第8話 カモたちに罠を張る

 朝、パートに出勤しようとした裕香に、清一が言った。


「今日は仕事を休め」


 昼前に客が2人来るという。

 裕香に自分と一緒に客をもてなせというのだ。


「特上の寿司を取れ。それからビールと酒、ウィスキー。花も買ってこい」

「花?」


「こんな貧乏たらしい部屋でもな、花を飾るだけで空間が華やぐ。余裕があるように見えるんだよ」

「どんな人が来るの? それにわざわざここに来る目的くらい、教えてくれたって良いでしょう?」


「自治会の奴だよ。役員だからな」


 裕香は黙った。

 自治会の役員になったのは裕香と高之の尻拭いだと、それが清一の弁だった。

 裕香が5号棟の住民のバッグを奪おうとしたこと、高之が4号棟の畑で住民相手に暴れたことで、団地内での宇野家の心象は悪くなった。


 その挽回の為に、清一は自治会役員になったという。

 会に入って活動することで、団地住民たちの心象を良くするのだと。


「それでも……」


 休んだら、収入に響くと言おうとして口をつぐんだ。

 時給なので休めば収入に響く。

 しかもいくら働いても、使っているのは清一ではないか。


 セミナー代だけではなく、最近は身なりを整えるためだと言って、どんどん金を引き出されていく。

 そうやってすり減っていく預金残高を思うと、仕事を休めと無責任に言い放つ清一に対して怒りがこみ上げるが、団地の中で騒ぎを起こしたと殴られた、あの時の痛みと恐怖を思い出すと、抵抗よりも服従を選んでしまう。


 仕方がなく、パート先に病欠の連絡を入れた。

 売り場のチーフはそれに対して『分かりました』そう無機質に返してきたが、お大事にとも言われなかった。


「良いか、これから2人の客が来る。そいつらに粗相はするな。愛想よく歓迎するんだ。間違っても、いつものような不機嫌な面はするな」

「……」


「お前、俺の事をバカにしているんだろう」


 清一が突然、牙をむいた。


「仕事に失敗して、こんなとこに住まわされて、パートなんかに出されてとか、不幸の塊みたいな顔を毎日見せつけられる、俺の気分も理解しろとは、貴様にはもう言わん。お前の脳みそは、ワタシ可愛いか、ワタシ可哀そうのどちらかだもんな」


 初めて殴られた日に見せた時と同じ憎悪の目に、裕香は凍りつく。


「喜べよ、もう一度金を掴んでやる。今日の客はそのためのカモだ。金が欲しいんだろ? またタワマン住んで、キラキラしたゴミを買い漁りたいんだろう? そうなら協力しろよ……分かったな」


 頷くしかなかった。

 正午少し前、やって来たのは2人の老人だった。

 白石と久代、自治会の会長と副会長だという。

 正直、裕香は清一が参加している自治会活動の内容そのものが良く分らない。


 昼間は市役所や学校、公民館に出かけているようだ。

 市民団体や行政からのメールがボックスの中に入っていることも多くなったが、それが一体何故金儲けに繋がるのか、この2人がどうカモなのか、裕香にはさっぱり分からない。


 清一は満面の笑みを浮かべて、2人を出迎えた。

 裕香に昼食の準備をさせた、6畳の和室に通す。


「お二人のために、大蔵ホテルのデリバリーを頼もうかと思ったんですが、あそこは料理長が交代してから少し味が変わりましたので、近所ではありますけど『寿司善』の特上を取りました」


「イヤなに、お気になさらず」

「そうそう、私ら老人にとって、デリバリーはちと味が濃くていけない」


 部屋に入ってきた時、室内を無遠慮に品定めしていた白石と久代だったが、特上寿司が届き、ビールが並ぶと途端に態度を変えた。

 次々とビール瓶を開けながら昔話が始まる。


 現役だった頃、取引先との接待でどれだけもてなされたか、自分がどれだけ重要人物であったか、白石と久代は2人で競い合うように裕香と清一に拝聴させた。

 その中には人生訓らしきものもあったが、それは人生を送る中で得た教えや知識を話すではなく、自分たちを敬えという、それだけのものだった。


 清一は二人の話に「ごもっとも」「勉強になります」「スゴイですね」の三種類を打ち返している。

 この老人たちに出した寿司と酒の料金は、清一が払うようだ。

 予想外の出費に内心苛まされながら、裕香は顔を笑顔で固定して清一の言いつけ通りに酒のお酌をし、話に適当に相槌を打つ。


 話題は、団地の住民に移った。


「あの雪村さんも、旦那さんが生きている間は大人しい人だと思っていたけど、変わっちまったねえ」


「そりゃまあ、アンタ、亭主死んで女手一つで子供育て上げるまでに色々あったんだろうよ。でも気が強くなっただけなら良いけどさあ、あのクソ生意気な嫁の肩を持って、ワシらに口答えするようじゃ、もう駄目だ」


 雪村という女に、嫁の態度が悪いので注意したらキレられたらしい。


「だけど、雪村さんは良い人ですよ。それにあのお嫁さんは凄く綺麗な人じゃないですか」


「そうかあ、私はあんな我の強い顔は嫌いだね」

「あんた、宇野さんの嫁さんだって別嬪さんじゃないか」


 なあ、と酔いの回るしなびた腕が肩に回された。裕香は曖昧に笑う。

 この2人が家に入った瞬間から、背中がちりちりとざわついている。

 汚い獣に、自分のテリトリーが侵害されている嫌悪交じりの危機感だった。


 裕香にとってほとんど知らない相手だというのに、この醜い老人たちを裕香は知っている。

 既視感だ。自分でありながら、自分以外の目が客の二人を見ている。


 子供の頃『○○ごっこ』という、自分以外の違う役になり切る遊びがあったが、今の感覚は、自分以外の誰かがもっと自分自身に入り込んでいた。

 そしてこの白石と久代に、憎しみを感じている。


 この無遠慮な老人たちにとって、他人への親しみと馴れ馴れしさはイコールだ。しかも相手が自分より目下と判断すれば、尊大さを発動させる。

 しかも、それが年長者の心意気だと思い込んでいる意識の低さ。

 裕香は服の下で鳥肌を立てた。


 未知の光景なのに、この感覚を知っていた。

 この老人たちも、いつか見た悪夢の出演者のように思えた。


「あーしかし宇野さん、あんた、仕事何やっているの?」


 酒でふやけた口調で切り出したのは、白石だった。


「ずっと前から不思議だったんだよ。昼間に何やっているのかてんで分からん、時間たっぷりのくせに羽振りがよさそうだしさ」

「そうそう。これが一番聞きたくて、この家に来たんだよ。なあ、あれ、バカラでしょ。儂は昔、インテリアの会社におったからね。高級品は分かる」


 久代が、大輪のユリを活けているトロフィー型の花瓶を見やった。

 事業に失敗した時、換金できるものは家財道具から何までほとんど売り払ったが、あのバカラは大きくて重いので、買い手がつかずに売れ残った品だ。


「そうですねえ」


 ビールを片手に考え込んだ清一に、白石がげらげら笑いながら言葉をかぶせた。


「もったいぶりなさんな、悪い事でもしているのかね」

「そうそう、実はね、ワシら、あんたのお招きに悩んだんだよ。この号棟のこの階は、ちとその、昔やなことがあってさ」


 裕香は酌の手を止めた。


「でもなあ、やっぱり好奇心に勝てん」


 そうそうと重なる笑い声。裕香はきつく目を閉じる。

 汚い笑い声だった。心が汚染されていくような。


「ふうむ、そうですね」


 清一が考え込む素振りをした。


「お2人に説明しても、分かって頂けるかなぁ」


 今までの丁寧な態度が裏返った。

 小ばかにしたセリフに、白石と久代が驚いたようだが、それでも構うことなく清一は続けた。


「いえね、お2人のお話を聞いていると、良く出てくるワードが『年寄り』と『昔人間』なんですよ」

「そりゃあんた……」


「先日も少しお話しましたが、時代の流れは絶えず変化して価値観からライフスタイルも変わっていくんです。時代を先取りするためには、流れに自分の考えを置き去りには出来ない。年寄りとか昔人間なんて、最も忌むべき立場と言葉です」


 口をつぐんだ2人に、清一が続けた。


「私の仕事は、時代の先を読んでデータを集め、それを元に判断することによって得られる報酬です。お解り頂けるでしょうか?」


 空間が沈黙した。清一は朗々と声を響かせた。


「まず、それには思考から変えなくてはなりません」

「思考?」


「そう、自分は時代の流れに取り残された化石なんかではない、時代の流れを読んで先を見つめる、いわば時代の観察者です」


 ほう、と白石が感心の体で呟いたが、久代の口元が歪んだ。


「宇野さん、アンタが言っていることは、いまいち具体的ではない。時代の流れを読むって何よ? 新聞? ネット?」

「観察するためのツールは何でも結構です。仰る通りネットでも新聞でも」


 ニヤリと清一は笑った


「私が今見ているのは、この自治会です」

「は?」

「じちかい?」


「人がいる場所に、流れは起きるんですよ。この団地には人が大勢住んでいるじゃないですか。自治会は、そこに住む人々の暮らしや様々な理を見つめる組織でもあります。久代さん、違いますか?」

「……」


「あ、アンタ、何を! けしからん!」


 久代が叫んだ。


「まさかアンタ、この自治会を金儲けのネタにしているのか? どんな形で、どんなふうにか知らんが……」

「勘違いなさらないで下さい。私はただ、皆さんの行動を見ているだけ、観察してデータを取る対象にしているだけです」


「……それで、どうしているんだ?」

「言ったでしょう、情報が商品になりえる時代だって」


 軽やかに言い切る清一は、どこか悪魔めいていた。相手を揺さぶりながら餌を小出しにちらつかせ、見えぬ罠へ獲物を誘う。


「ご心配なさらず。団地の皆さんが不利益を被る事は一切ないです」

「それなら、まあ……」


 白石は口ごもったが、久代はまだ食いついた。


「しかしアンタ、やっぱり胡散臭い事は変わりないんだよ。宇野さん、アンタ、事業に失敗したからこの団地に引っ越ししてきたんだって? つまり、アンタは社会でいう落伍者じゃないの? そんな人に社会の流れをどうこうとか言われてもね、説得力がない」


 この老人どもの声を聞いていると、裕香の白い霧に包まれた思考の奥から、嫌悪感より憎悪が浮かび上がる。

 それは自分自身ではなく、自分と重なった者の記憶と感情だ。

 清一は笑い出した。久代を押し戻すほど、大きな笑い声だった。


「そう、だからこそ、私はこの仕事に就けたんですよ」

「は、はあ?」


「仰る通り、私は事業に失敗しました。私自身が経営していた店は4つもあったし、プロデュースや出資もしていた。それを全てすっからかんにしました。お分かりですか。つまり私は、成功者でもあったんですよ」

「そ、それもそうかもだが……」


「成功と失敗、この2つの経験値を持った私だからこそ、この仕事に誘われたんですよ。この業界に入るには紹介者が必要です。特別に選ばれた人間しか入れない場所でもあり、選ばれるには社会的立場とはまた別次元の、能力や人生経験が必要です。彼らの眼鏡に叶ったものだけが、この仕事に就くことが出来るんです」


「具体的に、どうすれば入れるんだ? 仕事は何をするんだね?」

「口が固いのも、選考条件の1つです」


 清一は2人の詰問を軽くかわした。


「おお、もうこんな時間です。そろそろお開きにしましょう……それでは白石さんに、久代さん、楽しかったですよ」


 またいつでもおいでください。そう清一は笑った。


「さて、あの化石爺さんどもは、俺をどう思ったかな」


 2人が帰った後、清一は機嫌が良かった。


「自分の老いに劣等感を持っている、傲慢な年寄りほど笑えるものはねえよ」


 裕香は清一が垂れ流す言葉を聞きながら、裕香は、寿司桶やビール缶、つまみで散乱したテーブルの上を片付けていた。

 そんな笑える奴らに2万円以上飲み食いさせたのは、一体何故だ。


「きっと、アイツら俺の仕事を聞きにまた来るぜ。教材を売りつけるのはその時だ。まずはあのガチガチの頭を変えなくちゃいけないんだからな」

「頭を変える?」


 大仰な物言いに、つい手を止めて聞いた。

 思い浮かんだのは、清一が矢島という男に勧められて参加しているセミナーと、次々と購入して、今でも量が増え続けているDVDや本だった。

 その『成功するための教材』は今、数十個の段ボールに詰め込まれて、4畳半の和室を占領している。


「化石爺さん……いや、化石ならまだ価値があるけどな、あいつらの頭は石ころでしかねえよ。そいつらでも、矢島さんや俺たちみたいになりてえんだ。それなら仲間に入れてやるというだけの話だよ。親切だろ」

「親切……」


 裕香には、今の清一の言っている意味と、行動が全く見えない。

 裕香を見る清一の目が、侮蔑に歪んだ。


「俺がお前の思考を変えてやろうと、DVDや本を折角読ませてやったけど、全く理解出来なかっただろ。まあいいさ、お前はその程度だ」


 清一に強制されて、裕香も一応教材には目を通した。

 教材DVDの中に現れたのは「飛翔会代表・天馬翔」と名乗るのっぺりした顔の男だった。

 どこかのホテルのスイートルームで撮影されたものらしく、天馬の背後にあるガラス張りの窓から、夜景の光が宝石のように零れ落ちていた。


『皆さん、貴方が今いる場所は、どこですか? いるべき場所はどこですか?』


 おそらく「天馬」は本名ではないだろうが……彼は語る。

 貧しい家に生まれたこと、貧困のせいで学歴も無い彼は、コツコツと貯めた金でようやく商売を始めたが、失敗して多額の借金を背負ってしまう。


 借金取りに追われ、ホームレスになった彼は自殺まで考えるが、彼は思い直す。

 この経験は、この今の瞬間は誰でも出来る経験ではないと。

 今の自分は、世界の隅にいる虫に過ぎない。

 しかし、虫だからこそ、見える世界がある。


 世間の常識や思い込みから外された虫だからこそ、通常では見えないものが見える。

 彼はDVDの中で、固定観念を捨てて世の中の仕組みや物事の見方を変えろと、己の未来を、そして成功を信じろと語り続けた。


『成功するためには、成功者の思考をリスペクトし、己に取入れるのです。その結果どうなるか? それは私を見ればわかるでしょう。私は固定観念を捨て、あらゆる偉人たちの生き方に敬意を表し、思考を取り入れた』


『成功者の思考と生きざまは、取り入れた人間の魂と同一化して飛翔します。さあ、あなた方が取り入れるべき思考と、輝く姿はどこにあるか? 胸に手をあてて、私を御覧なさい。そうすれば、将来の自分と向き合えることが出来る……』


 この『飛翔会』は、人生の素晴らしさを皆に伝えるために作った会である。

 この天馬翔の元に集ってくれる人々、飛翔会の中で私はその方法を皆に伝えたい。

 私の教えを信じろ、見習え。

 そうすれば、私のように月収1億も可能となると語っていた。


 この教材用DVDは、収録15分で全120巻ある。

 この中で天馬は成功の秘訣や己の信条、視聴者に向けてのメッセージなどを収録していたが、その話の内容は基本的に同じだった。

 表現や衣装が変わっているだけだ。


 信じろ、私を信じろと語りかける天馬の言葉に、裕香の心は動かない。

 月収1億という途方も無い金額に現実味が湧かないのもその1つだが、言葉は全て抽象的過ぎた。そんなあやふやな言葉に、今の裕香はそこまで寄り掛かれない。

 己の未来と成功を信じた日々は、自分にだってあった。


 信じた結果はどうだ。

 あの日に自分の全てをかけた男は醜く変質し、暴力を振るう化け物に成り果てた。


「俺は、この天馬先生のようになる。いや、なれる男だ」


 何故なら、自分も同じように事業に失敗して辛酸を舐めた男だからだと清一は言う。

 清一はこの飛翔会のトップ、天馬に自分を重ねている。

 そして飛翔会のセミナーに自分を紹介してくれた、矢島という男を恩人だと感謝し、崇めている。


 清一は再び昔のように成功する自分を信じているようだったが、裕香には不安以上のものがあった。

 金儲けの為だと言って、一体どれだけの金を注ぎ込んでいるのか。


「もう一度、俺は俺自身に成功者の感覚を思い出させるんだ」


 これもセミナーの教えらしい。


「切羽詰まった貧乏人の投資話に、耳を傾ける奴がいるか? まず崇めさせる、仰がせるんだ。余裕のある生活を見せつけて、自分たちもこうなりたいと思わせる。この間買った。プラダのスニーカーを憶えているか?」

「……ええ」


 玄関で、プラダのスニーカーを見た時は目を疑った。数十万円する品物だった。

 一体どこから金を引っ張ってきたのかと、裕香は目眩さえしたものだった。


「この古臭い貧乏じみた団地でも、良いものが分かる奴がいるもんだ。4号棟のオバサンが、スニーカー見て目を丸くしていたぜ」


清一は笑った。


「一足10万以上のスニーカーなんて、あのオバサンにとっちゃ知っていても買えるもんじゃねえんだよ。それを奴らに見せつけて、俺への好奇心を煽っていく。どうすれば宇野さんみたいになれるんだって思わせる。そうやって月収1億の投資に繋げていくのよ。それを考えれば、プラダなんか安すぎる買い物なのは、バカなお前でも分かるだろう」


「……高之の、修学旅行のことなんだけど」


 月収1億を信じる男に狂気すら感じたが、しかし先日届いた学校からのメール内容を、裕香は清一に伝えた。


「10日以内に、15万振り込んで欲しいって」

 修学旅行先は台湾だという。


「欠席させろ」

「え?」


「そんな金あるか。修学旅行なんか、強制じゃないだろ」


 高之が可哀そうだというより、自分はプラダのスニーカーを購入しておきながら、そう言い放つ清一の自分勝手さに、裕香は目がくらむ思いがした。


「ああ、そうだ。この間、あの5号棟の若奥さんが、お前が騒いだあのバッグを返してくれたんだが」

「え?」


 裕香は思わず声を弾ませた。あの女が、清一がフリマで売り払ったあの水色のバッグを、本当の持ち主である自分に返してくれたのか。


「また売ったよ」

「え?」


「また売れたんだよ、あのバッグはな」


 心が暗闇に吸い込まれた。


 裕香は、ようやく清一の本性を掴んだ気がした。

 どうであれ、一度は愛して結婚までした男だった。

 清一と幸せだった時もあるのだ。

 だから今現在の彼の姿は、事業の失敗で人柄が変わったせいだと思っていた。


 大きな挫折や心の傷が、人の性格を変えるなんて良くある話だ。

 これもそうだ。自分に対する暴力も暴言も、挫折の後遺症だと。

 違っていた。

 自分の元に返されたバッグを、また無断で売られたことで、ようやく裕香は気が付いた。


 清一には元々、他者に対する思いやりは無いのだ。

 出会った頃の優しさ、新婚時代の頼もしさこそが偽りだった。

 人間の本性は、逆境にこそ露呈する。今の状態こそが清一の本性なのだ。

 あの5号棟の女がバッグを返してくれた理由は分からないが、少なくとも裕香に対する譲歩と親切心ではある。


 清一はその親切心を、裕香ごと踏みにじることが出来る男だった。

 裕香はふと、清一の元妻を思い出した。清一の妻として、彼女も今の自分と同じような気持ちを味わったことがあるのか。今初めて元妻に奇妙な連帯感が湧いた。


 ある日、裕香は高之と珍しく顔を合わせた。

 学校から戻り、私服に着替えてまた出かけようとしていた高之は、玄関で裕香に呼び止められ、怪訝そうな顔で振り返った。


「あんた、お母さんのところへ戻る気は無い?」

「え?」 


 いくら働いても、清一のせいで金はどんどん吸い上げられる。

 3人分の食費や光熱費は重かった。もうすぐ高之の学費だって払えなくなる。

 もしも高之が公立高校に通いながらバイトをして、家計を助けているならとにかく、そうでないのだ。それなら母親の元で暮らして欲しい。


 元妻が高之の養育を拒否した理由はいまだ知らないが、高之と血のつながった母親だ。

 親子の情は残っているはずだ。

 母親ならきっと息子を受け入れるに違いないと思ったが。


「お袋はもう日本にはいない。連絡先も知らない」

「……え?」

「外国で暮してるってさ。フランスのパリだよ」


 フランスとパリ。

 その言葉の毒針で裕香を刺して、さっさと高之は玄関から出て行った。


 ――チズは、今日も部屋で裕香を待っていてくれていた。


 和室で正座をしたチズの膝に、裕香は顔を埋めた。

 あふれる涙と共に、清一の非情な振る舞いを訴えた。

 その元妻の事も。


「あの女は、私をゴミ捨て場にしたのよ。清一と高之の捨て場所に、わたしを……」


 フランス、パリ。

 外国のアパルトマンでゆったりとくつろぐ、影法師の女が浮かぶ。

 元妻の顔を、裕香は最後まで知ることはなかった。

 清一と元妻が別れる際に、離婚訴訟沙汰になれば、顔を合わせる事態も起こりえたかもしれないが、表面的には円満な協議離婚で済んだのだ。


 今考えると、おかしい。

 普通なら自分の結婚生活を壊した愛人の顔を、例えそれが夫を盗られた憎しみと嫉妬で出来た好奇心であっても。一目でも見たくなるのが妻の心だ。

 嫌な考えが起きる。


 もしかしたら、元妻は清一を元から捨てる気でいたのでは?

 既に愛想もつき、清一の事業の失敗を予測していたのなら? 

 そうなれば、早めに見切りをつけて、欲しがっている相手に高之ごと押し付けてやったほうが後腐れなく、賢いやり方だ。


 だとすれば、愛人の顔を見たいという感傷も起きなかった理由がつく。

 自分は元妻の策略にはまったのだ。新しい生活の踏み台にされたのだと、裕香は悔しさで身体が破裂した。


「それなのに、アイツの本性を、ここのヤツラは、皆は知らないのよ」


 小さな子供のように、チズの膝に顔を埋めて泣く、

 子供にとって、母親の膝は安全基地で、ゆりかごだ。

 今の裕香にとって、チズの存在はまさにそれだった。

 何もない自分を否定せず、全て受け入れてくれる場所。


「あの男が、良い旦那だなんて言うのよ。団地の皆のために力を尽くしてくれる、今時まれな人材だって……」


 見知らぬ主婦2人に話しかけられた事を、裕香はチズに訴えた。

 井戸端会議をしていた2人の主婦だった。

 パートから帰りに重い荷物を持って、号棟の前までたどり着いたところを呼び止められた。


『今年の小学校の運動会準備に、自分から立候補してくれたんですって? 旦那さんにお礼を言っておいて。それにしても、旦那さんていつも雑誌のモデルみたいね。うちの亭主と全然違って、格好良くて羨ましいわ』


『何か特別なお仕事されているから、奥さんがパートに出なくてもお金はあるんでしょ? それなのに奥さん、外に出たいからって旦那さんに無理を言ってパートに出ているんですって? えらいわね』


 冗談ではなかった。宇野清一ではない、別人の事を聞かされているようだった。

 そのモデルの身なりをした男は、生活費を入れてくれない。だからこうやって自分がパートで働いているのだ。

 それが働きたいから働いている? そんなはずあるものか。


 裕香の脳裏に、パート先のロッカー、灰色の商品倉庫や、姦しい売り場が浮かぶ。

 華やかさもない、生活の手垢だけで出来上がった店。来る客だって、1円でも安いものを求める人間ばかりだ。セレブもパーティも関係ない場所で、食品と生活用品の調達場で、時給いくらで働くなんて、生活費の為以外の何がある。


 だが清一は団地の住民に、高級時計をチラつかせながら触れ回っているらしい。


「今ではこんな暮らしですが、私は一度、経営に失敗していますので、前のようなことが、もしもまたあったらと妻はやっぱり心配なようです。パートでも良いから仕事をしたいと、何度止めても聞かないんですよ」


 ――分かっているのだ。あんな男と一緒にいて、これから良いことがあるのか。その先何があるというのか。


「逃げたいよ、でも逃げられないの。だって、怖いんだもの」


 裕香はすすり泣く。


「だって、ここを出たところで、私にはお金も家も無いもん。どうやって独りで生活すれば良いのか、分からないもの。ここを出たら幸せになれるという保証だって無いし……」


 逃げ出した先が、必ず今より豊かな場所とは限らない。

 もう、30を目前にして若いとは言い切れない。

 再就職も出来るか分からない。

 エステで美を磨いていた日は遠い。


 今は生活の垢で翳り、日常にすり切れた自分に、新しい恋人が見つかるかどうかも分からない。

 思い切って闇から抜け出だしても、次はまた新しい地獄が待っていたらと想像すると、現状維持を選んでしまう。


 私も同じよ、とチズが囁く。

 私もずっとここにいる。

 優しいチズの囁きに、裕香は目を閉じる。

 古い畳とカビの匂いが優しく鼻腔をくすぐった。


 チズの膝は冷ややかで、悲しみで熱く火照る裕香の頬を冷やしてくれる。


「……清一がしている仕事というのも、良く分らないの……」


 清一は「特別な人間による特別な投資」だと言った。

 飛翔会のセミナーを受けた人間しか投資が出来ない、しかしその投資は必ず倍以上の金額となって返ってくるという。


「セミナーに参加して、固定観念や時代遅れの考え方を捨て、新しい視点と柔軟な思考を手に入れた人間だけが出資に参加出来るんだ。そもそも、金融は先行きの見えない生き物だ。物事の先を見通す力や情報収集力、そして決断力が必要だ。考え方や頭が古いやつには到底出来ない」


 清一は、悔しそうな顔になった。


「俺は他の会員のようにファンドを購入したいが、今はその金が無い。だけど矢島さんはこう言ってくれたんだ。のし上がるためには購入するだけじゃない。人を勧誘して会員と出資者を増やし、会に貢献する手もある。そうすれば、天馬会長の目に止まる可能性もあると。俺は出資ではなくて、まずは勧誘からだ。そこから金を稼いで、月に一億の収入を一緒に目指そうと言ってくれた」


 清一は矢島のチームに入っている。

 清一は、いつかは矢島のように自分のチームを作ることを目標にし、手始めにこの団地の住民を勧誘する事に力を注いでいる。


「清一は、私に、ここに奴らに取り入れって言うの」


 チズの狼狽が伝わる。それは嫌悪だった。

 あいつらの、仲間になるの? 

 チズが震えた。

 それは団地の奴らか、それとも清一に対する嫌悪なのか。


「お前も、家庭菜園で土いじりをしろだなんて言うのよ」


 朝、畑でたむろする、醜い老人たちの輪の中に入れというのだ。


「そんな汚い事を、どうして私がしなきゃいけないの?」


 チズは黙って聞いてくれている。悲しみに同化してくれている。


「……何であんな奴らに迎合しなきゃいけないの? 私が奴らに愛想を振りまけって、いやよ。分からない。どうしたら良いのか、分からない」


 チズの優しい声が、裕香の心をそうっと撫でた。

 ここから出られなくても良いじゃないの。

 私がいるでしょう。私と一緒にいれば良いの。ずっと一緒よ。

 ……嬉しい。


 チズという優しさに包み込まれて、裕香は目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る