第3話 凋落から破滅、そして出会い
人は、どんな生活に慣れるものらしい。
裕香は子供の頃に読んだ物語を思い出す。
遠い国の王子様が悪い大臣によってお城を追い出され、山の中で行き倒れていたのを貧しい村の人たちによって助けられる。
王子様は村人たちと暮し始めるという話だった。
物語の中で、王子様はすぐに村の生活にすぐ馴染んでいたが、贅沢三昧が身についている王子様がそう簡単に貧しい生活に慣れるのか、毎日がご馳走で、絹の布団の生活を送っていた王子様が、食事はスープとパンだけ、麦藁の布団の生活を送れるのかと、裕香は子供ながら不思議に思ったものだった。
だけど、王子様は正しかった。
スーパーの仕事は重労働だったが、レジも商品陳列も、慣れてくれば要領もつかめて動きも滑らかになる。
適当に手を抜くコツや、陰でこっそり休むタイミングも計れるようになった。
ただ、裕香と王子様が違うのは、村人との生活を楽しむ彼と違って、裕香は今でも昔の生活に未練があり、今に倦んでいる。
ブランドのバッグとアクセサリーを身に着けて、ドレスを着てパーティやイベントで華やかに踊る夢を見て、もっともっとと願いながらも眠りから覚め、現実の古い和室の中で落胆する。
それでも、楽しみはあった。給料日だった。
店長から手渡された給与明細の数字は、ささやかでも裕香が汗を流して稼いだものだった。今まで以上に実感があり、リアルな金額だった。
預金通帳の記帳のために、銀行へ向かった。
振り込まれる金額は分っていても、心が躍る瞬間のはずだった。
だが、すぐに裕香は目を疑った。
「なに、これ……」
給料は振り込まれている。
だがすぐその後に、残高のほとんどがカードで引き出されていた。
給料の振込口座は、名義人と家族用、2枚のキャッシュカードが作れる夫婦用の口座だった。
裕香以外に、カードで預金を引き出せる人間は1人だけしかいない。
喜びはすぐに灰になり、頭の中が白くなった。
裕香が自分の手足を動かし、汗を流して稼いだ金だ。それを断りもなく引き出したのは清一に間違いない。
――その日の夜、清一は優香が店から持ち帰った総菜を食べ、ビールを飲みながら機嫌良く、さっき団地の人間が2人訪ねてきたことをしゃべった。
自治会組織に入会したという。
その勧誘に来た女について、清一はべらべらと口を動かした。
「こんな古臭い団地に全く似合わないイイ女だった。俺が見たところ、大手の金融系か商社に勤める営業職だろう」
裕香は黙って総菜のコロッケを口に運んだ。どうやって消えた金の事を切り出すか、様子を伺いながら考え込む。
銀行から今でも、裕香の怒りはずっと燃えていた。
夫婦共有の口座の金でも、あれは自分が稼いだ金だ。
例え何があったとしても、清一が金を引き出すなら自分に一言あるべきで、しかもあの金は生活費なのだ。
元々アルコールに強く、ビール数本くらいでは酔わなかった清一だが、今は少し酔っている。裕香は清一の赤い顔を窺った。
「……でなあ、仲間意識と聞いた時、俺はピンと来たんだ。これは利用できるって天啓がひらめいたんだ。人脈だ、そうだ、人脈だ。最初のレストランを開いた時と同じ感覚が舞い降りたんだよ。間違いねえよ、これは使える。ところで、高之はどこだ、部屋にこもってるのか?」
「ヘッドホン着けて、何か聞いてる。呼んだって返事どころか振り向きもしない」
「なんだあ、揃ってメシ食うのが家族ってもんだろう。裕香、お前あいつにちゃんと、母親として向き合っているのか? 血の繋がりとかどうとかそんな安っぽい文句、俺は父親としてもう聞かねえよ」
バカもここまで行けば高尚だ。裕香はテーブルを叩いて笑い出しかけた。
仕事に失敗して以来、清一の口からやたら「家族」とか「絆」という単語が出るようになった。
しかしそれは、全てを失った後に残された、家族という宝物に気が付いたのではなく、地位や財産を失った落伍者が、残ったものに執着しているようにしか見えない。
「ねえ、あなた」
「あ?」
「今日、預金口座の残高を見たら10万円も引き出していたけど、あれは何よ」
「ん? ああ」
酔いの回った目が、何を怒っているのか分からないとでも言いたげに裕香を見た。
「セミナー代だよ。それと、そのテキスト代も込みで9万8千円。振り込み期限が今日だったからギリギリ間に合った」
一瞬、何のことか理解出来なかった。セミナーという単語は分るが、それがどうこの話に、金を勝手に使われる理由に繋がるのかが分からなかった。
だが、清一は罪悪感も無い、むしろ素晴らしいものを掴んだように語り始める。
「誰でも参加できるセミナーじゃないんだ。参加資格がいる。その資格を持っていると、俺はそれに選ばれたんだよ」
ビジネスセミナーだという。
昔、経営していたレストランの客からメールが届いたという。
矢島という元客は、久しぶりに訪れた清一の店の雰囲気が変わった事を怪訝に思い、今は経営者が変わった事を知った。
そこで清一の事情も人づてに聞いて、心配して連絡をくれたという。
当時の矢島は、上得意ではないが店の予約簿にたまに見かける中レベルの客だった。そんな彼にホテルのティールームに呼び出された清一は、目を見張った。
自分の店に来ていた頃の矢島は、ごく普通のサラリーマンだった記憶がある。
だが、目の前に立っていた矢島は、大勢いた客の中に埋没していた一人ではない、顔だけ同じの別人だった。
背広から靴、時計も全て一流品で固めた、成功者の匂いを放つ男に変貌していた。
ティールームで、薫り高いブルーマウンテンを飲みながら矢島は清一に言葉を放った。
『あなたは、こんなことくらいで終わる人じゃない』
矢島が清一に勧めたのは、紹介者がいないと参加することが出来ないという、非常に狭い範囲で行われるビジネスセミナーだった。
「俺は成功の味を知っている。裕香は特に分かるだろう。俺の経営センスや運の強さが無ければ、店や事業はあそこまで大きくならなかった。失敗したのは俺の経営判断の失敗だけじゃない。色々悪運が重なって、最悪の化学変化を起こしたんだ」
「……」
「矢島は言ったよ。自分が勧めるセミナーは、誰彼に声をかけるものではなく、特別な人間しか声をかけない。なぜなら凡人は凡人でしかなく、特別な栄養を与えたところで咲かせる花はたかが知れていからだ。だけど俺は、成功した実績と才能という種子を兼ね備えている。必要なのは栄養と水だけだ。矢島は、おれがまた咲き誇るのを見たいというんだ」
「……」
裕香の否定を許さない、狂気に近い熱が清一を覆っている。
裕香はそれでもプライドのために、金のために声を押し出した。
「でも、あのお金は……」
「お前、昔はどれだけ俺の金を使った?」
清一は、裕香の言葉を叩き落した。
「俺のカードで、キチガイしか買わねえような値段の下らないバッグだドレスだエステだって、蛇口ひねって水どころか、消防車のホースみたいにザアザア金を流しやがって。お前、そんなキラキラしたゴミの買い物の理由にこう言ったよな? 俺を支えるための必要経費だって」
「わたしのバッグ、勝手に売ったくせに!」
最悪以外の何物でもない。クローゼットに入れていたのに、無くなっていたブランドのバッグは、実は清一が金のためにこっそり売り払っていたのだ。
泣いて抗議した裕香に『俺が買ってやったものだから、どうするのも勝手だ』と、あの時もひどい言葉を投げ付けた。
そして、今回も。
「このセミナー代は必要経費だ。お前の狂った買い物とおあいこだろうが。お前、俺を支えたいんだろう。それなら文句を言うな」
そのセミナーに、清一は傾斜し始めた。
講習に教材、次々と段ボールで「成功の素」を買込む清一の姿は、坂道を転がり落ちる石を思わせて恐ろしくなる。
清一が再び経営者として成功するのか、その可能性があるのか、裕香には分からない。
それ以上に、クレジットカードもローンも使えない自己破産者の清一が、どこからセミナー代や教材費を工面しているのか、聞くべきだか聞くのが怖い。
それよりも、問題は目先の生活費だった。光熱費や食費を切り詰めて、生活費はいつもギリギリだ。それでようやく崖の際を歩いている状態だった。
少しでもバランスを崩せば転落する。
無情なほどに青い朝の空だった。
家から出て出勤へと歩きながら、自分の左手を見つめた。
ここに来る前は、滑らかでマネキンのような白い手指だった。
行きつけのサロンに通い、お気に入りのネイリストに手入れを任せていた手は、別人の手になっていた。
マニキュアもなく、艶もない指にはめたエルメスの結婚指輪が白々しい。
ふと、連れ子の高之が浮かんだ。
家にいるのか、いないのか。食事にも出てこない。
ここ2、3日は姿を見ていない。
いたとしても、奥の和室にこもって何をしているのか分からないが、あの子は高校にちゃんと通っているのだろうか。
最初は寄宿舎のある高校へ入れようと思っていたが、再婚後に一人息子を寄宿舎に入れるなど、家庭内の情景が丸出しで流石に体裁が悪いと清一が反対した。
結局、入学したのは家から通える私学だった。
授業料は一年分を一括で払っているが、次の支払いがやってくる。
私学は授業料だけではない、寄付金に設備費が高額だ。卒業まで通わせられるはずがない。
通っている間も学用品や修学旅行などのイベントの支出がある。
こうなれば公立に転校させるか、怠けているのなら退学させて働かせるか、どちらにしてもバイトをして、少しでも金を入れて欲しい。
団地の敷地に降り注ぐ日差し、芝生の瑞々しい緑や草花、その色彩と気分の落差が裕香に障る。いつの間にか、目の前に女とセーラ服の少女が歩いていた。
「スズネさん、そのワンピース素敵」
「今日は外回りないからさ、スーツ着なくていいんだ」
女の後ろ姿を眺めた。
ベルトでウエストを締めるデザインの、紺色のワンピースがあでやかにゆれている。光沢でも分かる、高価な生地だった。
だが女が持っている、水色のバッグが裕香に突き刺さった。
「そのバッグ、可愛いですね」
少女の声。
「でしょ、お義母さんが同じもの持っていて、可愛いから私も欲しくなったんだ。そしたらネットでフリマに出ているのを見つけてさ。迷ったんだけど、流石に全く同じものは気が引けるから、色違いの方を買ったの」
それは、いつか裕香のクローゼットから消えていたバッグと同じもの。ハイブランドの限定デザインだった。しかもそれだけではない。
間違いなく、裕香の所有物だった証拠が巻き付いていた。
「バッグに結んでいる、そのリボンは付属品ですか? 水色にワインレッドって、すごく良いアクセントですね」
「ああ、これはプチスカーフ。バッグのブランドとはまた別もので、買った時にオマケで付いて来た」
間違いない。
バッグから目を離せない。
以前、家のクローゼットから消えた裕香のバッグだった。
頭が一気に燃えた。
バッグを手に入れた日のことがグルグル頭の中で回る。
私のバッグ、お気に入りのバッグ。
あれはセレブ御用達、ハリウッドの女優の間でも流行っているイタリアブランドで、あの限定デザインは発売前から話題になっていて、店に頼んで、顧客の私の為に取り置いてもらったんだ。皆にステキと褒められた。
バッグに巻いたあのシルクのスカーフは、アクセントの差し色として、そして私のものだという目印に結んだもの。
そのバッグが、目の前で知らない女の手で運ばれている。
「どろぼう!」
目の前の2人が、ギョッとした顔で振り向いた。
裕香は憎悪をバッグの女に叩きつけた。
「どろぼう! それ、私のよ、返しなさいよドロボウ!」
「は?」
「返せってば!」
驚いた顔の女に飛び掛かり、バッグをもぎ取ろうとしたが、女はバッグを離さない。
ちょっと待ってと言いながら、裕香を押し戻そうとする。
「待ってよ、泥棒だなんて何のことよ? これは私が……」
「うるさい、うるさいうるさいうるさい、あんたはドロボウよ!」
返せと喚いた。泥棒と怒鳴り、女を殴ろうとしてかわされた。
背後からしがみつく少女を振り払う。
死に物狂いで女が持っているバッグに手を伸ばす。
女にむしゃぶりついてバッグをむしり取った時、勢いがついたはずみでバッグは空を飛び、アスファルトに叩きつけられた。
「あー!」
女が悲鳴を上げた。
「何するのよ!」
地面に落ちたバッグを拾おうと、裕香は手を伸ばしたが、その手を女に振り払われて、裕香は激昂した。
女がバッグをひったくるように拾い上げる。
自分のバッグを再び奪われて、裕香の目の前は真っ赤になった。
「何をしている!」
清一の声が突然響き渡り、裕香を鞭打った。
「何をしているんだ、裕香、やめろ!」
我に返ると、万力のような力で清一に身体を抑え込まれていた。団地の住民らしき老人たちが、固唾を飲んで、驚きと好奇心をむき出しにして遠巻きにしている。
目の前の女が少女を自分の背中に回し、こちらを睨んでいる。
「ドロボウ、返してちょうだい! それは私のバッグよ!」
衆人環視の中でも構わず、裕香は咽喉が切れるほど叫ぶ。
女は清一を見て、裕香を見た。
「奥様ですか?」
ええ、まあと、野次馬たちの目を気にしてか、きまり悪そうに清一が答えた。
それに対して、女の目はどこまでも冷ややかだった。
「泥棒と呼ばれる筋合いはありません。フリマアプリで見つけて買ったんです」
女は裕香と清一へ向けて言い放った。
「ですが、このバッグの由来が奥様の言う通りなら、あなたの奥様から、誰かがこのバッグを盗み出してフリマに出したって事ですよね。それなら警察に届けます」
「いや、それは結構です。大事にはしたくないし……」
周囲を伺いながら清一はうろたえ、そして裕香に憤怒の表情を向けた。
「妻の思い違いでしょう」
女の態度が、怒りから氷に変わった。
刃の切っ先のような視線を振り下ろして言い放った。
「そうですか」
清一は裕香の腕を掴み、ゴミを引きずる様にして5階まで昇った。
玄関に入った瞬間、突き飛ばされた。
裕香は靴を履いたまま三和土の上に転がった。
膝を打った悲鳴を上げる間もなく、髪の毛を掴まれて顔を引きずり上げられた。
頭皮が引き剥がされる激痛。
「亭主に恥をかかせるな!」
頬を殴られた。頭がもげそうな力だった。
激痛で怒りが引っ込んだ。突然降ってきた暴力、その恐怖で裕香は硬直した。
清一が手を上げるのは初めてだった。
しかも、生まれて初めて向けられた他人からの殺意と憎悪に体がすくむ。
「てめえ……」
清一の口元が震えていた。怒りが凄まじすぎて、言葉が出ないのだ。
その様子に裕香は身を縮ませる。
狂暴な手が、裕香の首元を掴んだ。
そのまま締め殺されそうな力だった。
「……この、腐れた寄生虫が」
禍々しい声が耳の中に垂れた。
「貴和子と別れて、オマエと一緒になってから俺のツキは落ちまくりだ。最初はなあ、そりゃあ若い嫁をもらって、超得意だったさ。口うるさくて古ぼけた畳が、金も要らんとか抜かして勝手に出て行ってくれて、俺にとって夢のような万々歳だったよ。あの時、後腐れなく、全てが上手く終わったと浮かれた自分に言ってやりてえよ。お前が手に入れた女は、金食い虫じゃなくて金食う寄生虫だとな」
「あ、あたしは……あ、あんたが……」
交際中、一度も清一に自分から結婚をねだったことはない。
プロポーズは清一からだ。
クレジットカードをくれて、好きに使えといったのもあんたじゃないかと叫びたいが、少しでも動いたら殴られる気がした。
裕香は、助けを求めて目だけ動かして家の中を探ったが、静かだった。
高之がいればと思ったが、考え直した。
きっと、この場にいても同じだ。
例えこの場面を目の前にしても、父の暴力を止める事もしないし、裕香を助けることはしないだろう。
そして、この興奮度合いは、例え高之の目があっても冷静になるレベルではない。
髪を掴まれ、頭を引っ張り上げられた。
生臭い口臭をまき散らしながら、清一は視線で裕香を突き刺した。
「今、俺はでかい仕事を始めようとしているんだ。セミナーに通って会長の意志を学び、会員になれたんだ。新しいビジネスのチャンスなんだ」
「……なに、それ……」
「お前みたいな、カビの生えたスポンジ頭に理解出来るはずないだろう。だけど良いか、俺はもう一度成功する。それだけの力もある。そのためにこの団地が必要なんだよ。間違っても下らない騒ぎを起こして、俺の足を引っ張るな。この腐れアマ」
清一は裕香を投げ捨て、玄関から出て行った。
ドアが壊れそうな勢いで閉まった。
しばらく、金縛りにあっていた裕香は、三和土の上に投げ出された携帯電話を拾い上げた。
気が付くと、もう10時を回っていた。
スーパーのパートは完全に遅刻だ。
働きに出る気力はない。
今から行けば、職場の皆から冷たい視線にさらされるだろう。
電話を入れて病欠を伝えた。
電話に出たチーフは、お大事に、と機械的に述べ、休むならもっと早く連絡を下さいと言った。
……しばらく動く力はなかったが、固い三和土に座り込んでいる内に膝と腰が冷えてきた。
のろのろと裕香は立ち上がった。
外に出た。清一が外にいるかもしれないと怯えたが、廊下には人気はない。
助けて欲しい。
孤独と無力感があふれて、涙になって伝い落ちた。
寂しい、怖い、誰か助けて、だれか。
助けを求め、裕香は隣の部屋の前に立つ。
ドアノブを回すと簡単に開いた。
……よかった。
逃げ場所は開かれていた。少し、嬉しくなった。
「チズさん」
裕香は声をかけた。
「チズさん……いる?」
当たり前だが、ドアを開けたら自分の家と同じ玄関、似た風景がある。
まるでパラレルワールドに足を踏み入れたような、違う洋服を着た双子のような部屋。
いるわよ、と声が聞こえた。
入ってらっしゃいと声に招かれ、裕香は部屋の中に足を踏み入れる。
ふわりと、どこか懐かしい埃の匂いがした。
台所に入る。
黒いセーターと白いスカートのチズが立っていた。
淡く、白い笑顔のチズを前にして、裕香の力は抜け落ちた。
小さい頃、いじめっ子に追いかけられて泣きながら家へ向かって逃げ、家のドアを開けた瞬間の安堵感が蘇った。
チズと出会ったきっかけは、部屋の間違いだった。
その日、裕香はパートで疲れ切っていた。エレベーターの無い五階までの階段、見切り品の弁当と、2ℓのペットボトルのお茶が入った重いビニール袋が、手の平に食い込んでいた。
裕香は部屋のドアを開いた。
そして、靴を脱いで部屋に上がり、台所まで入ってから、ようやく自分の家ではない事に気が付いた。
慌てて外に出ようと振り向いた時、立っていたのがチズだった。
体内に溜まっていく疲労によって、全てが注意不足になっていた。
そして同じドアが並ぶ廊下と原因が重なったとはいえ、完全な不法侵入だった。
泥棒と間違われても無理はないと慌てた裕香だったが、チズは微笑んだ。
すり切れるだけの生活の中で、人に笑顔を向けられるのはもう久しくなかった。
思わぬ施しを受けた裕香は立ち尽くした。
それは不審者に向けられるようなものではない、慈母のような。
そんな形容が浮かぶ微笑だった。
その微笑の理由は分からない。
だが、その微笑は無垢で穏やかで、裕香はチズがここで自分を受け止めるために、傷つき、疲れた自分の心を癒してくれるために、待ってくれていた気がした。
チズの部屋は、ゆったりとした時間が流れている。
何もない部屋だが、その代わりに静謐さがあった。
まるで教会のようだ。
厭なことも悲しい事も、全てこの空間に持ち込めば浄化してくれる聖域。
裕香は木製の椅子に座っていた。
教会のチャーチ椅子を思わせる簡素な木製で、初めてここに入った時、チズが勧めてくれた椅子だった。
今日も、チズは黒いセーターと白いスカートの装いだ。
季節外れの服装だが、黒と白の修道女を思わせるコントラストは、静謐な彼女に良く似合っていた。
「ねえ、どこから間違ったんだと思う?」
黙って悲しみを受け止めてくれるチズに向かって、椅子に座った裕香は嘆く。
あんな男と、結婚するんじゃなかった。
この結婚は間違いだった。
どこから自分は間違えたのか。
結婚前、口説いてくる清一を拒まなかったから? それならBUONOの味を気に入って、店に通った事?
もしもあの男と出会わなければ、違う男と結婚していただろう。
コンパの誘いも多かったし、紹介で商社や銀行に勤める男と何度かデートしたこともある。
もしかしたら、勤めていた会社の誰かにプロポーズされていたかもしれない。
裕香の脳裏に、同じ職場だった青年たちが次々と浮かんだ。
彼らは裕香に親切で、仕事を手伝うだけではなく、ランチやお酒に連れて行ってくれた。あの頃、彼らは社内で可愛いと評判だった裕香の気を惹こうと懸命だった。
清一と出会ってさえいなければ。
会社の誰か、コンパで知り合った誰かと結婚して、幸せな家庭を築いていた。
生活費に困ることも無く、夫に殴られるなんて想像もしない生活だったろう。
もしも清一に出会わなければという想像と、何故間違えたのかという要因を遡れば遡るほど、裕香は後悔と虚しさの底に堕ちていく。
――チズは、静かにこの話を聞いてくれている。
チズはいつもこうやって、裕香の悲しみを聞いてくれる。
寂しさを共有し、受け止めてくれる。
あなたがかわいそう、そう言ってくれる。
世界を敵に回してまで夫にした清一は、事業に失敗した落伍者になった。
その上、裕香を殴る怪物に変わってしまった。
今の裕香は、血縁に見放されて友人もいない。
世界にいるのは敵と他人だけだ。
そうやって辛さも過ちをたった一人で抱え込むしかない裕香にとって、チズの出現は救いであり、暗闇に差し込む光だった。
「こんな場所、もういや。何でこんなところしか、住むところが無いの」
ある朝のゴミ出しが、屈辱と共に蘇る。
ゴミの入った袋を集積所に出した時、走り寄って来た女がいた。
そして、裕香が下に置いたばかりのゴミをひっつかみ、突き出して怒鳴ったのだ。
『今日はごみの日じゃないです! 持って帰んなさい、字が読めないの!』
そこには絵看板があり、ゴミの収集日と分別の方法が絵で説明されていた。
以前住んでいたタワーマンションのごみ集積場は、収集日も時間も関係なくゴミを出せる仕組みだった。裕香はその感覚を引きずってしまっていたのだ。
醜く太った中年女の怒りは鋭かった。
脂肪に埋もれた目を吊り上げて、裕香にゴミを持って帰れと命令までしてきたが、ゴミは生活の排泄物だ。そんなものを持ち帰りたくない。
それに、ゴミの日は明日の朝だった。
一日くらい、置いても良いだろうと反論した裕香へ、女は信じられないとばかりの、軽蔑と嫌悪に満ちた顔で言った。
『私は、自治会の役員をしているのよ。貴方みたいな人は議題に上げます』
裕香がその事を口にした時、チズの顔にはっきりとした嫌悪が浮かんだ。
嫌悪というよりもっと禍々しい、それは恨みという情念。
その時、裕香は知った。
チズはこの団地の住民たちに苛められ、蔑まれてきたこと。
そいつらの事をチズは話してくれた。
彼らのせいで、チズは外に出られなくなった。
裕香の脳裏に、あの嫌な太った女や、好奇心と猜疑心で出来上がったような、この団地に住む老人たちが浮かんだ。
あいつらはチズを苛めてここに閉じ込め、それだけでは飽き足らず、私に対してもそうしてやろうと虎視眈々と狙っている。
――そうなのね。
裕香はチズに崩れ落ちた。
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