宇野さん? 信じていたのに!」

「騙したのね、お金を返してよ! 全部返せえええっ」


 女が泣きながら、男に掴みかかっている。


「あんた、私に黙ってこの詐欺師の言う事信じたの? ねえ、本当にそんなうまい話があると思って、何百万も預けたの? この大馬鹿野郎!」

「久代、会長、おい!」


 誰かが怒鳴った。


「あんたにも責任があるんだ! あんたが団地の皆に、この詐欺師の嘘を広めたんだろうが!」

「儂のせいにするのか!」


 久代が怒鳴った。


「儂だって被害者だ! 大金を騙し取られたんだ」


 待ってくれ、信じてくれ。

 清一は声を出したが、狂乱と怨嗟の中に消し飛んだ。

 どうする? どうすればいいんだ。

 怒りと泣き声は、全て自分に向けられている。清一は立ち尽くした。


「日曜に緊急だって、いきなり呼び出されたと思ったら」


 集団から外れた位置で、淑子がため息混じりに嘆いた。

 鈴音が腕を組んだ。


「私たち以外にとっては、超ド級の緊急案件ですよ。自治会費は崖っぷちセーフ」


 集会所の中で起こっている騒ぎに、恵は絶句していた。役員の顔、顔、全ての顔が険しく歪み、醜く怒鳴り散らし、泣き喚いている。

 お金のために、大人はここまで荒れ狂うのか。


「恵ちゃん、お家に帰りなよ。こんなの高校生が見て良いもんじゃない」


 鈴音の言葉に、恵は頭を振った。

 怒りの輪の中に宇野高之と継母がいる。

 宇野の家族である彼らは、生贄のようだった。怯えている高之に何が出来るか分からない。せめて見守るくらいしか出来ない。


「皆さん、宇野さんを責めても仕方が無いでしょう」


 淑子が声を上げた。


「こうなって出来る事は、事件の情報を集めながら、被害者の会を……」

「アンタは知っていたんだな!」


 久代が突然怒鳴った。


「アンタは宇野が詐欺師だと知っていたんだ、この中で無事なのは雪村さん、あんた達だけだ、あんたはこうなると知っていたんだな?」


 鈴音がため息をついた。


「忠告しようとしたら、聞かなかったじゃんか。ま、あんたがごり押しした自治会費は、投資せずに無事だから、喜んでちょうだい」

「うるさい! 儂は自治会のためにやったんだ! どうして宇野が詐欺師だと分かっていて、儂を止めなかった? お前らが知らんぷりしていたから、こんなことになったんだ! 許さん、卑怯だお前ら!」


 恵は、久代の言っている意味が理解出来なかった。


「儂は、皆のためだと思って、投資の話をしたんだ! 団地のためだと思ったんだ! 儂は被害者だ! 分かっていながら、最後まで止めなかったお前らは、宇野と同じ加害者だ!」

「くそじじい!」


 恵は怒鳴った。場が沈静化した。

 恵は停止した久代へ、声を叩きつけた。


「何が団地のためだ! 何が被害者だ! おばさんと鈴音さんに罪をかぶせるな、この卑怯者!」

「……」


「あんたは自分の事しか考えてないじゃないか! 自分の都合のその上に、団地が乗っかっているだけじゃないか! 自分のせいで起きたことくらい、ちゃんと自覚しなさいよ! あの人のことだって……っ」


 目の奥に、あの「ちーちゃん」が浮かんだ。

 彼女の遺書を握りつぶした久代と、白石が浮かんだ。


「自分たちは良い事している気になって、怖がっている女の人を無理矢理ここに引っ張って来て、皆でよってたかって取り囲んで苛めて、家にまで押しかけて、自分たちがそうやって、7号棟の女の人を追い詰めたくせに、そのせいで死んじゃったら、彼女の遺書を勝手に持ち出して、酷いじゃないか!」


 久代の顔が白くなった。

 淑子の顔色が変わった。

 鈴音が目を見張った。


「自分は悪くない、悪くないって、人のものを盗んで、今はおばさんや鈴音さんに責任かぶせようとして、あんたが一番最低! 何が人のためだ、そのくせ都合が悪くなったら逃げようとする、あんたが卑怯者よ!」

「ゆ、ゆきむら、おいユキムラっ」


 久代の声は、悲鳴だった。


「儂が遺書を捨てたことを、あんたが知るはずない。アンタ、この子に何を吹き込んだ? 儂を責めようとして、この子に言わせているんだろ! 汚いぞあんたはっ」


 淑子が呆然となった。久代のそれが自白だった。


「久代さん、あなた……」

「うるさい、そんなの今は関係ない! これは関係な……」

「あははっはははっははっ」


 空気が笑い声に吹き飛ばされた。

 恵は戦慄した。

 あの女がいた。

 宇野の隣に、高之の傍にいる女。


 黒いセーターではなく、黒いシャツに白いスカート。

 でも顔は間違いなく、あの女だった。


「あーははっははっははははははっははははははっ」


 声そのものが狂気だった。部屋の中が氷結した。


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