第7話 7号棟の過去
葬儀場の上には、青空が広がっている。
太陽の日差しは遠慮がなかった。
夏に近い季節のせいで気温が高い。
喪服だと汗ばんでしまう程で、淑子は額に滲む汗をそっとハンカチで拭った。
葬儀に参加する列席者は思いのほか多かった。
会場の場所が北園和団地の最寄り駅であることもあって、自分と同じように、信江と親交のあった団地の住民の顔もちらほらあった。
その中には、自治会長の白石と副会長の久代もいた。
団地の自治会代表としての出席と、会の会計から出ている香典を持ってやってきたのだろう。
僧侶の読経、菊に囲まれた祭壇。
山杉信江の遺影と、真っ赤な目をした信江の夫に3人の成人した息子たち。
隣に立つ若い女性は息子の妻だろうか。
焼香を終えた後、葬儀場の中で3人何となく揃っていた。
自治会長の白石が、禿げた頭をさすりながら呟いた。
「階段から、足を滑らせてか……本当に人の寿命って分からないものだね」
「事件性は無いんですか?」
さすがに、小声で久代が聞いた。
「ウチに警察が来て、散々山杉さんの事聞かれましたよ。交友関係とかトラブルはないかと、まあ根堀深堀です。会長と雪村さんのとこにも、警察が来たんでしょ? 何か聞いていませんか?」
さあ、と淑子は言った。
信江の事故を聞いて、最初は信じられなかった。
階段から転げ落ちるなんて、日常の延長線に突然落とし穴が開いたような死だ。
死神の気まぐれのような事故で信江を奪われ、呆然としていた家族に、過去の自分が重なった。
彼女の事故を興味本位な話題にしたくなかった。
会話は続いている。
「階段からどうやって落ちたのか知ろうにも、ウチ、階段に防犯カメラ無いからね。だけど山杉さんは人も恨まれるような人じゃないし、周辺に不審人物がいたとか、すぐ傍に人がいた形跡もないし、目撃者もいないし」
「はあ、なんだ。じゃあ事故かあ」
「監視カメラ、それぞれの棟の階段に取り付けようかって話が去年に出たんだっけ。確か、あの時は大規模修繕前で予算が無いからって却下されたんだよな」
「そうそう、それより駐車場のカメラを買い替えろって」
隣の会話に、淑子は病で亡くなった夫の葬儀を思い出した。
20年前のあの日の自分は喪主だった。
当時7才だった息子の吾郎の手をつなぎ、機械のように喪主を務めた。
喪主の席からは、葬儀の参列者の顔が全て見える。
同じ喪服を着ていても、参列者の表情は同じでも、淑子の目には、悲嘆の差は明らかだった。
高校教師だった夫のために一番泣いてくれたのは、彼の教え子や仲間の教師たちだった。
悲しそうな顔でも、葬儀業者と近所の住民は儀礼的なものが透けて見えた。
夫の葬儀から、数珠つなぎに葬儀の風景が次々と浮かぶ。
夫の葬儀からほどなくして参加したのは、病気で亡くなった女性の葬儀だった。
そういえばあの人も信江と同じ7号棟だったと、気の重い共通点を思い出す。
亡くなった彼女の娘は、母を失ったショックで喪失より深い、虚無の殻に入ってしまった。
娘は、その後自ら命を絶った。
淑子の過去に浮かんでいる母娘、2つの葬儀が今に重なる。
あの人は、首を括る前に何を考えていたんだろうと淑子は思う。
母親の幻影か、それとも母親を失った孤独に、土足で踏み込んでくる隣人たちへの恐怖か。
――死者を思い出すことは死者への供養にもなると聞いたことがあるが、私が彼女を思い出す資格はあるのか。
――人に怯えていた彼女にとって、他人から思い出される事は供養になるのか。
既婚者と独身という立場が違えど、淑子と同じ年頃の女同士だった。
それでも、下の名前を呼び合う間柄ではなく、淑子の記憶の中で彼女の名前は曖昧だった。
確か、母親から『ちーちゃん』と呼ばれていたのは憶えているけれど。
「おう、宇野さん」
久代の声で、淑子は物思いから覚めた。
黒い背広姿の宇野清一が立っている。
そういえばこの人は、山杉家の葬儀の受付をしていたのだと淑子は思い出した。
平日の今日、淑子は会社の有給を取って葬儀に参列している。
もしかして宇野は、階下の住民のために仕事を休んでまで、葬儀の手伝いをしていたのだろうか?
淑子の疑問に宇野は笑顔で答えた。
「仕事を休んでまでじゃないです。私の仕事は時間に縛られないんで」
「まあ、そうですか。そうとはいえ、貴重なお時間を有難うございます。宇野さんが集会とか学校の活動とか、色々引き受けて下さるので、私共は本当に助かります」
「お気になさらず。あくせく働かなくても金は入ってくるんですよ。その空いた時間を人のために使いたいと思っているだけです。それに妻と息子が皆さんにとんだ世話をおかけしましたから、その償いもあります」
久代が、親しみというより馴れ馴れしさを込めて聞いた。
「優雅だね。いったいどんな事をすればそんな身分になれるんだ?」
まさか悪事じゃないよねと冗談めかした久代の詮索を、宇野は余裕の笑みで流す。
「人と違う視点を持って、時代の少し先を見る、それだけですよ。そうすれば金は自然と集まってきます」
「何、それは投資か何か?」
「そうですね、普通の投資じゃないですけど」
曖昧にぼかされた内容に興味を惹かれた。
今の淑子に生活に不安は無い。
それでも働いている様子は見せずに悠々自適の顔をしている宇野は不思議だった。
過去に失敗した事業のせいで、この団地に流れ着いたと聞いている。
宇野の息子、高之の話だと借金を抱えているはずだが、今はその気配すらない。
宇野はどうやって経済状態の逆転を成しえたのか、淑子にも好奇心が湧いてくる。
年金暮らしの白石と久代は、それ以上のようだった。
宇野の顔を食い入るように見ている。
「金を稼ぐ形態は、時代と共に変化しています。例えば江戸時代は米を作ることが経済のメインだった。だけどその後、時代は通貨が中心となって、通貨の形にも変化が起こり、仮装通貨というものが出てきた。金の概念も変わりつつある。給料は口座振込で、今は財布から現金を出すこと自体が減っていでしょう。今や通貨は形あるものだけとは限らない。データでもあるんですよ」
話に振り落とされないように、白石と久代は固唾を飲んで聞きいっている。
宇野は朗々と話を続けた。
「商品の概念も変化しています。以前は形あるものだけが商品取引の対象でした。でも今はどうです。ネットが発達した今『情報』という形ないものが取引の対象になるなんて、昔は考えられなかったじゃないですか」
「まあねえ」
「私らは昔人間だから良く分らないけど、確かに世の中は随分と変わったよ」
「その通りです、世界とは刻々と形を変えています。考え方だってそうだし、家族の形態や男女の意識だって変わっていくでしょう……ああ」
喪服姿の若い女性が、こちらに向けてやってくるのが見えた。
信江の親族ではなさそうだった。
宇野は40代。それに対して女性は鈴音と同じくらいだった。
もしかして彼女が宇野の妻で、高之の継母だろうかと思った淑子だが、その通りだった。
「妻の裕香です」
宇野に促されて、裕香は淑子たちに頭を下げて挨拶したが、それは挨拶という形を模倣した、頭を下げる動作と音声だった。
顔立ちは綺麗だが、生命力や覇気が抜け落ちている虚ろさに、淑子の記憶は誰かの面影と重なり、違う女の顔と名前が引きずり出る。
淑子は裕香の顔を見つめた。
阿川千鶴子、その名前が蘇る。
裕香と千鶴子の顔そのものは違う。
それでも表情が同じ、まとっている空気感が似ていた。
妻を紹介した後、宇野は頭を下げた。
「失礼、ちょっと今から用事があるんです」
話を中断された白石と久代が、お預けを食らった犬の顔になった。
その表情に向けて、笑顔で会釈すると宇野は妻と連れだって行ってしまった。
「なあ、久代さん。宇野さんの言っている事が理解出来たか?」
「いや、ちょっと分かりにくいけどな。それでも世の中は変わっていくという事だけはその通りだね。なあ、雪村さん」
久代が淑子に話を振った。
「お宅のはねっ返りの嫁さんなんか、その最たるものだよねえ。あれが今の男女意識っちゅうか、家族のあり方かね」
「……」
「そうそう、あれが息子の嫁なら離縁させますよ。仕事を辞めて夫に付いていこうとせず、平気で単身赴任させる嫁なんて、私らの老後の面倒なんか、見てもらえるかどうか分かりゃしない。しかもあんた、理由が仕事? キャリア? そんなもん、夫と天秤にかけるほど大事なの?」
「確かに、女でも管理職になれる時代ですよ。家庭よりキャリアとか、世の中変わっていくのは仕方がないとして、年長者に対する敬意が無いとか生意気だとか、それはいつの世でも許されないですよ。こないだは宇野さんにちゃんと謝ったから、ちょっと私の気も済んだけどさ、今後はもう少し気を付けて、あんた姑として嫁を躾け……」
「ヨメヨメって、雑な言い方はおやめ下さい」
淑子は2人の言葉を叩き落した。
あんぐりと口を開けた2人に淑子が思い出したのは、20年前、母親を亡くした千鶴子に向かって説教をする、善意に酔いしれた2人の顔だった。
「鈴音さんはヨメという生き物じゃありません。私の息子の妻です」
「……」
「そして私の友人です。侮辱は許しません」
さっさと2人を置いて去った。
後ろを振り向く気は、全く起きなかった。
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