第9話 真昼の狂った夢


 白石和男にとって、自分の人生は努力の連続だった。

 白石の実家は、四国地方のミカン農家だ。田舎の風習では、家族で偉いのは家長と長男だが、白石は次男だった。

 家督を継げない事は分かっていたので、勉強を頑張った。


 そのおかげで成績は良く、教師の勧めもあって大手の鉄鋼会社に入社できた。

 就職してすぐの頃は、好景気の波に乗って会社の業績は良かった。頑張ればそれだけ報われる時代だった。白石は仕事に努力を惜しまなかった。


 その真面目さが上司の目に止まり、見合いを勧められた。

 見合い相手と結婚し、当時は流行の最先端だったこの北園和団地の部屋を購入し、皆から羨ましがられた。


「人間、いかなる時でも一生懸命と努力が必要だ」


 いつも、部下や家族にそう言って自慢したものだ。今後もこの信念を変えるつもりはない。正しい事だと思っている……が。

 努力と一生懸命だけでは、どうにもならないものもある。

 今の白石にとって、それは生活収入だ。


 会社を退職した今は年金で暮らしているが、もらえる年金額は決まっている。

 収入を増やすためにバイトをすればいいが、この年齢になる体力仕事はきつい。努力と一生懸命だけで補えるものじゃない。

 そんなときに、目に入ってきたのが宇野清一という団地の住人だ。


 自治会活動の軽すぎるフットワークに目を見張った。会社員ではなさそうだ。しかし自営業でもない。無職にしては羽振りが良い。

 その通りだった。

 高級寿司とビールで歓待された日、宇野は自分の仕事を匂わせてきた。


 しかもそれは時間に囚われる事が無く、金回りが良いモノらしい。


『思考から変えなくてはなりません』

『この業界に入るには紹介者が必要です……能力や人生経験が必要です。彼らの眼鏡に叶ったものだけが、この仕事に就くことが出来るんです』


 妻が亡くなって3年になる。白石は時折、独りで夜の居酒屋に通っている。

 気に入った店もいくつか出来たが、その中に気になる女将がいる。

 和服姿が似合う博多人形に似た女将だった。


 彼女目当てに店に通っているが、その酒代は年金暮らしには堪えた。

 彼女ともっと話がしたい。そのために金が欲しい。

 宇野の仕事は、紹介者が必要らしい。

 もしかしたら、宇野に紹介してもらえば入れるかもしれない。


 白石は、自分を他の老人とは違うと思っている。

 宇野に頭が固いと言われたが、それは心外だった。元々大手企業の管理職である。 組織とは一つの生物だ。社内の派閥に外の景気、世間の動向が体内の臓器のように重なり合い、混沌とした世界である。


 その混沌の中を40年以上生き抜いたのだ。それは世知に長けた柔軟性あっての事ではないのか。その過去の経験値は、正に宇野が望む条件に違いない。

 会社人生の終わりは閉職に追いやられてしまったが、それは自分の能力ではなくて、時代の不景気のせいだ。


 久代は宇野の話を胡散臭がっていたが、あの男は元々猜疑心が強い。

 白石は宇野とその話を、もう一度したいと強く思った。

 出来れば、その仕事を詳しく聞きたい、出来れば紹介して欲しいと頼みに行きたいが、わざわざ訪問したらがっついているように思われる。


 甘く見られたくはない。

 自治会の役員会議で顔を合わせる機会はあっても、他の目が気になる。デリケートな話題なので、人目にはつきたくなかった。


 そんな事を考えている内に宇野と顔を合わせる機会も無いまま、宇野家を訪問してから10日ほど経っていた。

 ついに白石は思い立ち、散歩に見せかけて七号棟付近をうろついていた。


 夏が近い、暑い日だった。

 昼から雨が降るらしい。湿気を含んだぬるい空気の中で、白石は汗をぬぐった。

 宇野のスケジュールは調べてある。今日の午前中に、夏の地域行事の出し物の打ち合わせがあった。


 宇野に北園和団地の自治会代表として出てもらっている。

 昼前。そろそろ会議が終わって帰ってくる頃だ。

 その帰りに道端で偶然会ったと装うつもりだった。

 待ち伏せるために、白石はさりげなく7号棟の周辺をゆらゆら歩き、家庭菜園に入った。


 いつもなら住民同士のコミュニティ広場にもなっている菜園だが、今日は人気が無い。暑い。

 白石は流れる汗をぬぐった。

 そういえば、先日の回覧板に保健所からの熱中症予防の呼びかけが掲載されていた。


 独り、畑で作業をしている住民がいた。

 女だった。

 しかも横顔は、宇野の妻だった。

 内心白石は小躍りした。


 好都合だ。宇野本人より、妻の方が話をさりげなく聞き出しやすそうな気がしたのだ。しかも周囲に人はいない。

 宇野の妻はこれから畑で何を作るのか、黙々と地面をシャベルで掘り返している。


「やあ、宇野さんの奥さん」

「……」


 宇野の妻は顔を上げた。手を止めて、白石に頭を下げた。

 だが、それだけだった。

 顔には親愛の情も無く、会釈も機械的だ。その態度に白石は内心腹が立ったが、それでも話を聞き出すためだと、努めて明るい声を出した。


「何を植えているんです?」

「……さあ」


「さあって、土を掘り返しているじゃないの。目的が無いはずないでしょ」

「別に……主人がやれっていうから」


 再びシャベルを動かし始めた。

 地面の土をかき混ぜているだけの、熱意も無い作業だ。

 白石に対する態度も同様だ。暖簾に後押しどころか、まるで周辺を飛び回る蠅に向けるものだった。


 あんたに話しかけているんだ。せめて手を止めろ。白石はその文句を抑え込む。


「丁度よかった。あなたに聞いて欲しい話がありましてね。旦那さんの事ですよ」

「……」

「なんかこう、彼は私に対して何か誤解をしていると思うんですよ」


 黙々と、宇野の妻はシャベルを地面に突き刺して、土を掘り起こしている。

 聞いているのかどうなのか、分からない態度だが、この女には無理にでも話を聞かせなくてはならない。

 白石は、あれからずっと頭の中でリハーサルしていた話を始めた。


「先日は家に招いて頂いて、ご馳走になりました。色々おもてなし有難う。お話が出来て楽しかったですよ」


 どうも、とか聞こえた気がした。

 白石は続けた。


「ところで、あの日に出た話題の事なんですがね。奥さんにちょっと聞いて頂きたいことがあるんですよ」

「……はい」

「ご主人の仕事の事です」


 愚鈍な反応の女に、回りくどい言い方をしても分かるまい。

 シャベルが土に食い込み、土を掘り返す。

 その作業を繰り返す宇野の妻へ、白石は直球を投げた。


「どんな内容のお仕事をされているんです?」

「……それが、なにか?」


「いや、別に何といいますか、気になっているんです」

「そうですか」


「実に面白そうな仕事をされているようだ」

「はい」


 会話を投げても、空虚の中に吸い込まれていく。

 白石は、この女はもしかして、知能が低いのではと疑った。


「こう見えても、私は好奇心の旺盛な人間です。年寄りにしては実に若々しいと、いつも人に感心されている」


 はい、と聞こえた。知能はとにかく聞いてはいるようだった。


「彼は私を、どうやら頭が固い老人と思っているようですけどね。しかしそれは大きな誤解だ。私はね、どこに勤めていたと思います? 河辺鉄鋼ですよ。分かりますか? 知っているでしょ、誰もが知っている大手企業ですよ」


 本題その1にようやく切りこめた。それにしても暑い。

 後頭部に直射日光が直撃し、じりじりと痛いほどだ。

 白石の服の下で、背中に汗がぬらりと伝い落ちた。


「サラリーマンというのは、世間じゃ枠組みに囚われた人種と思われていますけどね、会社とはどんな所でも基本は人と人の関係です。柔軟な考えと行動じゃないと、到底勤め上げられない。私はそこで、定年まできちんと勤め上げたんです」

「……」


「分かるでしょ、私はちゃんと会社人生を全うした。つまり、あんたの旦那さんより世間を泳いだ距離は長いんですよ。そして経験もある。そこで、話があるんです」


 宇野の妻が、ようやくまともに白石を見た。


「ご主人の仕事に、私は興味がある。それに私はね、宇野さんが仕事に求める条件を持っているんですよ……ねえ、あんた、意味は分かりますか?」


 茫洋とした視線だった。

 こちらの言葉が届いているのかいないのか、もしかしたら全てすり抜けてしまっている顔。


 宇野の妻のその姿が、記憶の底を呼び起こした。

 あの女と共通する顔。それはこの7号棟に付着した風景も一緒に掴んで、地の底から浮かび上がる。

 思わず叫んでいた。


「あんた! 聞いているのかね」


 鋭い声に、宇野の妻の顔がようやくゆらりと動く。

 だめだ、あの時は分からなかったが、もしかしたらコイツは知能が人より劣っているのかもしれない……そう暑さと怒りで体を火照らせながらも、白石は宇野の妻の反応を見極めようと、凝視する。


 ……女の顔は白い。

 汗をかいていなかった。

 温度すら感じない人形の顔をしている。


「……も、文句あるのか、あんた」


 光の無い目に、ざわりと見えない虫が背中を這った。

 慌てて思い直した。

 いくら知恵遅れでも、気分を害することだってある。

 もしかして、畑仕事を邪魔されたと怒っているのか。


 だがこっちはそれ以上に、このバカ女の態度は気に食わない。

 仕事の話は直接宇野に聞くしかない。

 その話のついでに妻の態度を説教してやろう。

 白石がそう決意した時だった。


 宇野の妻が、シャベルを重たげに振り上げた。


「なんだ……」


 シャベルが振り下ろされた。

 時間が止まった白石にシャベルが当たらなかったのは、シャベルの重さで彼女がバランスを崩し、狙いがずれたせいだ。


「……なにを、する?」


 自分の身に何が起きたのか、何が起ころうとしているのか、ショックのあまり分からない。


「なに、なにするの、あんた?」


 明らかに、殺す行為だ。

 だが、表情には怒りも殺意も無い。生気も無い。


「な、なんだ、んだ、なんだ……」


 太陽の下で、人形のような女がシャベルを振り上げる。

 頭が狙われている。


「なんだ、なんのつもりだだだ……」


 もつれた声で悲鳴を上げた。

 熱気が寒気に裏返った。

 白石は、声にならない声を上げた。

 日差しが一気に冷えた。


 女が振り上げたシャベルが目に入った。

 白石は凍りつく足を、地面から引き剥がした。

 錆びたシャベルが振り下ろされる。重い風を切って、白石の脇の空気が裂けた。


「……っ……っ」


 また女がシャベルを振り上げる。

 振り下ろす。振り上げる、ぶんと振り下ろす。

 これは現実なのか、夢なのかと恐怖で混乱をきたす。


 足が重く、体が思うように動かないのは夢の中だからなのか。

 たすけてくれ、と白石は凍った咽喉で絶叫した。

 並ぶ団地のベランダ、窓には誰もいない。


 洗濯機の動く音が聞こえた。

 人の声がする。

 団地は人の気配で騒めいているのに、白石の目の中には誰も映らない。

 無人の絵の中に入ったようだ。狂った真昼の悪夢の中だ。


 やめてくれ。

 冷えた日差しの中で、心臓が何度も爆発を起こし、筋肉が軋んだ。

 スイカ割のような鈍いスピードだった。

 それでも直撃すれば、頭が破壊される。


 ゆらゆらと振り下ろされる凶器から、白石はよろめきながら逃げた。


「だれか……」


 見慣れた光景へ向けて、並ぶ団地のベランダや窓へ向けて助けを呼ぶが、やはり誰も顔を出さない。

 シャベルを振り上げる女の姿が目に入った。

 心臓が止まった。


 宇野の妻ではない女がいた。

 黒いセーターに白いスカート。

 衝撃が頭を殴り飛ばす。

 過去の風景が、鮮明に蘇った。


『あんた、努力したことある? ないでしょ。だからいつまで経ってもそのままなんだよ』


 自分の声が蘇る。それを聞かせた女の顔を。

 ……20年前に、会社の業績が悪化し、自分の部署が縮小されたことが蘇る。

 そして閉職に追いやられたこと。

 団地の自治会役員を引き受ける事になり、自治会長になったのはちょうどその時だった。


 役員の中でも、白石は年長者だった。

 そして大会社の管理職である自負が壊れかけた時だった。突然出来た自分の居場所に白石は発奮した。


『人間、いかなる場所でも努力は大事ですよ。それが全ての基本で力です』


 団地の自治会長も、集団のリーダーであることには変わりない。皆が当然のように自分の 声に耳を傾けて感心する。白石は喜んだ。

 ある日、自治会の会議に案件が持ち込まれた。

 数日前に母親を亡くし、今は独り暮らしをしている阿川千鶴子という住民だった。


 母親の葬儀一つも仕切れず、自治会役員たちが代りに動いてやるしかなかった、世間知らずの役立たずな女だった。

 葬儀後、引きこもってしまったという。母親を亡くして自立するどころか、立ち上がれないままだという。


 住民たちは心配した。このままにしてはおけない。

 阿川千鶴子を集会所に呼びつけた。覇気のないこの女は、皆で何を言っても、己の生き方に対する反省も無く、ゆらゆらと反応は無い。


『……だって』

『でも……』


 呪いのように言い訳を繰り返し、皆を苛立たせるだけだった。

 だが、この女だけが悪いのではない。生育環境が悪かったのだ。

 身体が弱いとか何だと理由をつけて、檻の中で安全で快適な生活を送らせた母親のせいで、生きる力が育たなかったのだ。


 だが、庇護者は死んだ。

 これは矯正してやらなくてはと、自治会役員たちは責任感に燃えた。

 白石は、団地の住民たちに言い聞かせた。


『阿川さんも、可哀そうな人なんです。彼女は過保護のせいで、子供のまま大人になった。人生を強く生きるという力を得る機会を奪われた被害者でもあります。そして殻に閉じこもったまま、努力も出来ないまま終わろうとしている。そんな生活から立ち直らせるためには、我々隣人、つまりは自治会全体で、彼女の力にならなくてはいけません』


 この可哀そうな住民を、皆で救うのだ。

 これは間違いのない善意で、正しい行動だ。

 それを分からせるためによく言い聞かせれば 彼女は皆の熱意に心打たれるに違いない。

 ……その結果、阿川千鶴子は首を括った。


 首吊り死体を目の前にして、白石は信じられない思いだった。これは皆の善意に対する、究極の否定だった。


『救急車!』


 同行者の声を聴覚の外で聞きながら、白石は気が付いた。

 自殺者の足元に、白い封筒が落ちている。封筒を開いた。

 内容を一目見た瞬間、瘴気が立ち昇った。それは団地住民への呪詛だった。


『これは、皆に見せてはいけませんね』


 一緒に中身を読んだ久代が、そう言った。


 首を吊ったはずの女が、自分を見ている。

 女がゆっくり振り上げたシャベルが目に入った。

 白石は凍りつく足を、地面から引き剥がした。

 錆びたシャベルが振り下ろされる。


 重い風を切って、白石の脇の空気が裂けた。


「……っ……っ」


 また女がシャベルを振り上げる。

 ぶんと振り下ろす。振り上げる、ぶんと振り下ろす。


「だれか……」


 足がもつれ、よろけながら、並ぶ団地のベランダや窓へ向けて助けを呼ぶが、誰も顔を出さない。

 死者と自分だけが存在する真昼は、死の世界だった。

 携帯、そうだ、携帯だ。


 しにたくない。ころさないでくれ、たすけてくれ、だれかたすけてくれ。いやだ、やめてくれ、ごめんなさい、すいません、しにたくないしにたくない……

 手が震えて、携帯を取り出せない。


 シャベルは緩慢に、どこまでも追ってくる。

 足が何かに引っかかった。

 転倒して顔が地面にめり込んだ。突き出た石の角に、手足がめり込んだ。

 土が目に入った。痛みに目をこすり、泣きながら白石は体を反転させた。


 シャベルを大きく振りかぶった女がいた。

 自分の顔にめがけ、振り下ろされる獰猛な鉄が目に突き刺さる。

 人生最後に感じたのは、心臓を踏み潰されるような激痛だった。

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