第20話

「ここにいてもよいの」

「……」

「帰りに迎えにくるの」

「……」

「なに、忘れたりはせんの」

(……多分)

勘違いとは言え、ほんのつい最近、前科があるため、断言はしかねるが。

「……」

馬車を先導する間、狸擬きの2匹はぴったりと寄り添って歩き、走っていた。

夜は外に敷いていた敷物の上で、2つで1つのもののように丸まり、互いを枕にして眠っていた。

翌朝、早朝。

ここに残るか迷っている狸擬きにそう声を掛けるも、狸擬きはたっとこちらに駆けて来ると、馬車に、我の隣に飛び乗り、じっと動かない、振り向きもしない。

山の狸擬きは何も言わず、ただ、静かに佇んでいるだけ。

男に馬車を出すように促し、

「……では、またの。大変に感謝する」

手を振ると、尻尾をゆるりと振って挨拶する山の狸擬きの前には、薄い紙に包んだ握り飯を置いてきた。

また手土産を持って、戻ろうではないか。

その時、我は、まだ狸擬きといるのか、この男はいるのか。

(全くわからぬの……)

わかるのは少し先の天気程度。

先を見通せる妖怪は、くだん、くらいか。

我の知っている限りでは。

小さな山の麓の森を抜け、狭い道の周りにゴロゴロした岩が転がり始め、視界の良さと比例するように、徐々にゴツゴツとした岩山が現れ始めた。


川はだいぶ下に見えるものの、到底降りられる距離ではない。

岩山の道自体は人の手が入っており、馬車も一台なら余裕で抜けられる幅があると言うけれど。

それでも、

「行きと帰りで道が違う」

男が教えてくれる。

岩と岩の狭い間を抜けたりするため、一方通行らしい。

こちらの行きはぐるりと迂回し、戻る道は割りと真っ直ぐだと。

ふぬ。

気づけば、少し驚く程に、標高が高いところにまで来ていた。

そして見晴らしがいい。

「ふぬん、絶景の……」

この初秋にしては風の冷たさを感じるのは、標高の高さもあるのかと気づかされる。

狸擬きは投げ出した後ろ足を今はきゅっと閉じ、どうやら高いところは得意でないらしい。

確かに柵などなく、バランスを崩したら崖下にまっ逆さまだ。

その崖からふと顔を上げれば、

「ののぅ……」

遠く、遠くまで、どこまでも見渡せる世界が広がっていた。

男に、青のミルラーマは見えるかと訊ねたが、なぜか少し驚かれた後に笑われ、かぶりを振られる。

どうやら遥か遠くらしい。

(そうなのか……)

男に、画板に書いた言葉で、

「思っているより、君は遠く遠く旅をしてきている」

と教えられた。

狸擬きも、フンフンと男の言葉に同意している。

途中に岩が意図的に深く削られている道があり、馬車の退避場所として使われていると、男が教えてくれる。

いくつめかの退避場所に馬車を停めて、馬に水を飲ませて休憩する。

陽が暮れる前に街に降りるつもりだと男は伝えてくれたけれど、一頭の馬の様子がおかしいことに気付いた。

男が、ぬかった、と言わんばかりに眉を寄せたけれど、高山病に近いものだろう。

呼吸も少し浅い。

「お主はよく平気の」

平然としている狸擬きは、

「……鈍いの?」

のこちらの問いに、フンフンッと憤慨している。

男には、すまなさそうに謝られたけれど。

「荷台で寝るのはそんなに嫌いではない」

と書いて答えると、男はちらと笑い、

「実は俺もだ」

髪を撫でてくる。

ふぬ、気が合うではないか。

馬を含め獣たちは、水を飲ませ、ここの空気に慣れさせれば、やがて回復すると。

男と並んで崖の淵に座り、男は煙草に火を点ける。

狸擬きは怖いのか馬車の近くから動かない。

「こっちは東側だな」

「……ふぬ」

途方もなく大きく見えるこの景色も、世界のほんの一欠片でしかない。

でも、

(見えている)

今、我の目の前に広がっている。

知らない世界が。

見たこともない景色が。

高い場所に来て、少しばかり気分が高揚しているのかもしれない。

何だか。

「くふふ」

「?」

「とても楽しいの」

小豆洗いの次くらいに。

「そうか」

男の声が聞こえる。

風が、我の髪をさらっていく。

たまに男の指先が掬う黒髪。

今もそう、風が髪を唇に触れさせると、それに気づいた男の指先が、髪を指先で絡めるように、背中に払われる。

灰色の瞳で、その慈悲にも似た眼差しで、我を見つめながら。

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