第19話
(どういうことの……)
男は柔らかく微笑むだけ。
「……聞こえているのの?」
問い掛けても、今度は小さく首を傾げられるだけ。
男はまるで赤子をゆっくりとあやすように歩きながら荷台へ戻る。
馬たちはとうに天幕の中で眠っている。
荷台に戻され、飛び乗ってきた男を見上げると、
「……?」
笑みを浮かべたまま、どうしたと視線で訊ねてくる。
(声が……)
「言葉が聞こえた」
と言ってみるが、男は、
「?」
布団の上に腰を下ろし、箱の上に乗るあの日記帳らしい束の下から紙を取り出し、渡してきた。
そうだ、 画板はベンチの方に置きっぱなしだ。
「言葉が聞こえた」
と書くと、男は、
「君の声も少し聞こえた」
と見せてきた。
なぜ。
いつ。
(なんのきっかけがあった?)
場所、環境、短い月日、触れ合い。
男と文字で話しつつ、言葉を口にしてみるも、通じることはなく。
気持ちの強さ、根性論も出たけれど、どれも違う気がする。
男は、
「一言でも通じたのは嬉しい」
と書いて見せてくる。
(ぬ、ぬぅ……)
文字にするのが気恥ずかしく、小さく頷き同意すると、
「ん?」
とからかうような表情でこちらの顔を覗き込んできた。
「おっお主は、少し性格が悪いぞのっ」
拳を振り上げると、男はもう何をされるか解っているのか、両手を胸の前に広げ、その両手の平をぽかぽか叩くと、男は楽しげに笑う。
話していてる間は全く思い付かなかったのに、布団に潜り、男の胸の中にすっぽりと収まると、
(……赤飯おにぎり)
ふと、これだと思う正解が浮かび、顔を上げたけれど、男はもう静かな寝息を立てている。
(のの……)
起こすのは忍びなく。
ふぬ。
まぁ。
(明日でいいかの……)
明日。
あした。
その言葉に、思考がピタリと止まる。
そう、明日の朝、この男に赤飯おにぎりを食べさせても良いものか、と。
こちらと言葉が通じると、代わりに他の人間との会話が出来なくなるかもしれない。
狸擬きや他の獣とはどうなのだろう。
そして、この正解を知ったら、この男はどう思うか。
「……」
何だか落ち着かず男の胸に額を擦り寄せると、起こしてしまったのか、そっと髪を撫でられる。
親鳥の羽の中にいる雛の気分はこんな感じなのだろうか。
雛はずっとここに居たいと思うし、親鳥は雛がずっと大きくならずに、いつまでも雛であることを願うことは、あるのだろうか。
翌朝、布団の上で、
「言葉が通じたのは、食べさせているあの『赤飯おにぎり』のせいかもしれない」
と伝えると、男は、腑に落ちる顔をし、
「なるほど」
とでも言いたそうにうんうんと頷き、どうしてか目を細めて笑う。
ぬぬ。
解せぬ。
もしかしたら人との会話が不自由になるかもしれないと伝えても、
少し視線を上に向けて考えた後に、笑みを浮かべたまま胸の前で握り拳を2回振る。
いや、よくなかろうて。
呆れたが、男は腹を押さえて空腹を主張してくる。
(本当に、よいのかの……)
確かにただの推測でしかないけれども。
荷台から下ろされて、朝日の中、敷物の上で赤飯を炊いていると、男はごそごそと荷台の奥を探っている。
(今日もよい天気に恵まれそうの……)
初秋の匂い。
早いなと思ったけれど、若干東の北寄りに進んでいるため、秋が早いと思われる。
降りてきた男の装いも少し違う。
少し厚着になり、片手に持ってきた茶色の帽子のないポンチョらしきものを肩から被せてくれた。
とても大きく、立っていても足許まで全てが覆われる。
少し埃と木の匂い。
「ありがとうの」
男は多分、何か弁解するようなことを言っているけれど、また一つも解らないし、こちらはただ男の心遣いに感謝しかない。
今朝も狸擬きはいないため、男の握り飯の取り分が多くなるけれど、本当に良いのだろうか。
男は、今朝は缶詰の野菜を落としたスープを作っている。
行商人になって、どれくらい経つのだろう。
男自身の生まれ故郷のことも、男自身の過去のことも、あまり聞いていない。
聞けば答えてくれるだろうけれど。
男も聞いてこない。
山からは、はらはらと葉が降ってくる。
やはり気の早い黄色や赤い葉も僅かに混じっている。
「いただきます」
の我の声と仕草に、男も手を合わせる。
二度目の炊飯のスイッチを入れながら、馬は山を越えられるのかと疑問に思っていると、低い山だし馬は案外気張る力もあるらしい。
(ほほぉ、逞しいの……)
山に入れば狸擬きも気づいて戻ってくるかと思っていたら、男がこちらの背後に視線を向けており、
「……?」
振り返ると、
「んのっ……」
狸擬きが2匹いた。
大きさも姿形も色合いもそっくりだ。
もし、ここの山の主が荷台に乗っていても気付かないし気付けない。
そして多分、本来の旅の同行者であろう狸擬きがこちらにやってくると、ゆるりと尻尾を振る。
「おかえりの」
声を掛けると、同胞が礼を言いたいと言うため連れてきたと。
「……」
少し離れた場所で佇むこの山の主の狸擬きは、尻尾を立ててからふりふりと振り、礼を述べているらしい。
さすが狸擬きの仲間、無口極まりない。
「……土産に赤飯おにぎりを持たせるから、もう少し待ってろと伝えてくれの」
狸擬きはこの山の主に近付くと、それを伝えたらしく2匹で寄り添い、じっとしている。
男は、赤飯おにぎりを片手で頬張りつつ、机の紙に、
「あの獣はなんと言ってる?」
と訊ねて来たため、礼を伝えられたこと、こちらからはおにぎりを持たせると書いて答えると、
「あの狸もここに残るのか?」
と聞かれ、
(んん……)
多分残らないと答えると、
「残念、取り分が減る」
とわざと大きな溜め息を吐いてみせてから、笑う。
食べたら食べた分だけだけ、影響が出るかもしれないのに。
男の気遣いなのだろうけれども、こちらは少しばかり気が気でない。
食事が終わっても赤飯が炊き上がるまで、テーブルに向かい合いながら、この山を超えると少しして岩峰が見え始め、道を辿っていくと、岩山たち囲まれた街があると教えられた。
その男に、
「ここの山の主に、少し木の実を採らせてもらっていいかと許可を貰えないか」
と頼まれ、伝えると、こちらの狸擬き経由で、
「甘い菓子の礼に幾らでも」
と、
「目当てがあれば場所も教える」
と返ってきた。
(おぉ、菓子の恩恵は凄いの……)
馬車より徒歩の方が良いと告げられ、赤飯を握ってから山に入ることにしたけれど、男に軽く持ち上げられた。
「自分で歩けるの」
と抗議してみたものの、思ったよりも足場は悪く、青のミルラーマとはだいぶ違う、野生じみた、もこもことした見た目より遥かにゴツゴツした山で、男に大人しく抱かれて狸擬きたちの後を追う。
狸擬きたちはそれでも低い位置に生えている木の実や山の秋苺を見つけては、尻尾を振る。
甘い甘い香りなのに虫はとても少ない。
カゴに摘めて、摘み終わるとまた別の場所へ。
「こんなによいのかの?」
一度馬車に戻り摘んだものを置いて、また摘ませてくれるという大盤振る舞い。
ここは獣も少なく、いても果実を食べるものは少ないのだと教えてくれた。
山を少し登っても男は全く息を乱さない。
茶色の小さな蛇を見掛け、男に、あれは食べないのかと食べる仕草をしたら、
「……」
我を抱きながら、少したじろがれた。
(ぬ、こちらでは食わんのか……)
秋苺だけでなく、蜜柑に似た橙色の果実ももぎ取り、2往復すると、こちらの狸擬きが前足をタシタシし、そろそろおにぎりを寄越せと催促してきた。
「の、感謝するの」
ぺたりとその場に座り込む2匹に、それぞれ大きめの赤飯おにぎりを渡すと、男まで笑顔で手を出してくる。
(まぁ……)
運んでもらったしの。
秋でもわりと陽は高い。
これから山を抜けるのかと、狸擬き経由で山の狸擬きに聞かれ、多分と頷くと、ならば向こう側までは案内しようとまた親切を申し出てくれたけれど、それは赤飯おにぎりの礼らしい。
貸し借りはなしにしたいと。
男にそれを伝えると、ならば急ごうと片付けを始め、そこらで佇んでいた馬を促し、人の通り抜ける山道に馬車を進めた。
足が逞しい馬だけあり、思ったより遥かに、楽々と山道を越えていくし、本領発揮のように、馬たちは少し楽しそうにすら感じ、低い山とは言え、少しの休憩を挟んで反対側に降りられたのは、陽が落ちる直前だった。
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