第10話 恵が見た女


 一学期の期末試験前。

 学校はテスト準備期間に入った。

 この期間は職員室のテスト問題作成の作業もあって、授業は午前で終わる。


 恵は、空を見上げた。

 登校する時は暑いくらいの日差しだったのに、駅に着いた頃、今の空は厚い灰色で重い湿度だった。傘は持っていない。

 朝の天気予報では、降水確率は40パーセントだったので油断していた。


「お父さん、傘は持っているかな」


 父の心配をしつつ、駅前のコンビニを見た。

 透明なビニール傘を売っているが、可愛くない傘を買ってお小遣いを減らしたくない。


「家までもつかな」


 駅から北園和団地まで距離は約1キロ弱、歩いて10分。

 ウール素材の制服に、革製の鞄を雨で濡らしたくはない。教科書やノートに雨水が染みたらイヤだ。

 それでも、天気はもつだろうと恵は希望的観測にすがった。


 だが、天は恵の希望的観測を裏切った。


「さいあく!」


 鞄を頭に乗せて、恵は土砂降りの中を走った。

 靴にはすでに水が溜まって、走るたびに気持ち悪いほどだ。

 団地の敷地に入ったその時、甲高い鳴き声がした。

 土砂降りの中に、茶色の子猫がいる。


「あらま」


 雨の中、道の中央で恵と子猫はしばらく向き合っていた。

 子猫は突然方向を変え、敷地の端の方へと走りだす。

 周辺に、母猫らしい影は無い。

 恵は子猫の後を追った。


 この大雨の中で、保護者のいない子猫を放って家に帰る気にはなれない。


「ねこちゃーん」


 大粒の雨に叩きつけられる顔を、恵はぬぐった。

 濡れた制服が肌にべっとりと張りついて気持ちが悪い。

 服を着たまま激しいシャワーを浴びている状態だった

 灰色の視界の隅に、茶色の毛が見えた。


「コワくない、こわくないからね」


 怯えているのか、びしょ濡れで固まっている子猫へ向かって恵はそっと足を運ぶ。


「おいで、怖くないから」


 団地は犬猫の飼育は禁止だ。だけど放っておけない。

 連れて帰るとしても、お父さんになんて言い訳しよう。

 家にネコが食べられそうなものはあったかどうかと思いながら、恵は地面に鞄を置いてそっと両手を伸ばした。


 震えている子猫を、そっと抱き上げた。

 小さい。大人しいというより、元気がない。

 立ち上がった時、ぐにゃりとしたものを踏んだ。


「しまった」


 視界が悪く、子猫に夢中だったせいで、誰かの畑に入っていたのに気が付いていなかった。

 畑の真ん中にいた。農作物か花を踏んだらしい。

 しまったと焦り、恵は子猫を抱いたままで足元を見た。


 踏んでいるのは、奇妙な色と形の植物だった。


「……」


 恵は、土から見え隠れするものを、ただ見つめた。

 目の前を理性が否定した。

 地面から、男の顔が浮かんでいた。

 中途半端な埋め方で、大雨で土が削れたせいだ。手足が土中から突き出している。


 眼は豪雨の中でも開きっぱなしだった。

 ゴムのように伸びた蒼い顔は、悪趣味なほど引き歪んでいる。

 大きく開かれた口には土が詰められ、苗が植えられていた。


「……あ」


 恵は喘いだ。凄まじい形相に見覚えがあった。

 周囲を見回した。誰か出てきて欲しい。

 瞬き一つの間に、女が目の前にいた。

 たすけてという言葉が抜け落ちる。恵は女を見た。


 雨の中で、女は死体が埋まった地面を見ている。

 雨の中で瞬きをした。女が消えている。

 恵は、地面を見た。

 男は消えずに埋まっていた。


 その後の恵の記憶は、断片的なフィルムのように回っている。

 携帯で父の番号にかけた。

 お母さんお母さんと母を求めて助けを呼んだ。

 豪雨の音に混じり、パトカーのサイレンが聞こえた。


 頭を上げると団地の住民たちに遠巻きにされていて、警官に付き添われながら、悲鳴や混乱から子猫を守ろうと抱きしめた。

 錯乱して声が出せなかったが、真っ青な顔で警察署に駆け込んできた父の姿を見た瞬間、 凍りついていた恐怖が、安堵で決壊を起こした。


「怪我は? 恵、何があった? どうした、何があったんだ? 痛いところは無いか?」

「お父さん、落ち着いてください。恵さんに怪我はありません。ひとまずご安心を」


 びしょ濡れで泣きじゃくる恵に、血相を変えて動揺する父を押さえてくれたのは、若旦那のような風情の刑事だった。


「娘さんが、団地の中で死体を発見されたんですよ」

「死体? 誰の?」


「男性です。団地に住む白石さんという方だと、複数の方々から証言が取れました」


 知っている名前と顔。

 自治会の会長。その生々しさに、恵は力を込めて父にしがみつく。

 会議の時に、いつも動いていたあの口に土を詰められ、苗を植えられていたおぞましさが蘇った。父の顔が強張った。


「それは……殺人事件、ですか? 恵は巻き込まれた……」

「恵ちゃん!」


 思いがけない声。

 突然現れた淑子に恵は混乱した。しかも、一緒に鈴音までが走ってくる。

 あっと気が付いた。

 パニックのさなか、携帯で父だけではなくて、淑子や鈴音にも助けを呼んでしまったのだ。


「まあまあ、こんなに濡れちゃって。そのままじゃ風邪引くじゃないの」

「お義母さん、ちょっとそこらで恵ちゃんの着替えを一式買ってきます」

「ご、ごめんなさい! おばさんや鈴音さんまで……」


 真っ赤になって謝る恵の頭に、淑子の手が乗った。


「それで良いのよ、恵ちゃん」


 ――白石の死体に、目につく外傷は無かったという。

 死体は畑まで運ばれてきた形跡もなく、土をかけられたのは死後らしい。

 司法解剖の必要もあるが、死因は恐らく心臓発作ではないかという話だった。


 通された部屋は、テレビで見ている取調室よりも応接間に近かった。

 低いテーブルを間に挟み、恵は父と並んでソファに座っている。

 目の前にいるのは若旦那風の刑事と、番頭のような中年の刑事だった。

 父と番頭風刑事が話をしていた。若旦那風は隣でパソコンを開いている。


「白石さんは、三号棟にお住いの方ですね。それが何でわざわざ畑にいたんでしょうね」

「うろ覚えですけど、白石会長はもう会社を定年退職された方でしたから、散歩でもされていたんじゃないかな。休みの日に、その姿をお見かけしたことがあります」

「ふむ」


 番頭風と若旦那風、刑事2人が顔を見合わせた。


「……信じられない」


 恵は、声をようよう押し出した。


「心臓発作で、倒れたんでしょ。人が倒れているのを見たら、救急車呼ぶとかするでしょ。それなのに、体の上に土をかけて、しかも……」


 その行為のおぞましさに、恵の毛穴がざわざわと開いた。

 土をかけて、しかし完全に埋めて隠すのではなくて、腕が完全に突き出た中途半端な埋め方だった。

 しかも、口に花の苗を植えていた。


 死体を玩具にした、悪意一色しか無い所業だった。

 もしくは、狂気。


「団地で聞き込みをしていますが、今のところ白石さんが畑で倒れた場面を、住民の誰も見てないらしいんですよ」


 番頭風刑事が嘆いた。


「殺人ではないにしても、悪質な死体損壊ですよね」

「恨みがあったとしても、目の前にいるのは仏様ですよ。普通の神経でそんな事出来ますか? まさか、犯人は団地にいるとか」


 父の言葉に、恵は寒気がした。異常者が団地に住んでいるのだ。


「シャベルは? 土をかけるのにシャベルを使うと思いますけど、見つかったんですか?」


 番頭風がため息をついた。


「7号棟の畑にあるシャベルは、以前からずっと畑に放置されていたもので、持ち主も出てこないから皆で共用していたものらしいです。しかも大雨のせいでシャベルの指紋も、地面の足跡などの痕跡も消えていましてね」


 ……女がいた。

 恵の脳裏に、女の残像がよぎった。


「……刑事さん」


 恵は頭を上げた。


「あの、わたし、おんなのひとを……」


 事情聴取を終えて部屋の外に出ると、淑子と鈴音は先に帰っていた。

 婦人警官から、着替えを預かっていると手渡された。

 鈴音が買ってきてくれたという。

 ブティックのショッパーを開けると、淡い水色のリネン生地に、紫のスミレの花模様を散らしたワンピースが入っていた。


 あの茶色の子猫は、警察署の隣にある動物病院にいるらしい。

 捜査員たちが団地の周辺で事件の聞き込みついでに飼い主を探すが、もしも飼い主がいなければ引き取りたいと、署内に候補者が出ているという。


「良かった」


 子猫はもう大丈夫だ。恵は心底ほっとした。

 だが、白石の死体は数日間にわたり恵に憑りつき、離れなかった。

 生活の所々に死体が浮かぶ。暗闇に白石が潜んでいそうで、暗がりが怖かった。

 友達がいて、気が紛れる学校には何とか登校したが、家から一歩外に出ると好奇心で一杯の団地の住民に取り囲まれた。


 恵を窓の中から見つけるや、わざわざ下に下りてくる人もいて、あの日の状況をあれこれと詮索された。

 恵は外に出るのが億劫になった。

 団地にはまだ狂った犯人がまだいるとおもうと、その気分に拍車をかける。


 白石を連想する畑にもしばらく出られず、その間の恵の畑は、淑子が見ていてくれた。

 ある日、自治会からの緊急会議招集のメールが届いた。

 役員は必ず出席して欲しいとある。


 2人の夕食の席で、父は言った。


「これからお父さんが会議に出るよ。本来なら俺が出るべきで、お前は代行だ。今は仕事を手伝ってくれる人も増えたから、時間は何とかなる」


 確かに最近、父の帰りは早い。それでも恵は頭を振った。


「お父さんが今更自治会に出ても、何も分からないでしょ。いつもみたいに私が出るよ」


 恵は言った。

 流石に、ここまでくると義務感があった。


 役員の緊急会議は、いつもと同じ夜の18時にスタートした。

 空気は重く、薄暗かった。いつも白石が座っていた席は空白のままで、皆はさりげなく目を反らしている。目元をぬぐっている女性もいた。

 淑子と鈴音も出席していた。


 あれから10日位しか経ていないのに、淑子と鈴音の姿が懐かしい。


「皆さん、まずは白石前会長のご冥福を祈りましょう」


 集まった役員たちの前で、久代が言った。


「彼は、この団地が出来た当初から住み続けて来た、最古参ともいえる住人です。そしてこの住民たちの平和を何よりも願った、善き会長でした。私と彼は、この団地によって引き会わされました。そして交流は続き……」


 白石の人柄を称え、友情を語り、突然の死を嘆く演説が延々と続いた。


「彼の志を継ぎ、私がこの団地の自治会長に就きます」


 久代は宣言した。


「副会長は、宇野さんになって頂きます」


 宇野が頭を下げた。

 久代が続ける。


「今後の自治会は、私と宇野さんが中心となって団地の平和を取り戻すことに、この身を捧げる事を宣言します! 不測の事態に見舞われた白石前会長の件によって、この団地は今までにない不安と猜疑心が漂っている。その由々しき事態を収束しなくてはならない!」


 静まる役員たちを前に、久代は大きく手を広げた。


「この前代未聞、恐るべき事件をきっかけに、団地を警察が捜査に歩き回っています」


 役員たちが、顔を見合わせる。


「今、団地はこれまでにない激震と恐怖に晒されている。おぞましい犯人が逮捕されない限り、住民の間で疑心暗鬼による諍いが起きても不思議ではない。それを防ぐために、不穏な空気を煽ろうとする無責任な行いは慎むべきです。私たちに出来るのは、団地の皆の不安を取り除く、無責任な噂や憶測を取り締まる事、それに尽きます」


 久代の目が、恵に刺さった。


「意味が分かりますね?」

「……何が仰りたいんです」


 意味ありげな針を向ける久代へ、恵は言い返した。

 久代の代わりに宇野が言った。


「先日、私の家に警察が来ました。香坂さん、あなたは警察に、白石さんの横に、若い女性がいたと話したそうですね」

「……はい」


「妻は警察に疑われたとショックを受けてしまい、家から出られなくなってしまいましたよ。家族は非常に困っている」

「……」


 恵はあっけにとられた。分別もついているはずの大人に、完全な言いがかりをつけられた、そのショックでもあった。


「それが何か、私が悪いんですか?」

「いいえ、つまり貴方の証言が与える影響というものを考えて欲しいと……」


「私のところにも来たわよ」


 涼しい声が舞い降りた。


「特に私は、団地内でも有名な『白石会長と仲が悪かった若い女』ですからね。その時間は仕事していたって話したら、アリバイの裏付けも取られたわよ。で、宇野さん、それがどうかしたの?」

「どうかしたって……私の妻ですよ」


「市民は事件解決のために情報を警察に伝え、警察はそれを元に捜査する。どこに不自然な点があるってのよ」

「見たから話したんです!」


 フラッシュバックに襲い掛かられ、恵は叫ぶ。

 白石の死体を見下ろしていた女。

 セーターを着ていた。


「黒の長袖のハイネックで、白いスカートで……」


 瞬きの間に現れた。そして瞬きの間に消えた。

 見間違いと思った。

 それでも目に焼き付く確かな輪郭と存在感に、恵は警察に話さずにはいられなかった。


「この季節に、長袖にハイネック?」


 誰かが言った。


「もう6月よ」

「でも、本当にいたんだもの!」


 雨の中の女が鮮やかに蘇った時、恵は息を止めた。

 ……土砂降りの中に立っていた。

 次々と降り注ぐ雨粒に全身を叩かれながら、女を見た。

 でも違う。何かが違う。


 今、ようやく思い当たった。

 女の頭や肩、全身を跳ね返す雨のしぶきが無かった。

 恵はうろたえた。

 それは思いがけずに禁忌を覗いた、手から日常を滑り落とした不安だった。 


 久代の顔が青ざめている。


「……あんた、誰の事を言っている?」

「え?」


「雪村さん! あんたか? あんたこの娘に話したのか?」

「……話すはずが、ないでしょう」


 淑子の声が震えている。


「悪質だ、あんた、出まかせなら許さんぞ! 悪質過ぎる悪戯だ! そして私は断固、この事件を起こした犯人を許さん!」


 久代が怒鳴った。


「この団地から追放してやる! 本気でそうしてやる!」


 久代のその本気は、団地の掲示板の中で大々的に貼りだされた。

 故・白石会長の不幸な事故に便乗して起きた、この悪質極まりない事件について無責任に噂をすることを禁じる。


 住民同士の疑心暗鬼や不安をかきたてるような行いを見つけたら、自治会としては強行的手段をもってそれを排除する。なお、それを見聞きした時は自治会役員までそれを通報すること。


「……この掲示板が、一番住民の不安を煽り立てているじゃない」


 学校からの帰宅途中だった。

 団地の掲示板の前で、恵は独り言ちた。しかも、密告を奨励している。

 これではまるで弾圧だ。弾圧が人に一番動揺を与え、不安な想像をかきたてるものだ。これでは逆効果じゃないか。


 恵は考える。

 今まで、家庭や学校で、大人や目上のいう事に従えと教えられてきた。

 だけどその言葉は、あくまで大人と年長者が正しく、良識を備えていることを前提にしているのだ。


 自治会に入り、色々な大人や風景を見ている内に、恵は身に染みて分かった。

 大人だからと言って、正しいとは限らない。

 年少者が目上の言葉に従う理由は、長い人生や生活の中で培われた知恵や人格への敬意と尊重だ。


 そうなると、その器量が無い相手に従う理由は無い、ともいえるが、まだ自分は大人の庇護下にある未成年だった。発言権が無く、大人にこの論理を訴えても、屁理屈で片づけられるのが悔しい。


 だが一方で、この久代のヒステリックのおかげで恵はかえって冷静になった。

 おかげで白石の幻からようやく解放されて落ち着いた。

 それでも、まだ引っ掛かっているものがある。

 それは恵の目撃した女に対する、久代の動揺の理由だった。それに淑子までだ。


 あんなに青ざめるなんて、彼女らしくない。

 理由を聞きたいけれど、淑子は話してくれない気がした。

 自分が見たものは、何だったのか。

 思い出すほど、恵にとっては奇妙な事だらけだった。


 あの女の存在感はひどくリアルで、網膜に焼き付いているのに顔が思い出せない。


「幽霊?」


 思わず笑い飛ばした。そんなもの、存在しない事を恵は失意と共に分かっている。

 母が亡くなったばかりの幼い頃、母が恋しかった。 寂しさは渇きに変わった。

 母の形をしていれば、幽霊でも良いから会いたいと、真夜中に家を抜け出し、母と一緒に散歩した川べりで数時間を過ごしたこともある。


 ……でも、会えなかった。

 娘の不在に気が付いた父が、真っ青な顔で走ってくる姿を見ながら、恵は母を諦めたのだ。

 だが、あの女は誰かに似ていた。

 曖昧な記憶に、印象が頼りなく引っかかっている。


 ――恵は、背後に気配を感じた。もう一つの影が地面に伸びている。

 振り向いた。そして思わず眉をひそめた。


「……ああ」


 宇野高之。挨拶する気にもなれない顔があった。

 黙礼して、そのまま歩き去ろうとした時だった。


「ちょ、ちょっと待って!」

「なに」


 私服姿だった。Tシャツとデニムだが、父親の服装よりくたびれている。

 高之が、気をつけの姿勢を取った。

 そして一気に頭を下げた。


「ごめんなさい!」

「……は?」


「あの、畑の事だよ。ごめんなさい」


 悲壮感すら漂う真剣さには、何を今さらと突き放せないものがあった。 

 それでも恵にとっては引っかかる。

 高之は父親と一緒に皆に謝罪して回ったというが、その中から自分をはじいた理由はなんだ。


「その、何というか、君にはオヤジと一緒に、形式ばって謝るんじゃなくて、ちゃんと一対一で謝らなくちゃいけないと思ったというか」

「ふうん」


「それで、少し前だけど一度君の家に行って、チャイムを押そうとしたら、後ろに帰ってきたお父さんが立っていて……娘はいないって追い返された」


 恵は天を仰いだ。


「そういえば……珍しく私よりも一足早く先に帰って来た日があったな。その日は、黙ってビール飲みながらずっと不機嫌だったけ」


 あれ以来、父の帰りが早くなったと思っていたら、さてはそれが原因か。


「ごめん、あれからどうしても勇気が出なくて……」


 高之の顔から、父の威嚇がどんなものだったかが察しはついた。


「おばさ……いや、雪村さんから聞いた。お母さんの大事な畑だったって……本当にごめんなさい」


 以前の無表情とは別人だ。

 謝罪が遅れた理由も怠惰ではなくて、高之なりの一種の誠意らしい。

 まあ良い。父の無礼もあるし、勘弁しようと恵は思う。


「……お母さんは、大丈夫?」

「え?」


「事件の事でさ、若い女性がいたっていう目撃証言のせいで、あなたのお母さんに警察が来て、ショック受けているんでしょ?」


 恵は、掲示板の張り紙を示した。

 高之は、それを眺めて「ああ」と嘆いた。


「悪い。俺、最近バイトを始めて、家にあまりいないようにしているから、オヤジとあの人とも話はしないし、その事件とかいうのも良く知らないんだよ」

「へえ」


 卒業後にすぐ家から出られる資金作りに、飲食店で働いているという。

 恵は感心した。雰囲気が変わったと思ったのはそのせいか。


「それじゃ、バイトの時間だから」

「いってらっしゃい」


 恵の挨拶に、安心したか高之がようやく笑った。

 そして一礼して遠ざかっていく。

 高之を見送りながら、恵は思い当たった。

 そうだ。あの畑の女は……高之の継母にどこか似ていたのだ。

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