第13話 薄氷の上で踊る人々

 「ハッピバースディ・トゥユー」


 清一が店にあらかじめ頼んでおいた誕生日ケーキは、流石に有名店のパティシエの手によるものだけあり、商店街のケーキとは数段センスが違っていた。

 スポンジ台に生クリーム、その上に宝石のようなベリー類と金粉を無造作に散らした、工芸品のようなケーキ。その上に、紫のロウソクが1本。


 ろうそくの炎を広川景子が吹き消した。

 テーブルの上に拍手が鳴り響いた。


「お誕生日おめでとうございます、広川さん」


 宇野清一が真っ先に声をかけると、それに続いて次々と「おめでとう」と3人の女性の祝いの声が次々と降り注ぐ。


「やあねえ、こんなオバサンになって、お誕生日をお祝いして頂くなんて、恥ずかしいわ」


 丸い顔を赤らめて、景子が身をくねらせた。


「恥ずかしいも何も、おめでたい事には変わりないですよ」

「イヤだ、宇野さんてば、そんな若い子ならとにかく、ねえ皆さん」

「何言ってるのよ、広川さん」

「そうよ、恥ずかしがらないで」


 辻尾敏江、田宮貞世、工藤さつきが華やいだ声ではしゃぐ。

 このテーブルにつく4人は、北園和団地に住む主婦たちで、皆自治会役員だった。

 60代の浮かれる主婦たちを前に、このランチ会のセッティングをこの店にして大正解だったと、清一は内心ほくそ笑む。


 団地から電車乗って数十分もかからない場所だが、それでも巨大ターミナル駅があり、繁華街とオフィス街のある中心地である。

 このリストランテ『ドゥエ』は、この一等地に店を構える有名なイタリア料理店で、グルメ雑誌にも良く掲載されている人気店だった。


 黒と白を基調にしたモダンな店内には、季節の花があちこちに飾られ、インテリアも洗練されていると定評がある。夜はコースがメインの高級店だが、昼のランチなら4千円から楽しめる。それに夜より予約は取りやすい。


 働いている女と違い、ずっと専業主婦だった彼女たちは生活圏が呆れるほど狭い。

 外出しても家族仕様の場所ばかりで、雑誌に載るようなレストランなど、夢のような場所だろう。


 清一が連れて来た団地の主婦たちは、店の前で案の定、敷居の高さに怯えていたが、先導する清一の物慣れた振る舞いに安心し、やがてテンションは上昇した。

 1皿ずつ運ばれてくる繊細な料理に目を見張り、ランチのコースを堪能し、今ではリラックスして華やかな空間に大喜びしている。


「こんな素敵な場所で、お誕生日パーティしてもらえるなんて思わなかったわ」


 食後の紅茶を前に、景子が目を潤ませた。


「亭主相手じゃ、ファミレスがせいぜいよ。去年なんか、焼鳥屋のテイクアウトで誕生日だったのよ」

「誕生日を憶えてもらっているだけでも、良いじゃないの」


 しみじみとした敏江の言葉に、他の2人も頷いた。


「まだサプライズがありますよ」


 清一は、リボンをかけた小さな箱を差し出した。


「広川さんへ、私からのお誕生日祝いです」


 テーブルの上で、高い歓声が沸いた。

 声の大きさに他の客たちが振り向いたが、嬉しさのあまり、景子は周囲に構わず箱を開ける。


「まあ、カワイイ!」


 リボンをかけた箱の中身は、景子の誕生月の星座、かに座をモチーフにした銀のコイン型キーホルダーだった。

 女へのプレゼントは、本人に属するモチーフが一番手堅い。清一は相手の星座をよく利用する。神秘的でエキゾチックな星座は、女性に特に受けがいい。


 効果てきめん、景子は潤んだ目で清一を見つめた。


「ありがとう、とっても嬉しい……」


 感極まって泣き出した景子の横で、敏江が清一をうっとりと見つめる。


「宇野さんのおかげで、私たち今はとても幸せよね。こんな素敵な場所に連れてきてもらって、お誕生日のお祝いまで」

「本当、こんなところに来られるなんて、夢みたい……家族となんて絶対に無理よ。宇野さんのおかげね」


 貞世が、胸元につけたダイヤのネックレスをそっと撫でた。

 昨日買ったばかりだという、ブランドのバッグを持って来たさつきが頷いた。

『飛翔会』の会員限定で購入できる、高利回りファンドの配当金のおかげで、主婦たちは色々と買い物を楽しめるようになった。


 勿論、景子も敏江も二人と同様、流行の服を買い、気兼ねなく美容室へ行けるゆとりが出来たからこそ、こんな店に入る勇気が持てたのだ。


「いえ、私のおかげではなく、飛翔会のおかげですから」


 心の底から清一は述べた。


「そして、私の言葉を信じて、飛翔会の会員になって下さったのは、皆さんの賢明な判断と行動力のなせる業です。私はきっかけの一つに過ぎませんよ」

「本当に、人が出来た方ねえ」


「宇野さんが北園和団地に住んでいるのは、本当に幸運だわ。あなたは団地の救いの神よ」


 感謝であふれる主婦たちの頭上に、清一の目にはそれぞれの出資金額が浮かんでいる。

 広川景子が飛翔会に入会したのはつい最近だが、すでにセミナー代金に教材、そして出資金額で合計300万円出している。


 この中の3割が紹介料となり、100万円近くが自分の懐に入るのだから、2千円程度の誕生日プレゼントなど、清一には安すぎるものだった。

 辻尾敏江はまだ30万だ。銀行預金など管理しているのが亭主なので、敏江が自由にできる金は限られているが、この誕生日パーティによって、清一をめぐる他の女性たちへの競争意識が刺激されているようだ。


 田宮貞世は、もうすぐ保険が満期になると聞いている。

 工藤さつきには、亭主の退職金の運用を薦めている。

 銀行に預けていても、利息はわずかだ。お金を増やすには預金よりも資産運用の時代だと、 豊かな老後を送るためには飛翔会のファンドが間違いないと説得中だ。


「ねえ、来月なんだけど……」


 さつきが、遠慮しがちな声を出した。


「私も誕生日なの……どうかしら?」

「もちろん、お祝いしましょう。良いお店を探しておきますよ。後で好きな料理を教えて下さいね」


 退職金の金額を想像しながら笑顔を見せた。

 さつきが清一へ向けて、女子高生のような嬌声を上げた。

 敏江と貞世が一瞬、くやしそうな顔になる。

 女同士の競争意識やプライドを、こうやって利用しない手はなかった。


 元々接客業だった清一は、女性に対する扱いは慣れている。

 店の清一に対しても、自分を特別扱いして欲しがる客は、特に女性が多かった。おかげでそういった女性の視線や関心を汲むことに、清一は長けている。

 自分を見つめる主婦たちも同様だった。


 こうやってグループの中で1人1人平等な笑顔を向けているうちに、必ず誰かが自分だけを特別扱いをして欲しがるようになる。

 その相手は清一の関心を買おうと飛翔会に金を落とし、その行動が他の主婦たちの競争意識や嫉妬心を刺激するのだ。


 この4人の主婦たちは、その中で特に抜きんでたグループだった。

 今や清一のファンクラブを自認して、こぞって飛翔会の投資に金を落としている。

 清一の元に会員が集まるほど、会員が飛翔会に金を落とすほど、紹介料やマージンが清一の収入になる。


「スゴイよ、宇野さんは!」


 最初に清一を『飛翔会』に入るきっかけを作った矢島は、清一の手腕に目を見張り、感嘆してくれた。


「私が見込んだ通りの人だ、貴方は元々成功者の側にいた人なんだ。宇野さんを仲間に入れた自分自身が誇らしい」


 清一が団地の住人を何人も会員にしたことで、清一のグループの上にいる矢島の地位も上がっていた。


「このままいけば、私たちは天馬会長の目に止まるかもしれない」


 そうなれば非常に素晴らしいことだった。

 天馬会長と顔を合わること、それは飛翔会の幹部コースを意味していた。

 月収1億が現実になるのだ。


 ――主婦たちとのランチ会は正午少し前に始まり、午後15時に団地の中で解散になった。

 夫や家族のために夕食の支度や家事がある彼女たちは、自由時間が昼間だけだ。際限なく付き合わなくて良いのが利点だった。


 家に戻ると、裕香はパートに出ていた。

 高之も学校だ。冷蔵庫を開けてビールを取り出し、一気にあおると、主婦たちの前で好人物を演じる疲労と、達成感がどっと沸き起こった

 今回のランチ会は会費制だ。清一の懐はさして痛まないが、それでも店の予約などお膳立てをした清一に、彼女たちの好感はまた上がるだろう。

 帰り道、こっそりと清一に囁いてきた敏江の囁きを思い出す。


『実は、母が私に遺してくれているお金があって……』


 事業に失敗した過去へ、債権者や自分を見下した人間へ、清一は吐き捨てた。


「ざまあみやがれ」


 惨めな傷が癒えつつある。

 やはり自分は有能だったのだと、経営の失敗は運が悪かったのだと、世界から仲直りの握手を求められている気分だ。


 皆がこぞって自分に群がり、手を伸ばしてくる光景は、過去の華やかな日々を彷彿とさせ、あの地位がまた取り戻せる自信につながった。

 住民も建物も、半世紀前に建てた古ぼけた団地だが、賃貸ではなくて基本は分譲だ。特に古くからの住民は小金を持っている。


 しかも閉鎖的なコミュニティは、一度警戒心を解いた相手に対して、完全に無防備になる。

 危機感も簡単に手放してしまう。

 老人は、自分の懐に入ってくれる若者を簡単に信用する。

 笑顔イコール誠実なのだ。


 ファンドにしてもそうだった。大事な金を出して購入する商品なのだ。金融商品の構成内容や運用の方針といった基本的な事だけでも説明を聞き、もしくは自分でも勉強するはずだが、老人たちはそれをしなかった。


 それは逆に清一を疑う行為だと思うのか、あの久代と同じように『宇野さんを信用するよ』 そういって、清一に簡単に金を預けてしまう。

 ビール缶をテーブルに置いた瞬間、携帯が振動した。

 メールの着信があった。


『明日、返済日です』  


 高揚感がしぼんだ。

 そういえば、明日は10日に1度の返済日だった。

 自己破産をした清一には、クレジットもローンも五年間は使えず、裕香のパート代から『飛翔会』のセミナー代や教材費をねん出するにも限界があった。


 勧誘のためには自分自身を広告塔にして、ブランドにするためには、金が無くてもブランド品を身につけて、余裕を演出する必要があった。

 やむを得ず、資金を調達した先はいわゆる闇金業者だ。スマホがあれば顔を合わせずに金を振り込んでもらえる手軽さに、どんどん金を借りた。


 必要経費で借りた総額は、今はどれだけになったか分からない、というより、清一は考えるのが怖い。

 それでも今のところ、いくばくかの金を返済日には機械で振り込んでいるので、強引な取り立ては来ていないのが救いだ。


 いくら飛翔会の幹部コースが目の前に見えたとはいえ、人を紹介してすぐにマージンが入るわけではない。

 入金にはタイムラグがあった。そうやっている内に利息がかさむ。

 そして数日前は、皆に誇示するためにオメガの時計を購入した。


 そうやって金を回している内は、借金の返済はいつ終わるかは分からない。そして今は利息を払うのが精いっぱいだが、そのうち何とかなるだろう。


『成功した自分をイメージしなさい。そのイメージは将来の貴方からのメッセージであり、守護霊でもある。チャンスはピンチや失敗の後でやってくる。ピンチとは、貴方を試す運命のいたずらだ。失敗は貴方の経験値だ。何があっても、自分を信じてイメージするんだ、成功を』


 飛翔会の教材用DVDの中で、天馬翔が熱く語る言葉だった。

 そうだ、と清一は背筋を伸ばす。

 成功だ、今俺は、成功へ向かって間違いなく歩いている。

 レストランや事業を経営していた過去の栄光は、月収1億の未来へ続く、飛翔会での成功への道中だったのだ。


 清一は、和室に置きっぱなしにされている、空のバカラの花瓶を見やった。


「そのうちどこかへやっちまおう。もう要らん」


 タワーマンションに住んでいた頃の残滓だ。

 ウンザリとした記憶と映像が蘇った。


『なんでよ、なんでよおおおおっ』


 清一が自己破産すると知った時の、裕香の絶叫だった。

 自己破産の憂き目に、失意のどん底に落ちた夫への寄り添うどころか、罵声を浴びせたのだ。元々羽振りの良い時に出会い、遊び相手の中で一番若くて美しいという理由で再婚した相手だ。


 それでもやはり、自分は裕香にとって金づるだったのだと思い知らされた瞬間だった。 思えば事業失敗の引き金は、仕事の片腕だった前妻との離婚だ。

 結婚してしばらくの間は、裕香に夢中だった。

 若い妻の驕慢と我儘も、美しさに添える一種の無垢で魅力だったが、今では腐った花だ。


 離婚しなかった理由は、財産分与も慰謝料も出せなかったからだ。

 愛情も無く、役に立つ道具とも言い難いが、殴れば言う事を聞くようになったので、廃棄を遅らせているだけだった。

 高之には今の私立高校を退学させて、安い公立に通わせようか悩んでいる。


 バイトを始めたらしいが、私学の学費を稼ぐほどではないだろう。

 修学旅行には参加するらしい。

 自分の貯金から参加費用を捻出したと言うが、どれだけ金を持っているのか、後で聞かなくては。


 まあ、どちらにしろと、酩酊した頭で、とりとめなく清一は考える。


「女がいねえのは、つまらねえな」


 飛翔会で、せっかく上昇気流に乗りつつあっても、今は昔のように女と遊べない。

 何せこの団地は、ほとんどが60代から上の老女ばかりで、秋波を送られても返す気にもならない主婦ばかりだった。


 その中で、一人だけ別種の女がいる。

 だが彼女に手を出そうものなら、今取り入っている主婦たちの怒りを買うこと必須だ。


「しかし、亭主は単身赴任で、同じ自治会だ」


 何とか出来ないものかと、気の強い美貌を思い浮かべた。

 そんな女の攻略は、男の力量と度胸を試す刺激的なゲームだ。

 携帯が鳴った。久代だった。


『やあ、副会長。これからうちに来ないか? 折り入って相談があるんだが』


 夕方16時過ぎ。もしかしたら酒に誘われるかもしれない。

 自治会の事か、投資の事か、どちらにせよ久代はこの団地のキーマンだった。上手く機嫌を取っておく必要がある。


 清一は4号棟の205号室、久代の家に行った。


「やあ、きたか」


 鷹揚に清一を出迎えた久代は、傍に立つ老妻に「ビールと肴もってこい」と命令した。

 初対面である久代の妻へ、清一は笑顔で挨拶したが返ってきた反応は薄かった。


「宇野さん、家で何をしていた? さては雪村の嫁の事でも考えていたか?」

「そんな事は考えませんよ。昼は広川さんたちをランチ会のレストランへ引率です」


「あんな婆さんたちと一緒に昼飯? よくやるよ。ボランティアだな」

「ご婦人たちと楽しい会話と、美味しい食事を楽しみましたよ。久代さんもいつかご一緒しますか?」


 誘うのは口だけだ。恐らく、彼女たちが久代を嫌がるだろう。

 オイ、早くビール持って来いと久代が台所へ怒鳴り、ハイと返ってきた声に舌打ちする。


「とろいぞ」


 尊大な態度は、典型的な劣等感の裏返しだ。相手が自分に従順でないと不安なんだろう。

 とはいえ自分の言いなりになる相手を大事にするわけではなく、見下すだけだ。

 逆に、自分の言いなりになると思わせれば、逆手でコントロール出来る。


 久代の妻がビールと肴を運んできた。

 まぐろの刺身と枝豆、冷ややっこ。一目見てスーパーのパックをそのまま移したと分かる皿だ。火を使った料理はない。


 ビールを運んできた久代の妻に礼を言い、宇野は久代に笑顔を向けた。


「それで、ご相談とは?」

「うん、自治会の事でもあるし……投資の事でもある。まあ飲めや」


 清一は、久代の投資累計額と今後引き出させそうな見積もりをはじき出した。

 今、久代は1800万円出させている。貯蓄より投資のほうが断然有利だからと、定期預金を片っ端から解約させて投資させた。

 貯蓄はそろそろ底が見えて来た。次は保険か積み立てか?


 だが、違った。


「自治会の事だよ。まあつまり、団地の未来の事でもある」

「団地の未来?」


「そう、アンタ、今の自治会を率直に言ってどう思う?」

「そうですね」


 清一は久代の顔色を読んだ。久代は今の自治会に不満があるらしいが、それは若輩者の意見ではなく、年長者の有難い意見として言わせた方が良い。


「自治会の活動そのものが、少なくなっているそうですね。昔に比べたら消極的になりつつあると、役員の方々から聞いたことがあります」

「その通りだ。自治会の持つパワーそのものが小さくなっている気がするんだよ」


 久代は大きく頷いた。


「昔の団地は若くて、自治会は活気があった。子供が大勢いたから地域の祭りやイベントも盛んだった、住民も皆の役に立ちたいと言って、積極的に役員を引き受けてくれたもんだ。人手も多かったので、それが活気に繋がった。それが今ではどうだ。少子化はもとより、自治会そのものが敬遠されている。仕事がどうの体がどうのと、そんな大役は御免だとか、みんな腐った言い訳ばかりで、役員から逃げ回るようになった。輪番という強制までしなくちゃならんのか」


 ぐいっとビールを飲み干し、久代は吐き捨てた。


「もう自治会は要らないとか言う奴も出て来た。ネットやSNSがあるから、回覧板も邪魔だという馬鹿までいる。そうじゃない、そんなモノから外れたところに、自治会の価値はあるんだ。皆の生活を皆で見守る、助け合いの精神こそが自治会の基本なんだ。それを理解出来ない、大馬鹿野郎がいるんだよ」


「そうですよね」

 清一は深く頷いた。


「私は、この自治会の皆さんと交流する中で、会長と同じことを考えるようになりました。時代が変わっても、人とのつながりは消えません」

「そうだろう!」


 我が意を得たと言わんばかりに、久代は大きく頷いた。


「そこでまず、解決しなくちゃいけない問題は人手不足の解消だ。やはり、人を動かすのは報酬だと思うんだよ」

「報酬?」


「自治会役員の1年間の報酬だよ。会長は1万円で、その他は3千円」


 号棟の連絡役や、回覧板の管理などの報酬である。


「白石さんの件でも、自治会役員までもが事件を忘れた顔をしている。本来なら、警察だけに任せずに、団地で起きた事件は、自分らで犯人を見つけるくらいの気持ちを持つべきと思うが、どうだ?」

「そうですね」


「それなのに、皆すでに他人事のような態度だ。危機感というものが無い」

「……白石さんの傍にいたらしい女性は、どうなったんでしょうね」


 何気なしに口にしただけだ。だが久代が激昂した。


「そんなもの、いるか!」

「……」


「あの子供の見間違いだ! いや、もしかしたらあの娘が犯人かもしれん! 今どきの子供なんか、一体何を考えて仕出かすか分かったもんじゃない!」


 自分の大声に驚いた久代が我に返った。そして呼吸を改めた。


「いや、つまりだ。役員たちの責任感や、やる気を引き出すためには、報酬を引き上げるのが一番の起爆剤と思うんだよ。1年に1万や何千円なんて、子供のお年玉以下じゃないか」

「報酬ですか……それは確かに一番効果がありますが」


 まあ見ろよと、久代は自治会の書類を出してきた。先月の会計報告だ。

 住民たちから集金した自治会費の収入に、支出と残高が記されている。


「497万も、残高があるんですか」

 500万円近い自治会の予算に、清一は驚いた。

 毎月入ってくる自治会費は月に4万、年間で50万になるが、イベントや備品などの支出が極端に少ないので、積もり積もってこの金額だ。


「この金額を、飛翔会のファンドで運用したらどうかと思うんだ」


 降ってわいた提案だ。清一は息を呑んだ。


「飛翔会のファンドなら、元本保証で年利回り20%は固いんだろう。予算のうち400万円だけでも運用したとして、税金を取っても分配金の利益は60万以上。役員14人分の1年の報酬として、十分だと思うんだが」


 久代の声は、熱を帯びた。


「自治会予算をファンドに回す考えを、会計の栗本さんに話そうと思うんだが、あんたからも頼んでくれないか? あのおばさんは、あんたの言う事ならハイハイと聞く。それに投資して自治会の報酬費に回すのは団地のためだ」

「素晴らしい考えだと思います」


 心の底から述べた。マージンがまた取れる。


「久代さんの、自治会や団地に対する熱意を、きっと他の方々も分かって下さると思います。人の意識を変えるためには、十分な対価は必要です」


 人の熱意を金で買うと言えば聞こえは悪いが、久代は久代なりに自治会や団地の事を考えてはいるらしい。

 気が付けば、すっかり話し込んで4時間も経っていた。

 話のほとんどは久代の自慢話と愚痴と説教だったが、この男のおかげで思わぬ資金が発掘されたのだ。


 そう思えば、夜通し話を聞いてやっても良いくらいだった。

 さて、会計の栗本七恵に、自治会の金の事をどう話そうか清一は思案した。

 40過ぎの子持ちの主婦で、一時期は会計事務所で働いていた。この経歴から自治会の会計係を務めている。人柄は大人しいので、説き伏せるのは簡単だろう。


「上手くいくも同然だな」


 自治会の金は気が付かなかった。

 久代の目のつけどころに感心しながら、清一は帰途についた。

 玄関には裕香の靴があった。パートから帰っているようだ。

 久代の家で酒も食事も済ませていた。風呂に入ろうと清一は台所に入った。


 ベランダに、裕香の背中が見える。清一は足を止めた。


「ねえ、ねえ、ねえ、ねえ」


 裕香がベランダから身を乗り出して身をねじり、何かを訴えている。

 ベランダ越しに、横の家の誰かと話をしているのか。

 だが、隣は空き家だ。


「チズさん、出てきてよう」


 まるで、子供が母親を求めて泣いているような声だった。


「おねがいだったらあ……ねえ、わたしとあいつらは、べつに仲良くしているわけじゃ、ないんだよう」


 相手の声は聞こえない。

 そっと近づいた。裕香以外の人の気配、そのものが無い。


「ねえ、おこったの? チズさん、おこったの?」


 うぇぇぇんと泣き始めた。一目で常軌を逸しているのは分かった。

 そういえば、様子がおかしかった。

 清一は思い出す。

 ぼんやりしていたり、独り言を呟いたり、そういえば、隣の部屋のドアノブを回していたと、高之に聞かされたことがあった。


『あの人、やばいんじゃないの? 精神病院連れて行けば?』


 そう息子に言われたが、金がかかる。


「ヤバいな」 


 清一は思った。

 1度団地で騒ぎを起こしているのだ。似たような事をまた起こされたら、今までの努力が水の泡になる。

 妻が精神病だなんて噂が広まれば、今後の評判や仕事に影響が出る。


「ちずさんちずさあん」


 裕香は泣きじゃくっていた。どうしてえ、キライにならないでよおと暗い空間に訴える狂女に、清一は苛立った。


 ――殺そうか。


 天啓だった。

 いつかは成功に返り咲く自分の姿が見えていた。

 だが清一にとって裕香はすでに、何も生みださず、何も出来ない、金を食い荒らすだけの寄生虫だった。


 また以前と同じように、この寄生虫に金を浪費されると分かっているのなら、このまま生かしておく理由がはない。

 ここは5階だ。

 人が転落して間違いなく死ぬ高さは、5階からだと聞いたことがある。


 身を乗り出して、何らかのはずみで落下したとすれば。

 ベランダに身を乗り出す裕香の背後に立つ。裕香のふくらはぎを見た。

 この腰を抱えて、ベランダの手すり外側に一気に押し上げれば、落下する。


「ちずさあああん……」


 清一は、わずかに腰を落とした。裕香は『チズ』を呼び出すことに一杯で、清一の帰宅どころか、存在すら気が付いていない。

 裕香の腰へ手を伸ばす。


 ――見知らぬ女が、裕香の横にうずくまっている。


 驚愕で声が枯れた。

 清一は目を剥いて、いるはずのない女を凝視した。


「チズさん、ねえ、でてきてよおお……」 


 女は立ち上がった。

 黒と白の組合せの服。

 泣いている裕香の背中に、おぶさるように貼りつく。

 裕香は女に気が付いていない。清一は女と裕香を見つめた。


 女が消えた。


 すすり泣きながら、ちず、という名を呼ぶ裕香を残して、清一はベランダから部屋へ逃げ込んだ。

 背中には氷の針が無数に刺さり、心臓はガンガンと鳴り響く。

 どうやら、思った以上に酔っているらしかった。


              ※


 栗本七恵は、清一が持ち出した自治会予算を投資に回す案に、あっさりと頷いた。


「良いんじゃないでしょうか。だって、私的な流用じゃあないでしょう」


 予算全額は無理でも、300万くらいならとの事だった。

 以前は年に数回開催されていた自治会のバス旅行や遠足が、参加者の高齢化や夫婦共働きでイベントそのものが減少し、予算が余っているらしい。


「他の自治体の話ですが、予算を資産運用して利益を活動費にあてるところもあるそうですから、おかしな話でもありません。それに、副会長の宇野さんお勧めする投資だというなら、間違いはないでしょうしね」


 七恵の信頼に、清一は胸が熱くなった。


「絶対に間違いありません。栗本さんもご存じの通り、元本と利回り20%は飛翔会でも保証されています。この分配金で、役員の皆さんの苦労に報いるだけの報酬が入るんです」


 年間で数千円だった役員報酬が、数万円になるのだ。

 臨時で開催された役員会で、清一は一二人の役員たちの前で熱弁をふるった。


「単純な方法とは思いますが、人のやる気を刺激するのは報酬です。この団地を守る意欲を出すためにも、役員の人手を確保するためにも、この予算を利用しない手はない。皆の自治会費を運用し、その利益を団地のために使う事を、私は提案したいと思います」


 自分たちの報酬に関わる話に、役員たちの熱気と好奇心が渦巻いている。


「元本保証。利回り20%はお約束できます。いや、運用によって利益はそれ以上かもしれない。私が保証する、間違いのない投資です。いかがでしょうか皆さん!」


 拍手が鳴り響く。

 決まりだ、清一は久代と笑顔で頷き合う。

 その拍手を2人の女の声が払いのけた。


「反対」

「再考を願います」


 集会所の拍手が萎んだ。

 興奮に水をかけた相手へ久代が怒鳴った。


「何ですか、何が反対なんだ。雪村さん、あんたがたバカか?」

「まあ、怒らないで下さい。久代さん。もしかしたら私の説明不足かもしれません。もっとちゃんと説明したらお2人にも分かって頂けると……」


「説明? たわごとでしょうが」

 雪村の若い妻……鈴音の鋭い侮蔑は、流石に清一の気に触れた。


「その言い方は失礼だ。ちゃんと私の話を聞いてください」


 雪村淑子が言った。


「そもそも、投資するお金は団地の皆から集めたお金でしょう。お金を運用することの意味を、貴方たちはちゃんと理解しているの?」


 「団地の金だからどうだ? 銀行や保険会社だって、預金者や客から集めた金を融資や何だかで運用しているんだろうが! 北園和団地の自治会規約にだって禁じられていないし、同じように予算を投資で運用している他の自治会だってある」


 怒鳴る久代に、鈴音が顔半分を片手で覆う。


「違うのよ、つまりさあ……」

「つまり、なんだ?」


 久代が怒鳴った。


「あんたがたは、役員の苦労に報いたいとか思わんのか? 役員の待遇を良くすることが、自治会役員の意欲や人手につながると、何故分からん!」

「いや、だから……」


「第一あんた、その口の利き方は何だ! まずその無礼な物言いを改めてから、ワシに意見してもらおうか!」

「久代会長」


 淑子が静かに割って入った。


「私たち2人は、自治会費を投資信託で運用することに反対します」

「従えませんか? でも多数決で決まりますよ」

「多数決で決める前に、宇野さん。あなた、キンショウホウって知ってる?」


 鈴音が放り投げた言葉を、清一は捕えかねた。


「キンショーホー?」

「金融商品販売法。投資家保護のために、国が定めた法律だけどやっぱり知らないか……でなきゃ金融商品に『絶対に儲かる』なんて禁句を使わないよね」


 鈴音が天を仰ぐ。

 知るはずないでしょと、淑子が鈴音の肩を叩いた。


「まず、単純に基準価格が下がった場合は、幾らを目安に損切りするんです?」 

「え?」

「投資に失敗した場合は、誰が責任取るんです?」


 清一は説明した。


「失敗はあり得ません。何故なら、飛翔会の会員限定のファンドは、世間では知られていない情報や画期的な金融理論を元にして構成された特別な金融商品です。これは会員として選ばれた人たちしか購入出来ない、つまり通常でもまず『あり得ない』特別なファンドなんです」


「宇野さんの仰る通り、失敗はあり得ない投資ファンドだとしても、もしもの事を考えるのが投資の基本です。運用の責任者や、リスク管理に資産運用の方針はどう決めるんです。それも考えもせず出資だなんて、お金を運用するという意味をお分かりなんですか?」


 淑子の粘りはしつこかった。

 普段は物静かで、温厚な人物と思われている彼女らしくもない、強情な抵抗だった。 広川景子たち、清一の取り巻きが淑子へ怒りに満ちた黄色い声を上げる。


「宇野副会長が信じられないんですか? 役員になって短いですけれど、その間にどれだけ宇野さんが団地に貢献されたか、雪村さんだってお分かりでしょう?」

「そうですよ、団地や地域のために骨折りして下さった副会長が、間違いないと言われているんです。それを疑うおつもり?」


「あのね」

 口を開いた鈴音の言葉を、田宮貞世が叩落とした。


「私は、ファンドの分配金のおかげで医療費が賄えました。他の方々もそうです。この投資信託で損した人はいないんです。雪村さんはそんな事知らないでしょ。団地の今後を考えられないの?」

「団地の事考えてる考えないの話じゃないのよ! 問題は……」


 怒鳴ろうとした鈴音を、久代が切り落とした。


「団地の事を考えられないなら出て行け!」


 ――集会は圧勝で終わった。

 清一は、久代に深い感謝の念を送った。

 久代の一声は2人に、無責任な役員のレッテルを貼った。これで完全に雪村淑子と鈴音の立場が沈没した。


「全く、何を考えているのかしら」

 「役員のくせにねえ」


 聞えよがしの陰口を叩かれている2人だが、鈴音にはフォローを入れようかと清一は考える。その時だった。


「宇野さん」


 清一は振り返った。


「少し、お時間頂ける? お話があるの」


 鈴音だ。親指が集会所の裏手、物置の方向を示す。

 赤い顔でこちらにやってくる久代を、宇野は制した。


「もちろんですとも」


 険しい顔の美女へ、清一は笑顔で応じた。


 集会所の物置は2つある。

 一つは管理会社が清掃や敷地の樹木の手入れに使う、掃除用具や鍬や鋤など置いているプレハブ小屋で、もう一つは老朽化して取り壊し予定の小屋だった。

 その建物の横で、清一は鈴音と相対した。


 雪村鈴音は怒っている。これはチャンスだった。

 皆の前でプライドを傷つけられ、清一に怒りを向けている今が狙い目だ。心理学的に興奮時は恋に陥りやすいと言われるが、怒りも興奮の一種だ。

 事実、清一は何度か店のクレーマー女性客を落としている。


 神妙に誠実に、しかしいくら相手に要求されても、譲れない一線と信念を持った男として対応する。これが相手の怒りを好感に裏返すのだ。

 彼女はきっと、さっきの議題の事で怒りをぶちまける。

 しかし、ここで自分が彼女に訴える内容は、団地への愛情だ。


 団地では同じ新参者同士だと立場を強調し、彼女へ親近感を持ちかけて徐々に接近する。

 このような気の強いタイプは、久代のように抑え込むのではなく、あくまで紳士的に、しかし力強く……


「今朝、わくわくファイナンスの社員だって名乗る2人組の男に、出勤を邪魔されてね」

「え?」


 予測しない切り出しだった。


「いきなり道端で通せんぼされて、こう馴れ馴れしく肩に手を回されて、年食ったヤンキーみたいな男に『ちょいと宇野の奥さん、旦那さんにお金貸したもんですけど、返済のご予定を御尋ねに参上しましたー』と顔を近づけられてさ」


 清一は絶句した。

 金は振り込んでいたはずだという思いと、予想外の危険が飛び出した驚愕、それを他人に知られた羞恥と不安。


「全くね、とんだ災難でしたよ。間違われた鈴音さんもですが、鈴音さんに投げられた貸金業者さんもね」


 暗がりの向こうで声がした。


「肩に回された手を取って、もう1人の仲間へ向けて背負い投げですよ。地面に重なったお2人を介抱したせいで、私が会社に遅刻しました」


 暗がりから出て来たのは、淑子だった。


「貴方がどこからお金を借りようと、何にお金を使おうと勝手ですけどね。私が一番許せないのは、プラダのスニーカーを買う父親が、息子の高之君の靴や修学旅行に無関心だという事です」

「……あの」


 誤解しないで下さい、とにかく言い繕おうとした時には、すでに2人は清一から背中を向けて歩き去っていた。

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