第4話 宇野の息子と出会う
日曜日の昼前、恵は苗とスコップを持ち、自分の家の家庭菜園に下りた。
家庭菜園は、団地の住民一戸ごとに割り当てられた畳2畳ほどのスペースであり、今日も恵のほかに土いじりを楽しんでいる住民の姿があった。
恵の畑の隣は淑子のスペースで、今はトマトとニラを植えている。
黄色いトマトの花が咲いていた。
顔見知りの老女が、声をかけてきた。
「こんにちは、恵ちゃん」
「こんにちは。良いお天気ですね」
「ホント、園芸日和ね」
彼女も土を掘り返して、野菜の苗を植えている。
他にも土いじりしている住民に軽く挨拶をして、恵は自分のプチトマトに水をやり、少し離して、コンパニオンプランツとしてレモンバームの苗を植える。
コンパニオンプランツとは、一緒に育てると土壌や病気予防、虫を寄せ付けないなど、お互いに良い影響を与えあう取り合わせだった。
花の育て方を教えてくれたのは、母だった。
恵の母は昔から身体が弱く、子供だった恵から見ても、この世に仮住まいしているような女性だった。
――お母さん、お父さんは仕事を頑張っているよ。
スコップで土を掘りながら、恵は母に語りかける。
今朝、父娘でフレンチトーストを作って食べた。
――お父さんの仲間の奥さんが、病気になったんだって。奥さんが大変なのに、仕事で休めないその人のために、会社の仕組みを変えなきゃってお父さんは決心したんだって。
――お父さんはお母さんの事を、ずっと想っていたんだよ。
それは会社の福利厚生だけではなく、抜けた人手をどうカバーするか、人員や仕事の割り振り、仕事の進め方全体に関わる問題だった。
父の会社の制度に育児休暇はあるが、看護休暇はまだ整備されていなかった。
恵の母が入院した時、仕事で満足に見舞いにいけず、傍にいる時間が少なかったことに、今でも父はずっと後悔していたのだ。
そして今回の仲間の事をきっかけに、恵の父は社員の家族が病気になった場合の看護休暇について、会社の休暇制度の改革に立ち上がった。
従業員組合に話を訴え、会社のSNSで他の社員に呼びかけて委員会を立ち上げた。
そして今、組合や人事部と協議を重ねている。
会社制度の改革は人事部だけではなく、総務部や企画部など色々な部署と絡む。
色々な人と制度の改革について話し合い、意見を交わしながらも本来の仕事をこなし、会議や出張と文字通り父は飛び回っている。
今日、父は休日出勤だった。フレンチトーストを食べて家を出た。
――お父さん、仕事が忙しくて帰りも遅いし、休みも家にいる事少ないけど、私は寂しくないよ。だってお父さんがこんなに頑張っているのはお母さんのためだもん。
毎日、必ず父から恵にメールが届く。
長文の時もあれば、短い時もある。
仕事の事や、今の自分が何を考えているか、父の心情や生活が綴られている。
恵は、ポケットから携帯を取り出して、さっき着信した父からのメールを読んだ。
『今会社だ。ちょっと休憩。朝に一緒に食べたフレンチトーストは美味かった。来週の日曜こそ絶対に休むぞ。昼寝しかしなくて、お前に掃除の邪魔だって怒られるかもしれないから、休みの日はお父さんが朝ごはんを作るよ』
『そして、近いうちに一緒にお母さんの墓参りに行こう』
寂しくないよ。恵は母に話しかける。
寂しいのは、物理的な距離や顔を合わせて会話をする頻度の問題じゃない。
相手の気持ちが見えない辛さだ。
お互いの関係が曇っていくのが辛い。
相手の心から取り残されている不安が寂しさを生む。
だけど、今の恵には父の姿が見えていた。
もしかしたら、母が生きていた頃より父という人間を知ったかもしれない。
――淑子おばさんもいるよ。ゴローお兄ちゃんは単身赴任だけど、でも……
「めっぐむちゃん」
「きゃっ」
白いシャツにデニム姿の鈴音が後ろに立っていた。
タイミングが良すぎて驚いた。
「お、恵ちゃんが育てているのはミニトマトか。今植えているその葉っぱは何?」
「レモンバーム。ハーブティにしても美味しいです」
いつもながら、鈴音の美貌は化粧品のモデル並みである。
恵は吾郎の結婚相手だと、淑子から鈴音を紹介された日の事を思い出す。
自分と仲良しと思っていた吾郎が鈴音と結婚すると聞いた時、ショックだった。
吾郎も年齢的には結婚してもおかしくない、十分現実的ではあったけれど、恋した相手とはいつも「いい人」で終わってしまう、そんな失恋話もよく知っていた。
見た目はジャイアンだし、善良だけどモテるタイプじゃない。
でもそんな吾郎の良さを知るのは自分だけだと心ひそかに思っていたが、それはうぬぼれと、お兄ちゃんを慕う妹の淡い恋心があったかもしれない。
そんな吾郎が、こんな綺麗な人と結婚してしまう。
もう吾郎は自分のことなんか忘れてしまうに違いない。
淑子おばさんと吾郎お兄ちゃんの間にいた自分の存在が消えてしまって、淑子と吾郎の関心を鈴音に奪われてしまうと、子供じみた不安が恵の中に芽生えたことがあったが。
「私も土いじりやってみるかと思ってさ、お義母さんの畑を偵察に来たんだわ。この黄色い花ってトマト? へえ、可愛いな」
気が付けば、さっきまで聞こえていたお喋りの声が止んでいた。
その中心にいる自治会の副会長、久代はあからさまに鈴音を睨みつけている。
会議で爆弾発言を投下した以来、鈴音は自治会役員たちに色眼鏡で見られているが、 その中で、久代は特に鈴音を嫌っている。
それは久代の持つ時代遅れの倫理観、女性への差別意識からくるものであり、
鈴音を礼儀知らずな若い女の典型と決めつけたものだった。
嫁の躾がなっていない、しつけ直せと淑子に忠告してきたこともある。
他の住民は古参の久代を気にしながら、鈴音を遠巻きに見つめている。
それは久代に同調した、生意気な女に対する反発や、まだ来て間もない新参者に対する好奇心もあるが、若さと美貌に対する嫉妬や羨望もあった。
しかし鈴音は、いつもその辺りを全く無頓着だ。
今も呑気に淑子のトマトを眺めている。
「見た目は近寄りがたい、クールビューティっていうのもあるのかな」
吾郎との馴れ初めが「一目惚れ」と聞いて、恵はジャイアン似の吾郎が、美女の鈴音に一目ぼれしたのだと思ったが、逆と知って驚いた。
道端で落とした鈴音の携帯を吾郎が拾い、気が付かずに歩き去る鈴音の背中を追いかけたのが二人の出会い、馴れ初めらしいが。
「ゴローさんに出会わせてくれたこの携帯、もう絶対に機種変更しない!」
それを鈴音の口から聞いた瞬間、恵はこの女性に吾郎を譲ろうと思った。
ちなみに淑子の弁によれば、吾郎から鈴音を引き合わされた時『息子にこんな美人、もしや結婚詐欺師ではないか』そんな疑惑が浮かんだという。
「恵ちゃん、サツマイモなんてどう思う?」
「良いですね、苗を植えるなら今の時期がジャストですよ」
鈴音と話をする恵の目の端に、少年が現れる。
あの無表情な7号棟の子だ。
こんな青空と明るい太陽の元で、それに不釣り合いな表情をしていた。
何で四号棟の畑にいるのだろう。
最初に見た時も無表情だったが、今の顔はそれ以上にくすみ、静かに爆弾を抱え込んでいる危うさがある。
「何をするの!」
花に水をやっていた老女が悲鳴を上げた。
少年が突然、咲いていた花を土ごと蹴り上げたのだ。
理由も無い暴力に、恵は目を疑った。
花は土と花びらをまき散らして空を飛んだ。
それだけではなく、少年は他の畑に植えられた苗を足で踏みにじり、野菜を折って叩きつける。あちこちから悲鳴が上がった。
少年と目が合った久代が、慌てて畑から逃げ出そうとして転んだ。
「やめて!」
少年から自分の畑を守ろうと、前に立ち塞がった恵は突き飛ばされた。
トマトが踏まれようとしている。止めてと叫んだ。
上から鋭い声が聞こえた時だった。
鈴音が脚を跳ね上げた。
少年の額に回し蹴りを叩き込む。
まともに鈴音の蹴りを喰らい、少年は吹っ飛んだ。
倒れて動かなくなった相手に目もくれず、鈴音は尻もちをついた恵を引き上げた。
「恵ちゃん、大丈夫?」
「……は、はい」
「よし、それなら安心。じゃあコイツにとどめ」
倒れた少年の襟元を掴み、顔めがけて拳を固める鈴音。
「ちょ、ちょっと待って鈴音さん!」
「鈴音さん、そこまで!」
走ってやって来た淑子を見た途端、恵はどっと安心した。
「だってお義母さん『やれ! 鈴音!』って天のお告げが聞こえたんです」
「それはベランダにいた私の声だけど、とどめを刺せとまでは言っていません」
淑子は水まき用のホースを地面から取り上げて、蛇口をひねった。
勢いよく吹き出したホースの水が、気絶している少年の顔に勢いよくぶちまけられ、飛沫が飛ぶ。
やがて気が付いたらしい、少年が水から顔を背け、げほげほと咳き込んだが、その首元を鈴音が掴んで引き上げた。
「ほら立て、このプチ通り魔」
「ちょっと待て、子供に乱暴はやめなさい!」
制止した声は久代だった。
どかどかと足を踏み鳴らしながら鈴音に詰め寄った。
「あんた、こんな子供を蹴り飛ばすなんて何を考えているんだ!」
恵は本気で腹を立てた。
自分は逃げようとしたくせに、今さら的外れな正義感で鈴音を怒鳴りつけるなんて筋違いだ。
この少年から自分を助けてくれたのは鈴音だ。
恩人のために言い返そうと、恵は足を踏み出した。
それを押さえた手は、淑子のものだった。
鈴音が白けた声を放り投げた。
「久代さん、最初にコイツの一番近くにいたよね。何で止めなかったんです?」
「え?」
「何もせずに、真っ先に逃げようとしましたね」
鈴音が鼻越しに久代を見やった。
「こいつが倒されて、危険が無くなったと知るや、暴力反対の旗をふりふりご登場ですか」
久代が青ざめた。
この暴言女を一緒に糾弾してくれる仲間を求め、周囲を見回したが、他の住民は何も言わない。
少年は、座り込んだまま、空っぽの表情で地面を見つめている。
恵はこれによく似た表情を思い出す。
それは母が亡くなった時の父の顔だった。
母の死によって、不安や希望も根こそぎ奪われた父の顔だ。
だが父と違い、彼の顔には透明さはなかった。
父にとって、死は母の病の苦しみからの解放でもあり、一種の区切りでもあった。
その諦観は透明さになって表れていたが、この少年にはそれがない。
「……あの」
恵は少年へと声を押し出した。
だいじょうぶ? そう聞きかけた時、淑子の声が空気を破った。
「はい、これまで」
淑子がぐるりと周囲を見回した。
「恵ちゃんに鈴音さん、お昼食べにいらっしゃい。今日は残り物カレーです……ほら、そこのあんたも来なさい。説教してやる」
顔を俯かせ、動かない少年の肩がびくりと痙攣する。
「え~」鈴音が抗議の声を上げたが、淑子は言い放った。
「顔色は悪いわ薄汚れているわ、そんな子供を放っておけるはずないでしょう」
淑子の「残り物カレー」とは、前日の残り物という意味のカレーではなく、正確に言えば『食材の残りを全て入れて作ったカレー』である。
ひと月に一度、冷蔵庫の古い食材整理を兼ねているので、厚揚げやちくわ、そしてウィンナーが一緒に入っている事もある。
そして、残り僅かの調味料を隠し味に使うカレーは、その時によって微妙に味が違う。
「……」
恵は、カレーを食べながら鈴音の顔をそっと見た。案の定、不貞腐れている。
淑子は平気な顔でカレーを食べている。
そして、少年は凄まじい勢いでカレーを食べていた。
食べるというより、口に流し込んでいた。すでに3杯目のカレーの皿が空になりつつある。
「……その時の冷蔵庫の中身によって味が変わるこのカレーは、いわば一期一会なわけよ」
少年に向ける鈴音の目には、怨嗟すらある。
「まあ確かに、このハンペンとイワシのつみれ入りカレーが、次回も食べられるとは限らないですけど」
淑子が作ってくれるカレーは、恵にとって子供の頃からの大好物だった。
自分の手で何度かチャレンジしてみたが、淑子の作るカレーのように、味に奥行きが出せない。
何を入れても、どう作っても普通のカレーになる。
「今回はおでんの残りも入れたのよ。練り物の食感とカレーの味はなかなか合うわね」
「お義母さん、ところでお代わりは……?」
「これでおしまい。あ、こら鈴音さん、子供に乱暴はおやめなさい」
――少年は、やっぱり7号棟の宇野の息子……高之だった。
カレーの食べっぷりから、高之の飢餓状態を見て取った淑子が、5枚切り食パンに卵とハムを挟んでサンドイッチを作って出したが、それも完食した。
数日食べていなかったと聞いて、3人で顔を見合わせてしまった。
「家でご飯は?」
「……」
高之は答えない。あの日の玄関から家庭の空気感は感じていたが、ある程度自立した年齢だ。ネグレストが深刻になる子供ではない。
だが、畑での猛々しい振る舞いは正に怒りだった。
高之の背中にある重くて真っ黒なものを恵は感じる。
能天気な同級生とは違い過ぎた。
「……ご両親とケンカでもしたの?」
一番考えられる理由を恵は聞いた。
高之は顔を歪めた。
「ご両親なんて言われるような、そんな立派な存在じゃねえよ。あんな奴ら」
吐き捨てる言葉に、鈴音が呆れた声を出した。
「反抗期を上乗せにしては、御大層な態度ね。よくあるパターンとしては、あのエキセントリックで若いお母さんとの不和かしらね」
「母親じゃねえよ、あのオンナはオヤジの浮気相手だよ」
……悪い事を聞いたと恵は狼狽した。
浮気相手と父親が再婚。
実母を奪われた子供が幸せであるはずはない。
高之を見ているだけでも、情愛の欠片も無い環境が透けて見える。
高之の実の母親は、父親と離婚後に別に住んでいるという。
台湾製の青磁の煎茶椀を手に、淑子が天井を見上げた。
「私が知る限りじゃ父親の浮気が理由で家庭が破綻の場合、お母さんが親権を取るケースが多いけど、それなのに高之君はご両親の離婚後、お父さんに付いていったの?」
「その母親に……捨てられたんだよ」
高之が声を震わせた。
感情を必死で押さえつけている顔を見て、これが畑の蛮行の理由だと恵は直感したが、不思議だった。
夫の浮気によって離婚した母親が、息子と一緒に暮らすことを拒否することが、普通にあるのかどうか。
「……俺が、オヤジとあの女との浮気の手伝いをしたから」
「え?」
「オヤジがあの女と会う時に、小遣いやるから口裏を合わせて欲しいと頼んできた。俺はその話に乗った。一緒にゴルフに行くとか言って、休みの日にオヤジにアリバイを作ってやったんだ。オヤジの浮気がバレた時、その事も一緒にお袋にバレた。お袋はそれで家を出て行ったんだ。慰謝料も俺も要らないって」
「そりゃあんた、捨てられても仕方が無いわ」
しれっと鈴音の追い打ちに、高之が怒鳴った。
「だって、口裏合わせるだけで一回に2万も3万にもなったんだ! 悪いことだって分かっていても、オヤジはあっけらかんとしているし、お袋はオヤジの女遊びはもう諦めていたし、もう今更どうなりはしないって思っていたんだよ!」
「ああ、そうだろうね」
鈴音は言った。
「オヤジの女遊びだけが問題だったならね」
「アンタに言われなくても、そうだよ分かってるよ!」
高之の声は悲鳴だった。
「お袋は俺の事を裏切りものだって言ったんだ! 最後に出て行く時、お袋は俺にサヨナラも何も言わなかったんだよ!」
聞いているだけで咽喉が乾いてしまった。
恵は煎茶を飲んだ。
今の高之に、その時のうろたえぶりが目に見えるようだった。
多分高之は女遊びの父親と、諦観している母親を元々軽視していたのだろう。
父親は家庭を大事にしていなかった。
母もそれを黙認していた。
だから息子も家族の形を軽視していた。
だから金のために平気で母親に噓をつけた。
ヒビは入っていても、かろうじて形を保っていた家族に、高之が最後の一撃を加えたのだ。
高之は父と2人一緒になって、母親を絶望させ家を壊した。
恵は、高之の母親に同情した。
母親にとって夫婦と息子は違う。
産んだ我が子は自分の分身だったはずだ。
分身である我が子の嘘を知った時、その孤独は例えようもなかっただろう。
「お袋がいなくなって、あの女が来てから、オヤジの仕事も何もかもが滅茶苦茶になった」
宇野の会社の経理面と人事は、高之の母親が担当していた。しかし、離婚と同時に母親は当然会社を去った。
まさか新しい妻に、そのポストが勤まるはずがない。他の人間をその役目に据えたが、前任者に力が及ばず穴が開き始めた。
経理と人事は事業の柱の重要部分であるが、高之の母親というベテランが突然去ったのは痛手だった。
引継ぎも完全ではなく、あちこちでトラブルが出て来たという。
それを押さえるべき経営者、宇野の力も不足していた。
「オヤジは経営者としては山師みたいなタイプで、慎重派のお袋が片腕になって、仕事を上手くカバーしていたんだ。でもお袋がいなくなってから、オヤジは好き勝手に怪しい投資とか変な事を始めて、それで行き詰まったら失敗を取り返すためにまた妙な事を始める。もう破滅に向かってまっしぐらだよ。おかげで店も何も、全部人手に渡った」
「浮気相手は、その時お父さんを助けなかったの?」
「何もしないよ」
笑顔とは言えない顔で、高之が笑った。
「脳みその中にピンクのワラを詰め込んだだけのバカ女。自分がいかにキラキラして見えるか、インスタにいいねが付くか、承認欲求の塊で、オヤジの金を使って買い物するかパーティで遊ぶだけ。デザイナーとかブランドとか限定とか、服や派手なバッグに宝石の山を作って、毎晩1本15万のワイン飲んで『ワタシ、超幸せなお姫さま、だからあんたがいても、パパにやさしくしてあげられるの、ココロによゆうってだいじよねえ』っていう女が、役に立つと思うか?」
しかし、その変な服もバッグも宝石も、借金返済のために高之の父親に売り払われた。
それを聞いた鈴音の眉毛がかすかに動いた。
恵も思い出した。
あの水色のバッグ。
「家賃滞納でタワーマンションから退去通告が来たとき、あの女は狂ったように泣き喚いて、部屋の中のものを手あたり壊しまくった。マンション出る最後の日にはエントランスの柱にしがみついて『イヤだあああ』って大理石の柱に汚ねえ鼻水や涙すりこんで、みっともないったらありゃしねえよ。あの日にロビーにいた奴らの憐みの目は忘れられねえ」
高之は鼻をすすり上げた。
「あんなオヤジと女と一緒に、あの古い陰気な部屋にいるだけで、肺にカビが生えて腐っちまう。オヤジはあれ以来、何だかやばくなっちまったよ『もう一度成功する、人生のリベンジだ』とか言って、変なセミナーに通って金をつぎ込んで、一体何を買っているのか毎日のように段ボールが家に届いて、家はハコだらけだ。あの女は仕事に出ているみたいだけど、掃除もしないしメシはスーパーの弁当ばかりで、もういやでいやで、たまらなくなって、だから俺は……」
高之の目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「このままじゃ、金も無いから学校も退学だし将来も滅茶苦茶だ。助けてほしくて、お袋の実家に行った。お袋のメアドは変更されていて、新しいアドレスは知らないし着信も拒否されているから、ばあちゃんに会って、お袋の連絡先を聞こうと思った。それなのに……ばあちゃんが……」
失望を再び思い出したのか、がっくりと肩が落ちた。
「おふくろは……がいこくに、いったって……フランスのともだちに誘われて……パリでともだちのビストロを手伝うからって……」
祖母に助けを乞うたが、年金暮らしで学費の経済的援助も無理だし、高之と一緒に生活するゆとりもないと言われたらしい。
「もう、真っ暗だよ。これからもあんな奴らと、こんな古臭い団地のあんな古い部屋で顔を突き合わせて暮らすなんて、もう耐えきれねえ……」
失意とショックで、何日か家に帰らず街中を彷徨っていた。そうしている内に金も無くなり、行くあても無くて家に帰ってくるしかなかった。
真っすぐに自宅に戻る気が起きず、ふらふらと団地の敷地を歩いていたら、4号棟の家庭菜園のスペースに立っていた。
明るい日差しの中で、住民たちが呑気に土いじりをしている平和な光景があった。
その光景を見ている内に、世界から爪はじきにされた孤独感と、どうしようもない狂暴な衝動が沸き上がったという。
「なんだよてめえらって……こんなクソみたいな場所で、楽しそうにしやがってって、物凄く腹が立って、煮えくり返って、何もかもぶち壊したくなった……」
古い団地であるのは事実だし、立派なマンションから築50年の団地の5階に移るのは確かに本人的には都落ちだろうけれど、実際にそこに住んでいる恵には面白くはない。
鈴音がふーんと言った。
「それがプチ通り魔の原因か。ま、つまり今のアンタは失うものが無く、只今人生に絶賛絶望中の「無敵の人」なわけねえ」
「うるせえよ! バカにす……っ」
鈴音の手が伸びた。その手に首元を掴まれ、高之の罵声が止まった。
聞け、このどあほうと、鈴音は至近距離で高之を威圧した。
「どんな経緯であれ母親に捨てられて、オヤジもぼんくらで周囲に頼る人間がいなくて、お先真っ暗で泣きたい気分なのは同情してやる。でもなあ、腹いせに無関係な人間相手に暴れた段階で、今のアンタは立派なクソ野郎なのよ」
鈴音のボキャブラリーの品はとにかく、言い分は全くだった。
この高之は自分が育てたトマトを踏もうとしたのだ。それに母を亡くした恵にとって、心情は高之の母贔屓になる。
高之が自分のことで手一杯のことは分かるが、それでも腹立たしい。
恵はつい問い詰めていた。
「それにさっきから聞いていると、自分の事ばっかりでお母さんの気持ちはどうよ。お祖母ちゃんを経由してでも、お母さんにちゃんと謝ったの?」
「こんな状態で、謝るもなにも考えられるはずねえだろ!」
あああくそと、高之は怒鳴った。
「ああどうせ俺がバカなんだろ! エラそうなこと言いやがって!……ぐぇえっ」
鈴音の手が、思い切り高之の首元を掴み上げた。
その鈴音の憤怒の凄まじさに、横の恵まで後退しかけた。
「私にはね、アンタにえらそうに言う権利があるのよ……こないだ私がフリマアプリ使って手に入れたバッグが、こともあろうにあんたのオヤジが売り払った継母のバッグでね。それを偶然知られて、私は朝からあんたの継母にドロボウ呼ばわりされて大立ち回りさせられて会社も遅刻、ここにいる恵ちゃんまで巻き込んじゃったのよ」
「え、え……」
「あのバッグ、もう使う気失くしたわ。あんた、息子としてどうしてくれるのよ」
赤くなり、青くなる高之を救ったのは淑子だった。
「鈴音さん、それこそ八つ当たりよ。放してあげなさい。それにバッグを使う気が無くなったなら、いっそ元の持ち主にお返ししたら?」
思い切り口を曲げた鈴音の意思表示に、淑子はため息をついた。
そして一旦部屋を出て、すぐに隣の部屋からまた戻ってきた。
手には箱があった。
「ほら、何度か使ったけど、鈴音さんにこのバッグをあげる。これを最初に気に入って色違いを買ったんでしょ?」
争いの元になったバッグと同じものだった。
水色ではなく、色違いでラベンダー色。
水色は可愛いが、ラベンダーも愛らしい。
「……あのこれ……お義母さん、まだほとんど新品だし、その……良いんですか? なんかこう、お義母さんが一番損している気がしますけど」
「別にいいわよ。バッグは他にいくらでもあるし。だからもう怒りなさんな」
そして、淑子はようやく解放された高之を見た。
「あなたも色々な目に遭って大変だったのは分かりました。でもそれを理由にして人に危害を加えたら、その言い分は高之君の単なる都合で、被害者にとっては何の価値もない只のたわごとです。さっき畑にいた人たちの名前と部屋の番号のメモを渡すから、自分がしたことはちゃんと謝ってきなさい」
消え入りそうな声だったが「ハイ」と聞こえた。
「それからね、今のご家族に対して高之君にも色々思う事あるかもしれないけど、少なくとも家にいる限りは屋根と壁はあるのよ。それを捨てちゃダメ。子供に一番必要なのは安全な寝場所です。それが無いと、未成年の内じゃ何も出来やしない。今の家を出たって、家とはまた違う辛さが待っているだけ。それならちゃんと学校へ行って勉強して、独りでも生きていける大人になってから家を出なさい」
高之は黙っている。だが無表情は消えていた
じっと淑子の言葉を聞いている姿は、まるで小さな男の子のようだった。
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