第5話 宇野清一と自治会

  恵はもうこれで、高之や宇野家と関わることはないと思っていた。

 宇野家の背景も勿論、母親に酷い仕打ちをしておきながら、被害者意識の塊になっている高之にも好感を持てない。

 すすんで友達になりたいともは思わない。


 恵の住んでいる4号棟と宇野家の7号棟は離れているし、道端ですれ違うくらいはあったとしても、宇野家の人間とは縁はないと思っていたが。


「新しく自治会役員を引き受けて下さる、7号棟503号室の宇野さんです」

 高之が暴れてから2週間後の自治会会議にて、宇野が現れたのには驚いた。

 会議テーブルに座っている宇野を見て、公の場で息子の蛮行を謝罪するのかと思った恵だが、役員のメンバー入りとは思わなかった。


 自治会に勧誘したのは自分だが、あの時の小ばかにしたような態度からして、まさか役員を引き受けるとは。


「7号棟の503号室の宇野清一です」

 こうしてみると、声も朗々として見栄えが良い男だ。女性の役員が隣同士で耳打ちし合っているのが聞こえた。

 恵は知らないが「コバヤシアキラ」という映画俳優に似ているらしい。


「まずは、先日息子が4号棟の畑で、住民の方々に大変ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。恥ずかしながら、家庭で色々と諍いがおきまして、それが息子に悪い影響を及ぼしたのは父親の責任です。後でご迷惑をかけた方々の家を回ってお詫びしました」


 恵は鈴音と淑子をチラ見すると、2人とも頷いた。恵は腹を立てた。

 宇野親子は、自分の家に謝罪に来ていない。思えばあの日も、高之は恵のトマトを踏もうとしたことを一言も謝っていない。


「息子の事だけではなく、その少し前にも妻のことでもお騒がせしています。誠に申し訳ありません」


 謝罪対象から外された恵にとって、朗々とした声で謝罪する清一は、効果的な謝罪を演じる舞台俳優だった。


「今後はこの過ちを償う気持ちも合わせて、団地の皆さんの日々のために役員を務めたいと思います。どうぞよろしくお願いします」


 ぱちぱちと拍手が鳴る。

 その拍手に笑顔で応える清一の横で、久代が声を出した。


「さあさ、宇野さんは皆の前でちゃんと畑の事を謝った事だし、じゃあ次は雪村のお嫁さんの番だね」


 は? と鈴音が声を出した。

 久代は薄笑いを浮かべた。


「あんた、皆の前で子供に蹴りを入れるなんてそんな、とんでもない事ですよ。息子さんに暴力を振るったことの話は別です。お父さんにちゃんと謝るべきです」


 恵は絶句した。

 久代の言っている意味が分からない。

 あの時「暴力」を起こしたのは間違いも無く宇野高之だった。鈴音は自分を助けてくれたのだ。蹴りが同じ暴力でも中身が違う。


「違います、鈴音さん、あれは私を……」


 怒りで言葉が続かない恵に向かって、久代は鼻を鳴らしただけだった。


「暴力は暴力ですよ。顔を足蹴りする、そんな暴挙を許せると思いますか?」


 恵を振り払うように、久代がソッポを向いた。

 それ以上受け付けないと言わんばかりだった。

 恵は椅子から立ち上がりかけた。

 なだめるような淑子の手が伸びてきたが、思わず振り払ってしまった。


 自治会に入って、もう一つ見えてきたものがある。それは大人のいい加減さと自己保身だった。

 学校の生徒同士なら他の子や先生の目がある。

 場合によっては我儘も自己中心的な行動も、いじめの対象になるのを恐れて引っ込める。


 でも大人は子供とは違う、社会的地位だの仕事に生活だと色々な事情を抱えているせいで、時と場合によっては許されてしまう。

 そうやっているうちに、こんな久代のような大人がのさばるのだ。


 あの時、畑で立ち会った人たちは鈴音の行動の意味が分かっている。

 それを、この場で見計らったように鈴音を貶めようとする久代が許せなかった。

 鈴音は自分を助けてくれたのだ。

 これを見過ごしたら、自分自身を一生許せない。


 鈴音のポーカーフェイスをどう解釈したか、久代は役員全員に語りかけた。


「皆さん、私はこの団地に20年以上住んできた。その中で様々な人たちがこの団地に住み、出て行った人もいるが、子供に暴力を振るったものは一人もいない。それはこの団地が善良な人々によって、自治会によって平和を保たれているからです」


 恵は淑子を見た。白けた顔だった。


「自治会とは、この団地の平和を守る自治組織です。間違ったことを許してはならない。例えどんな場面であっても、暴力は許せない。謝罪すべきです、そう思いませんか!」


 久代が役員たちに拍手を要求するように手を打つ。

 その音に恵の頭が一気に弾けた。

 今まで抑えていた疑問と苛立ちが、恵の中ではっきりとした啓示となった。

 こんな自治会、無くなった方が良い。


 心の底から確信した。

 本来の自治会の目的は、皆が住みやすい環境を作るためにできたものだ。それなのにこの自治会がやっている事と言えば、住民の噂話とお茶のみ話をしながら、小さな権力を振り回しているだけではないか。


 久代は、勝利の薄笑いを浮かべて鈴音を見ている。


「雪村のお嫁さん、あなたは大人として自分の行動をどうお考えです?」


 恵は、目を疑った。

 鈴音が頭を下げたのだ。


「息子さんに謝罪をお伝えください」


 役員らの視線を浴びながら、鈴音は宇野清一へ静かにそう言った。

 久代の満面の笑みを見た瞬間、この今まで押さえつけていた苛立ちと疑問が、恵の理性を吹き飛ばした。


「何でよ! 鈴音さんは悪くないじゃない!」


 鈴音が目を丸くした。

 淑子が慌てて腕を引っ張ったが、恵の気持ちはおさまらない。


「いや待って下さい」


 緊迫の中に響いた声は、宇野清一だった。


「謝って頂くなんてとんでもない。私も息子と一緒に蹴って欲しいくらいです」


 そして、清一は久代に黙礼した。これで久代のメンツは立った。


「妻の無礼の件については、バッグを頂いてしまい大変申し訳ない。近いうちにお詫びさせて下さい」

「もう良いでしょう」


 会長の白石が、ざわつく空気を制した。


「お互いに遺恨が無いのなら、これで話はお終いにしましょう」

 

 その夜、淑子の家の中でも恵は荒れた。


「何であんなのに謝るんですか! 鈴音さん」


 悲しくて、悔しかった。 

 世の中に不条理があることくらいは、恵だって知っている。

 必ず正義が勝つわけでもなく、道義が必ず守られることもない。

 それでも、自分の目の前で近しい人が、不条理の前に屈する場面は見たくはなかった。


 しかも、鈴音が。

 老獪な役員たちを鼻で笑い、陰口を言われても平然としている鈴音に憧れていた。

 自分のペースを崩さない毒舌は、恵にとって大人の見本だったのに。


「悪くないのにあんな風に、皆の前で謝るって、プライドは傷つかないんですか?」

「……いや、だってさ」


 鈴音は困った顔で、カツオのタタキにたれをつけた。


「あそこであの爺さんと対抗したら、また話が長くなるし」

「それが負ける理由なんですか!」


「今日は取引先で話が長引いて、ランチも適当だったからお腹が空いていて……」

「信じられない!」

「ホントだってば」


 淑子が静かに恵を制した。


「恵ちゃん、良いからご飯食べなさい。せっかく高知から取り寄せたカツオの塩たたきなんだから」

「お義母さん、これ藁の香りがして、ホントに美味しいですね」


「そうでしょ。私、ここのお店のタタキが一番好きでね。これにほら、高知の地酒を合わせるのがまた最高なのよ」

「淑子おばさん! 鈴音さん!」


 子供だからといって誤魔化され、締め出されている気がした。


「バカにしないで!」


 淑子と鈴音が箸を止めた。


「お腹が空いていたからって、そんな馬鹿馬鹿しい理由で謝れるんですか! 自治会の人たちから、鈴音さんが久代さんに負けたって思われたんですよ! 鈴音さんのプライドはどうなっちゃうの? そんなの……」


 ぬっと伸びた人差し指が、恵の額を突いた。

 鈴音の真顔があった。


「プライド、そこは違う」

「……」


「私のプライドは高いのよ。あんなジジイに頭下げたくらいで、傷つくもんですか。そもそも、私にとってプライドとか自尊心というのは、己の信条や生き方って意味なのよ。誰にどう見られたとか、負けた負けないってもんじゃないの。そこんとこ、間違えちゃ駄目よ」


 鈴音の手が、ぐしゃぐしゃと恵の髪をかき混ぜる。

 その乱暴な親愛が、恵の怒りの熱を冷ました。

 負けたと思っていない。

 いや、そもそも鈴音は久代と勝負すらしていなかったのか。


「私にとってはね、あの爺さんのメンツなんかより晩御飯の方が大事よ。つか、日本語で謝ってやればご満足の、傲慢野郎のお安いメンツなんかどうでもいい」


「その通りだけど、言葉が悪いわよ。鈴音さん」


 淑子は、黄瀬戸のぐい飲みに冷酒を注ぎながら言った。


「でもまあ、どうせあっちが先に死ぬんだし、少しいい気にさせておきなさい」


 酔っているのか、淑子が珍しく本音の毒を吐いた。


           ※


 恵にとって、宇野清一は息子の高之を荒れさせた張本人で、久代をつけ上がらせ、鈴音に謝罪をさせた元凶だった。

 それでも、宇野清一が自治会でよく働く男なのは認めるしかなかった。


 特に皆が有難がったのは、平日の昼間であっても用事をこなせる、清一のフットワークの軽さだった。

 自治会の役目の1つ、地域活動は平日の昼間が多い。

 例えば小学校生徒の登下校の見守り活動は平日の15時から16時だ。


 自治会も手伝いに入る学校行事の準備の打ち合わせや、町内の防災訓練の準備に消防署へ行くのも平日が多い。

 その時間帯だと、現役の男性が地域活動に参加するのは難しい。

 だが、清一は活動に積極的だった。平日の昼間も活動に飛び回っている。


「すまないけど、宇野さん、南園和地区にコミュニティセンターが出来るそうで、自治体向けに市からの説明会があるんよ。ちょっと出てもらえるかな」

「構いませんよ。13日の火曜日午後ですね」


 あちこちから声をかけられて、自治会のために色々と引き受けてくれる清一は、古参の役員から重宝され、自治会の要になりつつあった。

 宇野清一は何の仕事をしているのか、恵には不思議だ。

 少なくとも父と同じ会社員ではない。しかし自営業にしても、時間の融通が利き過ぎている。


「そういえば、事業に失敗したとか言っていたっけ」


 高之に聞かされた話を思い出した。事業を失敗して高級マンションからこの団地に住むことになったのだ。

 そうなると今は無職の可能性もあるが、清一には無職特有の卑屈さはなかった。服装は身だしなみの良いカジュアルで、明るく人当たりが良い。


 いつだったか、後妻と鈴音の間で慌てふためいていた男と同一人物と思えない。


「忙しいお父さんの代理で自治会に出ているの? 香坂さんは親孝行だね」


 誰に聞かされたのか、香坂家の事情を知っていた。

 ウチの息子は絶対にしてくれないなあ、お父さんが羨ましいなと清一ににっこりと微笑まれた時、ついうっかり「あ、イケメン」と思ってしまった。


 現金なことに、女癖が悪いという話も「息子の謝罪がなかった」という憤りも忘れかけた。


「なんかこう、あの息子から聞いた話と人物像が違いますよね。今は何をしているんだろう」


 初対面にあった自治会への皮肉っぽさも消え、女癖が悪く、そのせいで事業に失敗したというダーティなイメージも見当たらない。

 むしろあんなことさえなければ、清一に対する好感度は非常に高かっただろう。


「投資だか何か、そんな仕事をされているそうよ」


 週末の晩、恵は淑子の家にいた。

 お父さんが遅いなら晩御飯を食べに来いと誘われて、今ここにいる。


「……何です、そのふわっとした仕事内容は」


 鈴音もいた。

 釣り好きの同僚に小鯵を25匹もらってしまい、南蛮漬けにしたのでもらって欲しいとタッパーを持って淑子の家にやって来て、そのまま夕食を勧められた。


「さあ。そこまで深くは聞かなかったけどね。このあいだ道端でお会いしたんだけど、腕時計はカルティエだし、靴はプラダの新作スニーカーだったわ」

「へえ、そりゃまた随分とセレブじゃないですか。もう生活は心配ないのかな」


 鈴音があいづちを打つ。

 高校生で小遣いをもらっている身として、恵はブランドには疎いが、鈴音がそう言うのならきっと高級品だろう。

 だが、淑子の顔がわずかにくもった。


「そうなら良いけど……高之君も高校卒業したら、留学したいって目標を持てたことだし」


 部屋の空気が帯電した。


「……お義母さん」

「何よ」


「まさかあのプチ通り魔と、仲良くなったんですか」

「別に仲良しとかそんなじゃないわよ。道端で会ったから、プリンを作るから食べにおいでって誘っただけ。その時に留学の事とか聞いたんだけど……」


 淑子が息を吐いた。


「まあ良いわ、あの子も落ち着いたみたいだし、どうであれお父さんがお仕事見つけて、しかもああやって自治会を頑張って下さっているのは良い事だわ」

「……お義母さん」


「何よ」

「お義母さんは、私と恵ちゃんだけに優しければそれで良いんです! 他の人間にそんなことしてやる必要なし!」


「金髪の小僧ですか、あなたは。第一、私も赤毛じゃないし」


 横で嫁姑のやり取りを聞きながら、恵はむっつりとした気分で、酸味加減が絶妙な鈴音の南蛮漬けを食べた。

 淑子は優しい。

 きっとあの日から、高之の事を気にかけていたのだろう。


 そうでもなければおやつを食べに来いなんて誘いやしない。

 この部屋で淑子の作ったプリンを食べながら、二人で話し込んでいる場面が恵の頭をよぎった。大事なものを取られた気分になる。

 淑子が誰を自分の家に招き入れるのか、それは自由だ。


 自分の苛立ちも子供の独占欲で、ただの我がままに過ぎない。

 そうとは分かっていても、恵には不愉快だった。

 恵にとって淑子おばさんの部屋は、小学校の頃からの聖域だった。

 そこに図々しく入ってくる高之に、良い感情を持てるはずはない。


 あの子、私には畑でのこと謝ってくれていませんよと言ってやりたい。

 しかしそれも器が小さい行動だと、恵は不愉快さを押し殺した。

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