第6話 7号棟の住人
年も60を過ぎると、500㏄入りの紙パック牛乳1つ、買い物に加わっただけで荷物が重くなる。
昭和に建った団地は、高さは低いが敷地は広い。
その端っこにある7号棟まで歩くのも、山杉信江にとって最近難義になった。
しかも住んでいるのは4階だ。
買い物袋の持ち手を、手に食い込ませながら階段を昇る。
ようやくたどり着いた家のドアノブには、回覧板が吊り下げられている。
億劫な気分で信江は回覧板を、買い物と一緒に家に持ち込んだ。
買い物の中身を冷蔵庫にしまい込んでから回覧板を読むが、今の自分の生活には関係のない事ばかりだった。
もう子供は3人とも独立して家を出て行ったので、この校区の小学校の校長の談話など読む気もしないし必要も無い。
オレオレ詐欺についての警鐘なんて、テレビやニュースでも散々やっている。
回覧板の情報なんか、何を今さらだ。
そして、もうすぐ夏が来るから、熱中症に注意、その予防という保健所からのお知らせ。
ざっと流し見て信江は回覧板の隅にハンコを押した。
次の人に回さなければならない。
「面倒臭いわね」
信江は呟いた。
この団地の回覧板は回ってくる頻度が多い。内容は大したことも無いくせに、1週間に2度3度は必ず回って来る。
大した情報があるとすれば、たまに載っている団地住民の訃報くらいのものだ。
次の家と言っても、団地なので上の階か隣の家に回せばいいが、それでもそのちょっとした手間が億劫だ。
かといって、回覧板を止めてしまうのはとんでもなかった。
以前、回覧板を回すのが面倒くさいと言って、回ってくる回覧板を他家に回さずに、家に溜め込んだ住人がいた。
それが自治会の役員に知られて集会所に呼び出され、数人に取り囲まれて1時間以上にわたる厳重注意を受けたという。
「回ってくるものはちゃんと回す、それが決まりなんだから守るのは当たり前です。あなたは当たり前の事が出来ないんですか」
それでも、回覧板が面倒という声もちらほらあった。今はネットやSNSで情報を手に入れる時流だから、もう回覧板は不要ではという意見もあったが、自治会役員の中心、久代が猛反対した。
「回覧板は、この団地が出来てからずっと続いてきたことです。伝統でもあるんです」
意味が分からないが、その一言で終わった。
つまりは、ルールや流れを変えるのが嫌なのだろうと思う。
ルールを変えたら、自分の存在価値そのものが問われるとでも思っているのだろうか。
この団地自体古く、長く住んでいる人間が多いので、自治会役員も自然老人が多くなる。
年齢なのか元の気質か、それぞれどこか頑固で、自分の考えや価値観に忠実過ぎる人間が多い。
かくいう信江も、20年前自治会役員を務めた。
よくあんな役目をやったものだ。
その当時を思い出した時、記憶の沼に沈めていた女の顔が浮かんだ。
信江は顔をしかめた。
年を取ると、よく昔のことを振り返るようになる。
あの事件から、もう20年経った。
今は噂も風化して、老人ボケやなんだで忘れている住民だって多いだろう。
信江にとっても罪悪感と後味悪さも風化しつつあるが、落ちない染みになっているのは確かだった。
「ああやだやだ。引っ越ししたい」
今でもそう思う。
夫の真一郎は、今日は出張で家を留守にしている。
夫は当時から会社人間で、家にいる事が少なかったから、この家の上の階の住人が自殺しても気にしないでいられたのだ。
当時小学校だった子供3人も、最初は自殺というセンセーショナルな出来事に大騒ぎしていたが、それだけだった。
――首を括ったのは、上の5階の502号室の住人だった。
当時30代の女で名字は『アカワ』だった。その漢字や下の名前を信江はもう忘れたし、思い出したくもない。
年老いた母親と、独身の娘の2人暮らしだった。
身の回りの世話や家事は全て母親がしていたようで、娘は仕事にすらついていなかった。何をしているのか、たまに敷地を散歩しているのを見かけるくらいだった。
元々体が丈夫ではなくて、そのせいで人付き合いが苦手なのだと人づてに聞いた。 その後、母親が心筋梗塞で突然亡くなった。娘は一人残された。
母親以外に身寄りは無く、子供のようにただ泣くだけの役立たずな女に代わって、母親の葬儀を取り仕切ったのは、当時も自治会長を務めていた白石だった。
自分の母の葬儀さえ仕切れない、哀れな娘の将来を団地の人々は噂した。
そして、ついには自治会の役員会議でアカワの事が取り上げられた。
役員たちはそれぞれ彼女の今後を憂慮し、心配した。同じ団地の住民として、年長者として彼女を真っ当な道に導かねばと、それぞれが奮起した。
あの頃、自治会の役員会議は週に1度行われていた。
集会所にアカワを呼びつけ、生活を改めるようにとこんこんと皆で説教し、今後の身の振り方や生活について助言を与えた。
「あんたねえ、もういい年なんだからしっかりしなきゃダメだろ。結婚する相手とかいるの? 仕事はどうするの? 死んだお母さんが泣いてるよ」
「このままじゃ、あなたは駄目になるわよ。人前に出るのが怖い? ダメよそんな弱虫、貴女はねえ、もう立派な大人なんですよ。周りを見なさい、貴女みたいに何もせずにじっとしている人なんていませんよ。外に出て働きなさい」
信江にとってアカワは同情するではなくて、苛立たしい相手だった。
無力な子供は見ていて可哀そうだが、無力な30女など歯がゆいだけだ。
当時、信江は子供3人の世話に家事をたった1人で担っていた。
おまけに自治会の役員を務め、地域活動まで参加させられていたのだ。
自分だけに使える時間は睡眠時間だけ。
趣味すら持てない忙しさで、家でゆっくりくつろぐことも出来やしなかった。
そんな信江にとって、家に引きこもっているだけのアカワなんて、贅沢で羨ましく、許せない存在だった。
きっと母親の財産のおかげで外に出る必要もなく生活が出来て、家で好きな事をしているに違いない。
手のかかる子供もなく、時間を自由に使える相手への嫉妬もあって、アカワに対して信江は激しく当たった。
「コワいコワいって、何がコワいのよ。甘えているだけでしょ。こっちはね、あなたのために忙しい時間を割いて、こうやってみんなで集まっているんだからね」
役員たちは彼女の日常を詮索し、怠け者だとあげつらい、仕事を探しているのかを探り、親類や知り合いをつてに持って来た縁談を彼女に勧めて、その度に嫌がるアカワに口々に説教した。
アカワが役員会議の呼び出しに応じなくなると、何度も電話をした。
アカワが電話に出なくなると、当時の自治会長の白石と副会長の久代は特に怒り狂った。
独りでは何も出来ない半人前のくせに、自分たちのような世の中の善意を無視する行為に出るとはけしからんと、家に毎日押しかけてチャイムを鳴らし、面会を求めた。
「アンタのため」「年長者の義務」それが当時の役員たちの決まり文句で口癖だったが、今の信江には違うものが見えている。
あんたのためだという、彼らの善意は多分本当だった。
悪意はないに違いない。
だが善意の底にあるのは、自分が相手に『言いたいから』言う欲求だ。
説教したいからするのだ。
それが結果的に感謝されて良しとなるか、押し売りになるかは、相手の受け取り方次第だ。それを相手に「感謝しろ」と強制するから、生臭い。
『たった一人のお母さんを亡くしたんですよ。今は何も言わず、彼女をそっとしてあげたらどうですか』
そういって役員たちを諫めたのはただ1人、4号棟の雪村淑子だった。
淑子はアカワと同じ年齢で、しかも少し前に夫を病で亡くしていた。
アカワと同じ遺された境遇の言葉に重みはあったが、淑子は当時小学生の息子1人を持つシングルマザーだった。
専業主婦だった淑子が、息子を育てるために就職して外に出て行く姿は、逆にアカワとの差を皆に見せつけていた。
――そして、アカワは首を吊った。
アカワが自宅で首を吊っているのを発見したのは、信江と自治会長の白石と、そして久代、淑子だった。
自治会の役員会議の呼び出しに応じず、家に完全に引きこもってしまったアカワに説教しようと、家まで押しかけた白石と久代。
そしてアカワの下の階に住んでいるというだけで同行を強いられた信江、白石と久代をなだめるために来た淑子の前で、アカワは欄間にかけたロープで首を括って空に浮いていた。
踏み台にしたらしい、木製の椅子が倒れていた。
黒いセーターと白いスカートの不吉な色の組み合わせが、信江の網膜を焼いた。
空に浮いたアカワの姿は、自分の生活に善意という凶器を振り回しながら侵犯してきた者たちへの抗議だった。
縊死という形で行った究極の謝絶、それを目の当たりにした4人は、押し黙ったままで、ずっとそこに立っていた。
白い封筒が、吊下がったアカワの足元にあった。
警察に通報するために、淑子が部屋を飛び出した。
信江もそれに続いた。白石と久代が呆けたまま部屋に残った。
ああやだやだ。
当時を思い出せば、流石に今でも信江は気が滅入る。
あの後、警察からの事情聴取に何度も呼び出され、団地の住民たちには詮索されて、思い出したくない光景を無理矢理頭の中でリピートさせられ、ノイローゼになりかけた。
夜に寝ると、夢の中で何度もアカワが揺れていた。
そのせいで信江は不眠になり、何度もこの場所から引っ越したい。アカワの幻影から逃げたいと夫に訴えたが、同じ時期に夫の転職や姑の老人ホームの入居が重なってしまい、引っ越しは資金的に無理だった。
逃げる事は出来ず、信江はカウセリングにかかり、心療内科へ、そして心の傷を癒すためのグループホームへ通う事で、お陰で今ではこうやって生活出来るようになったが、アカワの死に装束になった、黒いセーターと白いスカートは今でも目に焼き付いている。
そのせいで、信江はいまだに服を着るとき、黒と白の組合せが出来ないでいる。
結局、彼女の死は事件性の無い自殺だった。
遺書は見つからなかったが、母親を亡くした娘が孤独に耐えかねて、母親の後追い自殺をしたのだと処理された。
彼女の葬儀は親戚の手によって行われたらしいが、信江は参列しなかった。団地の誰かは参列したのだろうか。
5階は5つの部屋があったが、アカワの部屋の右隣は気味が悪いと引越しした。
左隣は元々空き家だったが、両隣が空いたおかげで、502号室は幽霊が出ると噂にもなったらしい。
残された2つの部屋、その家族もいつのまにかいなくなった。
そうやって5階は、最近まで住む人間がいない、寒々とした階になっていたが。
「ああ、面倒くさい……」
信江は回覧板を持って部屋を出て、階段を昇った。
先日までは4階にある自分の家が回覧板の終着地点で、外に出るついでに取りまとめ役の家のドアノブに引っかけるだけで良かったものが、この間5階の入居者があったために、わざわざ階段を上がって回覧板を届けなければならなくなった。
「ああ、いやだ」
蘇る嫌な気分をなだめながら、5階の踊り場に出た。
厭な既視感があった。
廊下に足を踏み入れた時、突然奥の部屋から出て来た女がいた。
信江は悲鳴を上げそうになった。
「……っ」
アカワの幻影で、爆発しかけた心臓を押さえた。そんなはずはない、502号室から人が出てくるはずはない。今でも空き家のはずだ。
ああそうだと信江は気が付いた。新入居者は503号室だ。
あの若い女は新しい入居者で、隣から出てきた部屋を見間違えたのだ。
女が信江に気が付いた。
「あ、すみません。今からお出かけのところだったのね」
信江は笑顔を作ったが、女は白けた顔だった。 その態度に嫌な気分になったが、新入居者に対する礼儀として仕方なく信江は続けた。
「下に住んでいる山杉と言います。回覧板をお持ちしましたから……」
「要らない」
女の一言に、信江は言葉に詰まった。
「ええと、宇野さんですよね? 503号室に新しく入られて、自治会にも……」
「その宇野だけど、要らないって言っているのよ」
女は荒んだ目で、差し出された回覧板を押し戻した。
「あんた、持って帰ってよ」
信じられない物言いだった。
初対面で、しかも年長に対する態度ではない。
しかも、こっちは来たくもない場所に、この回覧板を届けるというそれだけのために来てやったのだ。
怒りは口を荒くした。
「要らないって言われても、自治会に入った以上は回覧板が回ってくるのよ! それがルールなの。さっさと読んで、最後の家に持って行って頂戴!」
「……」
「礼儀を知らない人ね、信じられない! 団地のルールが守れないなら、自治会の役員にこの事を言いつけて……」
戦慄が信江の背中を駆け抜けた。
女の肩越しに、502号室のドアが開くのが見えた。
ドアが開き、そして閉じる。
体が震えだす。
何故身体が震えるのか、何に怯えているのか、信江は理由を懸命に探す。
この女に怯えているのか、それとも開いたドア?
突然、吊下がった黒と白のイメージが一気に頭に広がった。
毛穴が一気に開いて凍った。
昼間の太陽の温度が一気に消えた時、信江は恐怖の正体にようやく気が付いた。
さっきまで初対面の女の顔が、自分の知る違う女になっている。
死んだはずの女の顔に、信江の声は凍った。
回覧板を抱きしめて後退した。後じさり、階段へと走る。
白昼の悪夢に悲鳴を上げて、階段へと踏み出した。
背後から肩を突き飛ばされて、足が階段から踏み外れた。
狂ったバランスの中で身をひねりながら、信江は相手を見た。
黒いセーターを着た女が笑っている。
階段を転がり落ちながら、段差で首がねじ折れた。
鼻を折り顔面が潰れた。
床に叩きつけられながら、信江は自分が殺されたことを知った。
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