第30話

男が、乾いた狼の毛を、獣用の櫛で梳かしている。

(洗われて乾かされて梳かされると、こんなにさらさらになるのの)

初見では、色もそう見映えがしないと思っていたけれど、今は少し、男の瞳に似た灰色が混じる毛色は、優雅にすら思える。

それでも絡んだままや少し縮れた様な部分もあり、男に教わり、男が梳かした毛の、絡んだ部分をナイフで削り、整えていく。

それらの作業も終わり、袋に仕舞い、荷台に積めると、男の腹が鳴った。

小屋に戻り、流しの脇に置いた炊飯器で赤飯を炊きつつ、そろそろ川でなくとも、水場でもいいから小豆を研がないと残りがなくなってきた。

炊飯器がピーッと音を立てた頃。

ドアをカリカリ引っ掻く音がし、ドアに近い男が戸を開くと、枯れ葉まみれの狸擬きがのっそり立っていた。

「お主の……」

入ってくるなと外で葉っぱを落としてやるが、どうやら、主に挨拶などはなく、ただただ単純に、久々の森を満喫していたらしい。

男が狼の毛を梳かした櫛で、狸擬きの全く抜けない毛を梳き。

舞うのは埃に土に葉の欠片。

「今日はベッドには寝かさないからの」

「フーン?」

「当たり前の」

床に敷物位は敷いてやるけれど。

そもそも狸擬きはストーブの近くで眠るから、ベッドには上がらないだろう。

今日は、焼かれた柔らかそうな兎の肉がそれぞれの皿に盛られ、その肉に、チーズの様なソースが掛かったもの。

それに知らぬ緑と黄色い野菜の付け合わせ。

どれも苦味もなく食べやすいけれど、形はぴーまんに似ていた気がする。

細かく切られた野菜が入ったスープと、赤飯おにぎり。

(この肉にかかった汁、ではなく、ソースが好きの)

チーズとミルク感のとろりとした濃い目の味が、淡泊な肉に合う。

パンに挟んでも合いそうで、また食べたいと書いて伝えると、男は胸の前で拳を振る。

風呂に入れない日は、男の背中を拭くのが日課になってきた。

男は相変わらず少し気恥ずかしそうだけれど、こちらが拭きやすい様に膝を折ってくれるため、嫌ではないらしい。

ストーブの石の火を弱めても、部屋が狭いため暖かい。

ストーブのすぐ近くに寝床の敷物を移動させる狸擬きに、

「毛を焦がさないようにの」

「……」

そんな間抜けではないと返事が来る。

まぁもし焼け狸にでもなったら、無駄なく食べてやろう。

あまり美味くはなさそうだけれど、毛は狼よりは、高く売れるかもしれない。

そもそも焦げて売り物にならないか。

下らないことを考えていると、男から、明日は早く出ると聞き、男と共に早めにベッドに潜る。

真っ暗ではなく、ランタンの灯りは火力を落として点いている。

森の中の小屋。

ふと、あの飛び出す絵本の、小さな森の中の家を思い出した。

男に言葉が通じるか、話しかけようとしたけれど、男の欠伸に、男の胸に頬を当てて、何も言わずに目を閉じる。

夜風に混じり、悲しげな狼の遠吠えが流れてきた。

今までは何も思わなかった。

でも。

でも、今は。

自分が殺めた狼たちのように、この男が居なくなったらと思うと。

それは、ほんの少し。

(……悲しいの)

そう。

悲しい。

この世界に来てから、初めて感じる、知る感情が、多すぎる。

唇から吐息が漏れ、無意識にか、より強く我を胸に抱く男の体温を感じていると。

「……?」

微かな不穏な臭いが、鼻腔に届いた。

起きていたつもりが実際にはうとうと眠っていたらしく、反応が遅れた。

我を抱く男も、ギクッと身体を強張らせた後に目を覚まし、暗がりの中で顔を見合わせて身体を起こすと、

「のっ……!?」

薄暗がりの中、狸擬きの背中から煙が出ていた。

毛の焦げる臭いだ。

「こら、起きるの、馬鹿狸っ」

立ち上がった男が敷物ごと引き摺って離すと、狸擬きがやっと目を覚まし、背中の熱さに気づいたのか、その場でくるくる回りだす。

男が分厚いドアを開くと、冷気がぶわりと雪崩のように吹き込み、毛の焦げた臭いが一瞬で霧散していく。

パニックになっている狸擬きの尻尾を掴み、背中をパンパン叩き、少しチリチリした焦げは表面の毛だけで済んでいることを確認すると、今度は唇から、吐息ではなく大きな溜め息が出た。

(全く……)

敷物をストーブから目一杯離し、

「ここで寝るの」

と指を差したが、さすがに不満顔はせずに、その場にくるりと丸くなる。

焦げた背中の毛を見せて。

これっぽちの勉強もしないアホ狸は、本当に今まで良く生きてきたものだと、ある意味感心する。

それでいて森の主だと言うのだから恐れ入る。

「我の連れが騒がしくして申し訳ない」

狭い水場で、水を飲んでいる男に謝ると、

「あの狸とは長く共にいるのか?」

と聞かれた。

男の言葉がはっきり聞こえる。

(長く?)

「のの、長くはないの」

通りすがりに寝床を借りた礼に、赤飯おにぎりを与えたら付いてきたと話すと、

「俺と同じか」

煙草を咥えた男はおかしそうに笑う。

ふと、男が寄り掛かる水場のでっぱりに鎮座している炊飯器に目を向け、

「これは尻尾か?」

と聞かれた。

尻尾?

男が指差したのは束ねられたコード。

「これは……。ぬぬん、そうの。本来なら、これを力の出る場所に挿し込み、炊飯器に熱を伝えるの」

ふんふんと男は頷くが、電気の原理を説明できるわけもなく。

発電所と言う力を作る所から、街へ建物へ家へ、灯りやら炊飯器を使える力を届けていると、何とも下手くそな説明をすると、それでも男は真剣な顔で頷いてくれる。

(ぬぅ、もっと勉強でもしておけばよかったの)

捨て置かれた本たちの、そういうものには全く手に付けなかった。

(向こうにいた時から料理や菓子の本ばかり拾って、我ながら食い意地が張っていたのだの……)

男ではないけれど、額を押さえたくなる。

「君のいた国ではそれが主流なのか」

「そうの」

男は興味深な顔をして炊飯器を眺めてから、

「いつか行ってみたい」

と煙草を咥えたまま、屈んで視線を合わせてきた。

「ふぬ、観光程度ならおすすめできるの」

我のいた数多くのド田舎ではなく、都会であらば、男の格好もきっと「こすぷれ」程度にしか思われないだろう。

けれど、

「空気が不味いから、慣れるまでは大変かもしれぬの」

この世界と比べれば空気は真っ黒に近い。

「空気が、不味い?」

怪訝な顔をする男に、

「そうの」

笑うと、男は首を傾げつつ、煙草を吸い殻入れに押し付けると、我を抱き上げてきた。

「の?」

男は、君は海には行ったことがあるかとベッドに腰掛け、そのまま我は膝に、横向きに座らされる。

海。

海は。

「一度だけの」

やはりこちらも変わらない塩水なのだろうか。

大昔の旅の途中、全く人気のない、灰色の砂浜の海辺へ寄ってみたことならある。

波打ち際で小豆を研いでみた。

当然磯臭くなるし、波に足を取られて小豆ごとひっくり返り散々で、それから海には近づかなくなった。

あれはまだ人の大半は、着物だった頃か。

「海は、魚が沢山いて飽きるほど食べられる」

「の」

そうだ、美味しい魚がたくさんいて、たくさん獲れる場所。

「だから肉もたくさん持っていかなくてはならない」

「の?」

矛盾している気がする。

「飽きるほどだからな」

ほほぅ。

「望むところの」

俄然、楽しみが増えた。


翌朝。

もこもことした雲は多いものの空も視界も明るく、森の中も風は冷たいけれど、穏やかな気配が続いている。

しばらくは道が平坦だからと、今朝は馬車に乗りながら握ってきた赤飯握りを2人と1匹で食べながら道を進む。

大きな大きな鳥が、空を、木々の影から飛んでいるのが見えた。

「ほほぅの……」

顔を上げて先へ飛んでいく姿を追っていると、男に頬をつつかれる。

「ぬ?」

我の、両手に持った赤飯おにぎりを、食べないと食べてしまうぞ的な仕草に、

「の」

一口だけのと手を伸ばして男の口に運ぶと、男はちらと眉を上げ、小さく一口を齧り微笑む。

(お茶が欲しいけれど、今は我慢の)

米の付いた指を舐めていると、まだ背中の毛をチリチリさせている狸擬きがそわそわとして、降りたいと告げてきた。

「好きにするの」

狸擬きの足の早さがあればすぐに追い付くだろう。

狸擬きは動く馬車からたんと降りると、こちらを見てフンフンと鼻を鳴らしてから、トテトテ歩いて視界から消えていく。

男が、

「?」

と見てきたけれど、問題はないと頷くと、男もそうかと先へ進む。

森は小動物の気配は少なく、正確には気配はあるものの遠く、だいぶこちらを警戒している様子。

途中、若干の登り坂を越えて、またひたすら森の中を進むと、

「のぉ……」

ふと視界が開け、もこもこ雲の空と、一面の枯草色の草原が広がり、今にも埋もれそうな轍が、先へ先へと続いていた。

男が道を外れて馬車を停めると、んーと伸びをして馬車から降りた。

馬を労りつつこちらへ回ってくると、両腕を伸ばしてくるため、おとなしく身体を預けると、

「もう少ししたらここは一面の雪景色になる」

男の呟きが聞こえる。

「そうすると道が分からなくて、馬が足を挫きやすくてな」

「では、冬は皆ここを通らなくなるのかの?」

「あぁ、それと大きく他の道を迂回するんだ、後は鳥の出番が増える」

寒くないかと聞かれ、ふるふるかぶりを振ると、男が荷台から敷物を出して、片手で器用に広げると、

「少し休もう」

敷物の上に我を座らせると、男もごろりと横になった。

「疲れたの?」

顔を覗き込むと、

「いや、先にお茶を淹れたら狸が怒るだろう」

それなら。

「あやつはお茶を淹れればすぐに飛んでくるの」

それこそ目にも見えぬ早さで。

「そしたら、君を独り占めできる時間が減る」

何とも甘く、ろまんちっくな言葉を、まるで今の天気でも語るように口にする。

「お主は大層、女泣かせなのだろうの」

男は、我の言葉にちらと唇の端を上げると、

「いや、俺は紳士で名が通っている」

我の膝に流れる黒髪を、指先で梳いてくる。

「お主は嘘が下手の」

「君にはなるべく誠実でいたいと思っているよ」

我を見つめる灰色の瞳。

我と、流れる雲を映している。

「……なぜの?」

「長い旅を共にする大切なレディだからだ」

そんな言葉は、また少し、胸の奥がくすぐったい。

「お……?」

男が視線を森の方に向けた。

「……?」

ティータイムの気配を過敏に察知したのか、狸擬きが森の方から、轍をテコテコと歩いてくる姿が見えた。


軽いチーズケーキか重めチーズケーキかどちらがいいと聞かれ、重めと答えると、男は自分の分を軽いチーズケーキにしている。

机代わりに木箱を出し、狸擬きには変わらず焼き菓子、今日はビスケットが出される。

草原でお茶とケーキとは、

(まるで昔読んだ異国の物語の世界の)

狸擬きはさしずめマスコットか。

男が、自分の分のチーズケーキを、

「あーむぬ」

我の口に運んでくる。

(ぬ……?)

わざわざ、手間もかかるのに、別のケーキを用意するのは、なせだろう。

しかも、半分は我のお腹に入るのに。

昼間でも、お茶が冷えるのが早い。

片付けていると、森から抜けたせいか、狸擬きは我の隣ではなく、荷台に飛び乗り直ぐに丸くなった。

そして陽が暮れる頃に、

(の……)

微かに水の流れる音が聞こえてきた。


薄暗い中でも、小豆洗いは楽しい。

「ふふん、ふふん♪」

男が隣でランプを片手に煙草を咥える。


「あーずき洗おか、チーズケーキ食べよか♪」

「あーずき洗おか、ティータイムしようか♪」

しゃきしゃきしゃき

しゃきしゃきしゃき

ふふん、ふふん♪

ふふん、ふふん♪


男も狸擬きも夜はもう寒いらしく、荷台で夕食にする。

今日は牛の乳に似ている白い液体に、芋やら根菜と燻製とやらをしたらしい肉がきざまれたものが入ったスープ。

油が荷台に散るため肉などは焼かず、缶詰の魚と赤飯おにぎり。

(骨を取り除く手間はあるものの、缶詰のくおりてぃも高いの……)

しかと美味。

そうだ、この世界には、元の世界にいた時から、小豆とはどうにも合わないのではと考えていた、パスタとやらはあるのかと紙に描いてみたけれど、我のお粗末な画力では男にはなかなか伝わらず、紙に棒を何本か引き、鍋に矢印で投入する絵で、やっと男が合点がいったように頷き、

「大きな大きな海を越えた先にある」

と教えてくれた。

水を多く使うため旅人には不評で広がりにくいと。

「ほほぅの」

では、行った先でのお楽しみにしておこう。

男が身体を拭き、背中を拭いてやると、男は手早く服を身に付け馬車を飛び降り、呑気に伸びをしている狸擬きのことも外に引き摺り降ろしている。

(気にせんで良いのにの)

幼き娘の身体。

見ても何の得もない。

外は風が冷たかろうと、身体を手早く拭いて寝巻きを纏ってから幌を開くと、男が狸擬きの毛を、櫛で擦っている。

夜でも埃や土が舞っているのが分かり、男に硬く絞った布で拭かれ、やっと荷台に戻る許可をされる。

その狸擬きも多少は気にしているのか、やはり敷かれた布団には乗らず、荷台の端に丸まり、さすがに懲りたのかストーブからも少し離れている。

寝る前に本を開いて、男に文字を教えてもらう。

胡座をかいた男の膝の上に乗り、背中に凭れ、文字を指差すと紙に書いて文字を教えてくれる。

「お主はいくつの言語を操れるのの?」

「3つかな」

言葉が通じた。

「凄いの」

「君も凄い、言葉も文字も忘れない」

「ふぬ、数少ない特技の」

男は紙と本を脇に置くと我を抱えるように手の開を組んでくる。

「ぬ?」

「君と話がしたい」

ふぬ。

幌の隙間から吹いてくる風が確かに冷たいからこそ、

(温いの……)

男の体温をより感じられる。

話がしたいと言いながら、会話よりも、手の開を合わせて大きさを比べたり、小さな爪をまじまじと見られたり、顎を指先で撫でられたり。

まるで。

(人に飼われる獣の様の……)

それでも、なぜか可笑しく、くすりくすりと笑ってしまうと、男も身体を揺らしている。

布団に倒れ込んだ時には、もう言葉は通じず。

外に耳を澄ませると、風の音、川の水の音、虫か何かの歌声。

夜鳥の鳴き声。

獣の気配はなく、狸擬きの毛が焦げることもなく。

男の寝息を聞いてから、そっと目を閉じた。

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