第11話 転がす愚者、転がる愚者たち

 宇野家の元に警察が訪れたのは、裕香は菓子パンと牛乳で昼食を済ませ、ぼんやりとテレビのワイドショーを見ていた時だった。


「お忙しいところ、誠に申し訳ありませんが……宇野さんの奥様ですか?」


 警察の身分証明書を見せられも、裕香はすぐに高之の顔が浮かんだが、警察の用事は違っていた。


「この団地にお住いの、白石さんという男性をご存じでしょうか?」


 一度だけこの家に来たことがある、偉そうで不快な老人を思いだしながら「はい」とだけ言った。


「夫の知り合いです」

「旦那さんは?」

「市役所へ……用事があって」

「そうですか……ところで、奥さん」


 刑事が話してくれたのは、白石の死と、その死体に施されていた悪質な悪戯だった。


「白石さんは散歩中に発作に襲われ、畑の中に倒れ込んで亡くなったようです。もしその場に犯人が居合わせていた場合、彼の救護を怠り、見殺しにしたとして『保護責任者遺棄罪』場合によっては殺人罪が適用される可能性もあります」


「まあ、こわいわ」


「倒れていた白石さんのすぐそばに、若い女性が立っていたという証言がありまして、私どもはその手掛かりを探しに団地を歩いております。もしも何かお気づきのことがあれば、お話を伺いたいのですが……いかがでしょうか」


「その日は家にずっといたけど……分からないです」

「そうですか。お時間取らせて申し訳ありません」


 刑事2人はそろって会釈した。

 そして、1人が携帯を取り出して画像を出した。


「それからすみません、これは事件とはあまり関係ないのですが」


 画像には、カメラ目線の茶トラの子猫が映っている。


「飼い主に、お心当たりはありませんか?」


 裕香の網膜には、恐怖と驚愕で捻じ曲がった白石の顔が焼き付いているが、実感は伴わない、強烈な夢のようだった。

 悲鳴を上げて命乞いをする老人を、シャベルで殺そうとする自分を横で見ていた。


 殺したものの、醜い死骸が目障りなので、土をかけて隠そうと思ったけれど、道具が重くて手の平が痛くなり、途中で疲れて中断したことも。

 警察が来たことで、あれは現実だったのだと解ったが、いまはそれよりチズの事が頭を占めている。


 ……白石を殺してから、チズが現れない。

 隣の部屋のドアは閉まっていた。いつも優しく裕香を迎え入れてくれたあの空間が、今は冷たく閉じられている。


「チズさん、どうしたの?」


 ドアを叩き、裕香は懇願した。


「ねえ、どうしたの? 開けてくれないの?」


 まさか、チズに嫌われたのかと裕香は震えた。

 チズを怒らせた原因を探したが、思い当たる節も無い。

 それが更なる混乱と困惑を生んだ。外に出られなくなった。


 敵と悪意に囲まれても、何とか我慢できたのはチズという支えがあってこそだったのに。


「おい、仕事はどうした」


 苛立たし気な清一に、裕香は言い訳した。


「警察が来て……疑われているのよ、私……外に出るのが怖い」


 清一は舌打ちした。


「ほんっとに役に立たない女だな、お前」

「……」

「手足のついた産業廃棄物だよ。酸素の無駄だ」


 清一の顔から、昔の優しかった恋人の面影を何とか見出そうとしても、見つかるのは失意と落胆だけだった。

 家にいるのも長くは続かず、裕香は清一にパートに追い立てられた。


 団地の主婦たちに出くわした。

 素知らぬ顔で通り過ぎようとしたが、声をかけられた。


「副会長の奥さんじゃない。もう元気になったの?」

「え」


「大変だったわね。白石さんの事で警察にあれこれ聞かれて、ショックで体調崩されたんでしょ? いい加減な証言を警察にするなんて、子供でも許せないって、副会長も随分怒っていたらしいわね」


「……そう、ですか」


 副会長? 清一が? 

 いきなり舞台に立たされた役者のように、裕香は突っ立った。


「だからって、事件の噂をするなとか、そんな張り紙出されても、ねえ……」


「久代さんて、そういう強引なところあるじゃないの。久代さんの奥さんも、何も言わない大人しい人だしさ。でもこれからは、宇野さんが片腕でしょ。上手くコントロールしてくれるかもよ」


「そうねえ、そういえば、久代さんと宇野さんが、自治会以外のところで一緒にお仕事することになったって、奥さん、本当?」

「え? あ、はい」


 仕事? 久代? あの時、白石と一緒にいた老人。 

 分からないまま、余計な事を言ってはならないと、裕香は曖昧に返事した。

 居心地の悪さに加えて、仕事に遅れてしまう。

 裕香はその場を離れようとした、その時だった。


「お早うございます」


 裕香のバッグを持っていた、あの若い女だった。

 女の登場に、その場の空気が一気に変わった。

 団地にそぐわない華やかさに、目を見張った主婦が揶揄を含む口で聞いた。


「雪村さんとこのお嫁さんじゃないの。朝から派手ねえ、パーティでも行くの?」


 女の服が裕香にはすぐに分かった。

 ディオールだ。

 黒いジャケットとスカートだというのに、カッティングとシルエットで華やかさを出す特徴的なデザインだった。


 そして足元の繊細な黒のハイヒールは、マロノ・ブラニク。

 失った豊かさが目の前にあった。

 燃え上がる嫉妬で女を睨みつけたが、相手は平気な顔だった。


「パーティどころか、どっちかというと戦争ですよ」


 女がからからと笑った。

 戦争? 主婦たちが怪訝そうな顔になる。


「今日は会議があるんです。上司と先輩を相手取って、担当する融資案件を通せるか通せないかの仁義なき戦いですよ。これ、戦闘服」

「あ、ああそう……大変ね」


「頑張って行ってきまーす」


 ラベンダー色のバッグを振りながら女が去っていく。

 そのバッグが更に裕香を深くえぐった。

 清一に二度も売られたあのバッグと色違いのものだった。

 あの女は二つも持っていた。 だから裕香に一つ譲れたのだ。 


 あれは施しだったのだと、裕香は震えた。

 そして、その施しですら横取りされたわが身に、そして清一に怒りを感じる。

 元々、自分はあの女と同じ場所にいた。

 ハイブランドの服を着こなし、持っている靴もバッグも高級ブランドだった。


 それなのに今の自分は、団地の主婦と混じり、生活の沼に浸かり、時給いくらのパートで働いている。

 くやしい、くやしい、にくい、にくい。

 怨嗟と嫉妬、自虐の炎で身を焦がしても、心はボロボロに消し炭になるだけだった。


 だが、清一はあの女が気になっているらしい。


「僕は、あの若奥さん、イイ女と思うんですけどねえ」


 ある日の晩だった。家にやって来た久代とビールを飲みながら、清一は笑った。


「初めて見た時、こんな団地に……イヤ失礼、近所に美人がいるとはと思いました」

「そう思うなら口説いてみなさいよ、アンタ。あの女、今は旦那が単身赴任で空き家だよ。あんた男っぷり良いから、落とせるんじゃないの」


 久代にビールの酌をしている間も、品の無い笑いが裕香の神経に障る。

 目の前から消えて欲しいが、清一にとってこの男が「金づる」だと言い含められ、機嫌を取れと命じられていた。


 ――いいか、どんな面白くないことがあっても、顔には出すな。笑顔で従順に振舞え。それだけでアイツはご満悦キープだ。

 ――あの久代は、金を持っている。


「人妻を口説けなんて、久代さんは本当に世間的な価値観に縛られない方ですね」

「分かったか。ワシの思考は柔軟だ」


「ええ、以前は頭が固いなどと、失礼なことを申し上げました。許して下さい」

「分かれば良いんだよ。ところでセミナーが来月あるって? ワシは参加出来るのか?」


「もちろんですよ、久代さんには参加資格どころか、ご招待したいくらいです」


 これで久代は「選ばれた者しか参加できないセミナー」に20万の受講料を払い、そのマージンが清一にはいる。

 一度、相手を否定し、そして時期を計らい持ち上げる。

 自分を否定した相手から再評価された優越感から心を許すようになる。


 人をコントロールする初歩的な技だ。それに久代はかかっている。


「矢島さんが、久代さんも我々の事業に参加してもらおうかと言っています」

「ほお、えらく急な話だね」


「はい、エグゼクティブの方からも、久代さんのセミナーに対する姿勢や持つお考えの噂を聞いて、是非と推す声が出てきているそうです」


 久代が大笑いした。


「いやもう、何だよ、最初にワシを頭が固くて時代遅れの老人だとか言っておいて、手の平返しか」

「勘弁して下さい。私もその事で、散々矢島さんに怒られたんですよ。『何で久代さんみたいな素晴らしい紳士に対して、無礼な事を言ったんだ』だって」


「まあ良いや、反省しているなら勘弁してやるよ」


 久代の手がまるで蛇のように腰に回ったが、それでも裕香は微笑みを固定する。


「投資に参加されるとしたら、最初は百五十万円からスタートになりますが、いかがですか?」

「年回り20%だったな」


「はい、これも分配金という形で月々の配当が入ります。20%はあくまで最低の見積もりです。40%もあり得ます」

「わしはもっと資金を出せるけどな」


「すいません、今回は150万が限度額です」

「何でだ? 金を出してやるんだぞ」


 悔しそうな久代に、清一は申し訳なさそうに説明した。


「すいません、この出資は枠がもう一杯で、久代さんが最後なんです……すぐに次のファンドの募集がありまして、こちらは久代さんへ、特別の参加枠をご用意していますからご勘弁ください。大丈夫、こっちの利回りも30%は固いです。それから、セミナー参加料と出資金合わせて合計170万円は、3日以内の送金をお願いします」


 枠なんかそもそもない。 しかしこうやって飢餓感と欲を煽れば、相手は次の出資話に大金を投げ出してくる。

 久代の出資金の一部は、清一の手に渡るのだ。


「宇野さん、あんたもしかして、白石にもこの話を持ちかけていたのか?」

「いえ、残念ですが……」


 清一は頭を振った。


「……まあ、選考基準が色々あって」

「そうか、白石さんも、色々残念だったな」


 流石に久代がしんみりといった。


「その分、ワシが白石の分まで儲けてやるわ」


 今から30年以上前、定期預金の年利息は6%も普通だった。

 だが現在、銀行預金につく利息は普通預金で0.001%。

 定期預金で0.002%の超低金利時代だと言われている。


 結婚前、ランチ仲間が『銀行に預けたって利子はつかない。下手をしたらATMのカード手数料で残高がマイナスになる』『これからの貯蓄は預金ではなく、運用の時代だ』と言っていたことを裕香は思い出す。


 実際に仲間は株や信託などに手を出して、勤務中であっても始終株式チャートをにらんでいた。『上がった』『下がった』と一喜一憂し、必死な形相を見た裕香は、彼女に淡い憐みを感じたものだった。


 投資信託は、投資家を募って資金を集め、その集めた資金を、ファンドマネージャーというプロの運用に任せるものだという。

 プロは、債券や株式といったもので資金を運用し、儲かったらその成果を配当として投資家たちに分配する。


 そういった仕組みだというが、年利回り20%とか30%など、現実的にあり得る数字なのかどうか、裕香にはまず信じられない。


「ファンドにも色々ある。運用する先は国内だけじゃない。外国の商品に投資することだってあるんだ」


 清一に、お前は世間知らずのバカだからと言われたが、どうしてもぬぐい切れない違和感が残っている。


「とにかく、金を集める事が大事なんだよ」


 その資金源として、手始めに目をつけられたのが久代と白石だった。

「時代遅れの頭の固い老人」とバカにして、傷つけた久代を次に誤解だったと言って持ち上げる。

 この清一の作戦によって、久代の自我は大逆転を見せた。


「時代遅れではない、いつの世でも守るべき信念を持つ誇り高き男」として自我が肥大化し、自分への評価を素直に訂正した清一に「男気がある」と褒め称え、清一の勧める天馬のセミナーや教材にのめり込んだ。


 その後、久代は教材によって、成功のマインドと意識改革を果たし、選ばれた人間しか入会できない投資家集団のメンバーになったと、得意の絶頂にいる。 

 組織図でいえば、久代は清一の下に就いた。

 久代が投資した金の一部は、マージンとして清一の懐に入る。


「あの久代を、どうしてこんな回りくどい方法を使って入会させたか、分かるか?」


 清一は、上機嫌で裕香に聞かせた。


「あの男はな、猜疑心が強くて他人を下に見ている。それを利用して、一番効果的な方法で懐に取り入ってやったんだ。そしてあの男、きっと得意になって『飛翔会』のことを宣伝してくれる。あの疑い深い男が飛翔会に入ったのだと分かれば、団地の奴らはこぞって信用して、俺に入会を頼んでくるだろう。俺の懐には金がまた入る」


 清一の読みは当たった。


 一度猜疑心を溶いた久代は、無警戒そのままだった。

 清一の勧めるファンドを『アンタを信用して買うんだ』というセリフの元にどんどん購入する。

 清一としては、形だけでも内容の説明をしようとするが、久代はそれを『良いから』と遮ってしまう。


 信用するという言葉の元で、自分の懐の大きさを誇示しているつもりらしかった。

 しかも、格好の宣伝役だった。

 ファンド投資後、数日もしない内に分配金として3万円が振り込まれたと、得意になって触れ回った。


 それまでに久代は飛翔会の入会金と教材費、セミナー代だけで100万円を出しており、ファンドの出資金は300万円を超えている。

 裕香は、外に出ると何度も人に呼び止められた。


「ねえ、お宅のご主人が運用しているファンドだけど、配当が桁違いにすごいって本当?」

「私には、良く分らなくて……利殖とか、そういうのは主人に任せてあるので」


 昔に買い、もう着古したブランド物のブラウスとスカート姿で裕香は口ごもる。

 もう、清一は団地では話題の中心的人物だった。

 清一の妻とはいえ、大人しく若い裕香では話にならないと知るや、相手は清一に話を聞きに行く。


 宇野家は、来客が増えた。

 清一と日頃接点のある、自治会の役員が多かった。


「お前、今日はパートを休め。客が来るんだ」


 そう言って、清一は裕香を客のもてなしに使った。

 白石や久代の時と同じように、寿司などを取ってもてなし、羽振りの良さを見せつけて客に『飛翔会』の話をする。

 客が清一に群がるその様子は、まるで餌に集まる池の鯉だった。


『飛翔会』に自分以外の住民が、続々と入会していると知った久代が、清一に文句をつけて来た事があった。


「あんた、飛翔会は選ばれた人間しか入れないとか言っておったね。選考基準が厳しいとか言っていたが、1号棟の小園さんまで入会したって、それはナンだ、ウソだったのか?」


 それは小園が自分より格下だと言わんばかりだったが、清一はこう言った。


「飛翔会の中でも、グループの格付けがあるんですよ」

「格付け?」


「そう、下のグループなら選考基準はやや緩い。小園さんからどうしても入会したいと頼まれたので、仕方なしに会の下層グループに入って頂きました。もちろん、扱いは久代さんのような上位グループの方と同じにとはいきませんよ。ご紹介できるファンドの種類や、当然配当金にも差が出てきますけどね」

「……」


「彼には黙っておいて下さい。入会の喜びに水を刺すようなものですから」


 当然だが、入会した住民たちは例にもれず、自分は他とは特別扱いだと思い込まされ、同じように口止めされている。

 毎日のように、団地の住人が宇野家にやって来た。

 機嫌よく清一は客を出迎え、裕香にパートを休ませて傍に置き、接待にこき使った。


「人を取り込むには、好感度が第一条件だ。それには夫婦円満を見せつけた方が良いんだ」


 押し寄せる客の前で、おしどり夫婦を演じさせられて裕香は疲弊した。

 チズに会いたい。

 ある日、清一が飛翔会の本部へ出頭すると出かけた。

 高之も学校でいない、その隙を見計らい、502号室のドアを叩いた。


「ねえ、チズさん。どうして開けてくれないの?」


 留守のはずがない。だってチズはいつもここにいた。ドアを開けると乾いた優しい匂いがあふれ出すのに、今日も硬く閉まっている。

 まさか、ここから出て行ったのかと裕香は怯え、そして打ち消した。

 チズはずっとここにいると言ってくれた、約束してくれたじゃないか。


 チズが、自分との約束を破るはずがない。

 その時、裕香は恐ろしいことに思い当たる。

 まさか、チズとの約束を破ったのは自分の方ではないか。

 チズは住民を嫌っていた。自治会役員に対しては、憎悪していた。


 それなのに、毎日のように宇野家は、住民が、しかも自治会役員がやってくる。

 そんな奴らを清一の手伝いとはいえ、相手をしている自分にチズは呆れ果てたのではないだろうか。もしかして、裏切り者だと嫌われてしまったのか。


「そんな、違うよ、チズさん」


 開けて、開けてチズさん。

 家から閉め出された子供のように、裕香は泣きそうになった。

 チャイムを押したが、ボタンは硬くて沈まない。


「あら、何やっているの?」


 体に電気が走った。

 後ろに立っていたのは、香水の匂いを漂わせる太った中年女だった。

 確か広川という、この号棟の2階の住人だった。


「ここはずっと空き室よ」


 広川は口紅の濃い唇を曲げて、薄気味悪そうな顔になった。


「何? まさか誰かいるの?」

「い、いえ」

「ふーん、まあ良いわ。ご主人は?」

「ちょっと、出かけています」


 広川は、明らかな落胆の顔を作った。


「あ、そ。じゃあまた来るわ。彼、何時にお戻り?」

「多分、夕方頃と思います。あの、もしもお急ぎの用なら携帯にかけるか、要件をメールして欲しいって主人が言っています」


「携帯越しじゃなくて、顔を見て要件を話したかったの。飛翔会に入会するって言ったら、彼は喜んでくれるかしらって思ってね」

「……」


「じゃ、いいわ。またね」


 生臭い空気を残し、階段を降りていく広川を見送りながら、裕香は久代の言葉を思い出す。


 ――アンタのダンナ、男っぷりが良いからねえ。この団地の奥さん方から大人気だよ。アンタはここの団地の婆さん連中と比べりゃ若いけど、まあ気を付けなきゃな。


 ああ、そういう事かと裕香は得心がいった。

『飛翔会』の話を聞きに、あんな風に「ご主人と直に話をしたい」とやってくる主婦は、広川以外にも数名いた。


 皆、裕香より年上の生活感が溢れる女ばかりだったが、それでも『ご主人』この言葉を口にしながら、声や目にねっとりと甘いものが絡みついている。

 かといって、清一が主婦の誰かと浮気無いだろうと裕香は思う。


 清一の女好きは知っている。自分も元は浮気相手だった。

 そして裕香との結婚後も、数人の女の影はあった。その場限りの女なら、もっと多かったに違いない。


 そんな清一に女遊びは止めようがないと、裕香は黙認している。それに清一には、女に対する誠実さは無い。

 女を美醜と利用価値で振り分けている冷酷さがある。

 主婦たちに対しても、好意や親近感ではなく、出資見込みの相手として、家庭の家計を握っている役割だから、笑顔を振りまいているだけだ。


 清一は最近、飛翔会に入会した団地住民向けに、カラオケ大会だのボーリング大会だとイベントを企画して、自治会以外でも出歩くことが多くなった。

 その采配は、飲食店経営者時代をほうふつとさせる姿だったが、イベントにかかる費用を誰が払っているのかと思うと、裕香にとって頭痛ではなく、頭が割れそうだった。


 そして『整った身なりこそが最大のアピール』だと、高級な服や靴を自分に揃えているが、裕香には何も買ってくれない。それどころか、生活費もくれない。

 ある日、団地の主婦に服装を笑われたことを、裕香は訴えた。


「毎日、似たような服だって言われたわ」

「お前には、散々使い込まれたからな。もう甘い顔を見せるのはやめだ」


 新しい時計を箱から取り出し、眺めながら清一は言った。


「お前に今まで使った金は、正に死に金だったよ。あれで俺は学んだんだ、もう今後は自分のために使うってな」

「せめて、生活費くらいは頂戴よ。体裁は悪くないの?」


 答えは、平手打ちだった。


「何が体裁だ、この寄生虫女!」

「……」


 しびれる頬を押さえた。頭上に暴言が降り注いだ。


「虫が喋るな! 今までのことを思えば、叩き潰されないだけお慈悲と思え! お前をつけ上がらせて金を散々食われたことを、忘れられるかよ!」


 にらまれた目には、本当の憎しみがあった。


「そうだな、俺が金を使うとしたら、あの若奥さんかな」


 好色な笑いを一瞬浮かべたが、すぐ侮蔑に戻る。


「良いか、体裁がどうとか言うなら、近所に余計な事はしゃべり回るなよ。俺の邪魔をしてみろ、ぶっ殺すぞ」

「……」


「ま、人に喋るにしても、お前の相手をしてくれるような人間は、どこにもいないだろうけどな」 


 その通りだった。もうチズはもういないのだ。

 もう、どこにも味方はいない。

 心の拠りどころを失った辛さに、涙があふれ出た。

 それは以前のような女の武器ではなく、惨めさを助長するものでしかなかった。


             ※


 清一は、元々は腕の良い経営者だ。特に人の心を掴むのが上手かった。

 北園和団地の空気が、清一を中心にして変化を始めた。

 住民たちが浮足立っている。清一と住民の輪の外にいる分、裕香にはそれが肌で分かった。


 明らかに変化しているのは、団地の主婦が持ち始めたバッグやアクセサリーと、井戸端会議の話題だ。

 以前なら、芸能人や近所の噂話がほとんどだったが、今ではブランド品やランチの話題だった。


 しかも、わざわざ電車に乗って食べに行っているようだ。

 どこかの高級懐石や、店名らしい横文字、パスタが美味しいとかケーキがなど、まるで余裕のあるOLがロッカー室や給湯室で交わすような話をしている。


 ある朝、パートへ行く途中だった。団地の中で井戸端会議をしている主婦たちの脇を通ると、お喋りが裕香の耳に入ってきた。


「あのフレンチ、ランチだけじゃなくて夜にも行きたいねえ」

「ダメよ、亭主が勘ぐるもん。だから見てよこれ、主人に内緒で買っちゃった」


 初老の女が、仲間たち相手に右手の甲を見せている。

 主婦たちの服装は共通している。

 大抵は地元の商店街の店で買ったようなデザインだ。

 その主婦も例外ではなかったが、その指に巻きつく金環のデザインに、裕香は目を疑った。


「えっと、ブルガリって言うの? 私ほら、蛇年だから干支のモノを身につけたら、縁起がいいって聞いて」

「へえ、なんか洒落ているねえ」

「私はね、こないだ初めて芝翫香に入っちゃった」


 バッグも指輪も、どうせ亭主には分かんないしねと、笑い声が響く。

 男たちも、よく似た会話を交わしていた。


「ワシ、こないだ妻に隠れてさ……」

「あんたもか。よくやるわ」

「婆さんのしわくちゃな乳で、人生終わるのもな」


 団地の駐車場に、新車が増え始めた。今まで国産のファミリーカーが、裕香でも知っている高級車になっている。

 久代は、真っ赤なスポーツカーを買った。

 団地の駐車場に停めてある流線型の赤い車は、風景に馴染まず滑稽だったが、本人は周囲に自慢している。


「あんな車、派手でばあさんがみっともないから止めてとかいうから、張り倒してやったわ」


 皆、飛翔会の名称を口にはしないが、漂う共犯意識と連帯感、そして互いを探りながら、景気の良い会話を交わしていた。

 利回りが桁違いの金融商品がもたらす分配金は、団地を明るく染め上げた。


 笑いと自慢話、それに加えて、誰がいくら投資したらしいとか、どれだけ配当金があったかなど、憶測や噂が路上を飛び交っている。

 清一が団地に振りまいた金粉を見つめながら、裕香は周囲からはじかれた気もするが、同時に根拠のない不安がある。


 透明な崖道を歩いているような、そんな気がした。


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