第17話

男は、ここは1泊にして早々と出発しようとも考えたけれど、我の言う通りだと、明日は天気が荒れそうで足留めをくらいそうだとも紙に書かれた。

予想は当たり、まずは夜半に風が強くなり、その風が運んできた雷を含んだ雲が、翌日の昼前から、腹を下したように活発に動き始めた。

男は当然平然としているし、我も自然の音に関しては、どんなに賑やかでも気にならない。

一番怯えているのは狸擬きで、ベッドの中に潜り込み、ちらと覗いた所、短い前足で必死に耳を押さえていた。

敷物の上で、男に文字を教えてもらう。

しかし段々と空気がずんと重くなり、男が欠伸をし、ベッドで布を被る狸擬きを枕にし横になった。

我はまだ文字の練習でもと思ったけれど、横になった男にこいこいと呼ばれ、隣に横たわると、また腕の中にくるまれ。

(あぁ……)

心配なのだなと気付き、大人しく目を閉じた。

何の夢も見ない。

ただ、決して、慣れてはいけない男の胸の中の心地よさを、少しばかり、感じただけで。


目が覚めたのは、時間が少し曖昧だけれど、豪雨に混じり鐘の音がし、鐘の音の数で、こちらの時間で午後の2時位を過ぎたくらいだろうか。

雷が収まると、狸がもぞもぞと布から出てきて、男の頭が布団に落ちる。

敷物の上に降りると、尻尾を振ってきた。

男も頭を落とされたせいで目を覚まし、腕の中に我が居ることに安堵した様に微笑むと、いい子だとでも言いたげに髪を撫でられる。

(ぬん……)

なんとも言えない感情に慣れることはなく、起き上がると、狸の期待に応え、荷物から茶葉と菓子を取り出す。

(少し、心許ないかの)

数日に一度のお楽しみのつもりが、ほぼ毎日のようにティータイムをしてしまっているのだから仕方ない。

(しかとあまりに菓子が美味なのも困りものの……)

あれだけ雨を降らせていた雲は満足したのか、午後の夕方前にはあっさり霧散し、夕焼けまでちらりと顔を覗かせている。

そんな時間に、部屋の扉がコツコツと叩かれ、男は酷く警戒した顔をし、我も扉を叩いた者は分かっていたけれど、用心することに越したことはない。

男がより低い声で返事をしドアを薄く開くと、そこにいたのはやはり出張所の女で、男の警戒した顔付きに驚いている。

女は、子供、我がいるためか、甘いものを詰めたカゴををわざわざ差し入れに来てくれたらしい。

こういう場合、元いた世界で読んだ書物や、通りすがりに見掛けた民家の庭先などでは、客人を家の中に招き入れる事は多々あったけれど、男は礼だけを伝えて扉を閉じてしまった。

いいのだろうか。

いや、むしろ、女のことも警戒しているのかもしれない。

そうでないことは、翌日に知ったのだけれど。

「のの……」

包装は決して華美ではないものの、飴玉の様なもの、果物の甘い液体が入った瓶、柔らかそうなパンや肉はここの住人が食べているものだろう。

男は少し困惑した顔をしていたけれど、こちらの期待の視線と、狸擬きのフンフンと鼻を鳴らす姿に、ふはっと噴き出すように笑い、我の口には少し懐かしさを感じる、からめるのような黒砂糖を焦がしたような飴を転がしてくれ、狸擬きには薄いビスケットを前足に挟ませている。

男が飴玉でぽこりと膨らんだ頬をつついてきて、反対に転がすとまたつつかれる。

飴が小さくなるまでそんな遊びをし、男は、明日は早朝に出発しようと紙に書いてきた。

行商人も旅人も朝は早いため訝しがられることもないと。

菓子も早く補充しないとなと書かれつつ普段は狸擬きが背負う大きな鞄を指差され、さっきの菓子への心許なさを見抜かれていたらしい。

「ぬっぬぅ!お主も食うとるじゃろのっ」

図星が恥ずかしく男に飛び掛かると、男は笑いながら後ろに倒れ込む。

「のぉっ……!?」

つられて男の身体に倒れ込み、笑う男のせいで身体が揺れる。

低めの男の声のため、到底鈴の音とは言いがたいが、とても耳に心地好い笑い声だと思う。

身体を起して男の腹に跨がり、見下ろすと。

男もじっと我を見上げてくる。

(あぁ……)

いつまでこの男と居られるのかと、そんな考えが頭に浮かぶ。

まだたった、ほんの数日一緒にいるだけなのに。

「……」

男は自分を見下ろしてくる我に微笑みつつ目を細め、

「何だ?」

と言いたげな顔をし。

けれど何もい言わずに、男は黙って片手を伸ばすと、我の頬を包むように触れてくる。

(温いの……)

手に平は硬いのに温かい。

もう片方の手の伸びてきたけれど、指先で流れる黒髪を、掬いそっと背に払われる。

我の心は、もう少しこの男と一緒に過ごしたいと思っている。

言葉もそう。

交わしたい。

しかし。

(どうしたものかの……)

自らの心でこんなに迷うことなど、この身になってからは勿論、この世界に来てからも始めてだ。

せいぜい食べる菓子で迷うくらいだったのに。

(困ったの……)

小さな傷かいくつも残る男の手の平に、目を閉じて頬を擦り付けると、背後で狸擬きが、ぶしゅっと小さなくしゃみをした。


「昨日もお主は身体を拭いただけだったの!」

「フーンッ、フーンッ!」

短い足を突っ張り、残像が見える程に高速でかぶりを振りながら、必死に風呂を抵抗する狸擬きに、

「なら今宵はベッドでは寝かせられんの」

の脅しでも効かず。

持ち上げても良かったけれど、昼間も雷で消耗していたことを考慮し、今夜も硬く絞った布でゴシゴシと毛を拭いて許してやる。

風呂場は硬く四角い浴槽と、太い蛇口。

水を張り、そこに熱した石を沈めて温める。

浸かるのではなく、その湯で洗った身体を流すだけのものも少なくないと聞いた。

男に髪を乾かしてもらいながら、出発が早朝なら夜のうちに握り飯を用意しておくかと考える。

狸擬きは敷物の上に丸まり、ベッドには上がってこない。

男と2人でベッドに潜ると、やんわりと男の腕の中に包まれる。

「……」

男の胸に額を当てて、深呼吸をする。

静かな夜、酒場の賑やかな声は微かに聞こえてくる。

集中すれば、我等を意識している者がいれば、気配くらいは伝わってくるのを、感じることくらいは出来るけれど。

今は。

(まぁ、よいの……)

意識を、男の鼓動に向けると、絶えず流れ続ける体内の血流すら聞こえてくる。

大丈夫。

そう。

(この男がいる限りは、大丈夫の……)


早朝の出発と聞いていたし、そのつもり、ではいた。

けれど、目を覚ました時にはもう陽はほどほどに高く登っていた。

すっかり寝過ごし、男も苦笑いだ。

雲は疎らで空は薄藍。

行商人も旅人も、早朝出発は珍しいどころか半数以上はすでに馬車が消えており、残ってる馬車は今日はここに留まる者が大半だという。

荷物を積み、売り物も早朝の客が買い漁って行き、棚が空き始めた店を覗いて物を補充し、男に馬車の椅子に乗せてもらっていた時。

出張所から駆けてきた女の声に男が振り返り、女が息を乱したまま男の前に立ち、何か必死に訴えている。

(あぁ……)

決して大きな声ではないけれど、その表情と声色で、愉快な話ではないのは、理解できる。

むしろ。

(ま、解らない方がおかしいの……)

あえて無粋な言葉にするならば。

「私も連れて行って」

だ。

男は察していたからこそ、昨日のあの対応だったのだろう。

男は、言葉少なに何かを口しに、女は肩を落とし、ただその場に佇むだけ。

男は馬車に飛び乗ると、女を避けるように馬を動かし、女の背中は、ただ小さくなっていく。

「……」

村を出ると、まだ少し畑などはあったけれど、もう少し進むとすぐに、左右に壮大なすすき畑の様な土地が広がるばかり。

男が煙草を咥え、指先で火を点ける。

じっと見上げていると、男は、

「?」

と、ただにこりと笑みを見せてくる。

(のの……)

そうか。

男には、あれは決して珍しいことではないのだ。

いつから行商人として旅をしているのかは知らないけれど、旅の初めから、ああいう事は珍しくない、きっと、わりとよくある事なのだろう。

だから何も気にしていない。

慣れっこで、むしろ、別れの挨拶程度にしか思っていないのかもしれない。

「……」

いや。

(そこまでではないかの……)

この男には存分な優しさがある。

ただその優しさを履き違えない賢(かしこ)さと聡さも十分にある。

まだ男をじっと見上げていたせいか、煙草を吸いたいのかと唇から外して見せられたけれど、違うとかぶりを振り前を向く。

男はしばし考えるような横顔を見せてから、胸や鞄のポケットをパタパタ探り、あったあったと見付けたのは飴玉で、今度はうっすら紅い玉を、我の口許に運び、我のあーんと開いた口の中にころりと転がしてくれた。

(の……)

口の中に平がる濃い香りと風味は。

これは。

「ふぬぬ」

苺の。

(ぬぬん、美味の)

コロコロと舌で転がしていると、男の手が伸びて来た。

また頬をつつかれるのかと思ったら、男に肩を抱かれた。

(……のの?)

男は前を見たまま、少しばかり眉を寄せて。

そう。

(……そうの)

きっとあれは、たまにあるはずのことで、そう、その度に男は賢さと聡さで、その選択を間違えたりはしない。

けれど。

男の心はちゃんと痛んでいるのだ。

その度に。

今も。

男に頭をもたせかけ、飴玉を転がす。

甘くて、少し酸っぱい。

あの女には、きっと、このすすきの草原は、永遠の様な広さに見えているのだろう。

そしてまた、自分をここから連れ出してくれる男を、また別の旅人に期待を寄せて待つのだ。

いつまでも。

いつまでも。

「……」

男の身体にこめかみを擦り付けると、我の肩を抱く男の手に、更に力が込められた時。

不意に、

「……ッ!……ッ!」

と酷く何か訴えるような気配が伝わり、

「?」

馬車を停めて欲しいと、思わず男の袖を引っ張ると。

「フーンッ!フーンッ!!」

と馬車が通り過ぎてきた道から、狸擬きが物凄い勢いで走ってくるのが見えた。

「……ののっ!?」

てっきりもうとっくに荷台に乗り込んでいると思い、確かめもなかったし、男も同じように思っていたらしい。

あまりに慌てているせいか、短い足をジタバタ動かし、必死に駆けてくる狸擬きを見て、

「んっ……ふっ……!ブフッ……!」

初めに吹き出したのは男だった。

煙草の煙に噎せても、腹を押さえて笑い出し、必死で堪えていたこちらも我慢がならずに、

「あはっ……!」

声を出して笑ってしまった。

追い付いた狸が息を切らしつつも非常に憮然とした空気を醸し、

「フーンッ!!」

前足どころか、四つ足でその場でジダジダと地面を踏み付けて怒っている。

「すまぬ、すまぬの……あははっ!!」

謝りはしたけれど、笑いはなかなか収まらず。

2人で呼吸困難に陥る程に笑ってから、隣に非常に不穏な空気を滲ませて座る狸擬きに、握り飯を3つ渡して何とか機嫌を取った。

羨ましそうな顔をする男にも2つ。

(何ともとんだ珍道中の……)

握り飯を3つ、何とか大っぴらな不機嫌はなくなった狸擬きだけれど。

「の?なんの?」

こちらを見てスンスン鼻を近付けてくる。

唇辺りで鼻を鳴らされ、

「あぁ、飴玉の。ケーキなどは食べておらぬの」

狸擬きが、ならいいと言わんばかりに身体を戻すと、

「……んのっ?」

今度は男が唇に鼻を寄せてきた。

「のっのの、お主は前を見るのっ」

自分でも驚くほどに動揺して男の顔を押し返すと、男はまた笑いながら、ちらと舌を出して手綱を引く。


少しだけ、吹く風が冷たくなってきた気がした。

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