第13話
深く広い森も、霧もなければ柔らかな木漏れ日に耳に心地好い鳥の囀ずり、小動物が逃げていく枯れ葉を踏む足音。
濃い土の匂い。
けれど。
(川は少し遠いの……)
男は、森に入るとしばらく辺りを見回し、こちらを見てきた。
「何をしたのか、いや、まさかこの幼子が?」
といった懸念と疑問符の含まれた眼差し。
「雨が降るとよくない」
と聞いたため、晴れていれば男もそう違和感も覚えなかろうと思ったが、どうやらそうでもないらしい。
男をじっと見つめ返すと、男は肩を竦めて視線を戻す。
狸擬きも今は隣で珍しくぺたりと、後ろ足を前に放り投げて座っている。
やはり森に住んでいただけあり、知らない森にも興味があるのだろうか。
鼻をすんすんして何か匂いを嗅いでいる。
つられて鼻腔に意識を向けて見るが、水を含んだ泥の匂い、草木の匂い、虫たちの匂い、獣の匂い、糞の匂い、甘い花の芳香。
数えきれない。
(ぬ……?)
ふと、獣の、小さな獣の臭いが鼻腔に届き。
それは、男の座る方角から。
と思ったら、男がどこに隠していたのか、ブーツのどこからか外した、小型の刃物を手にしており。
好奇心旺盛に後ろ足を立てて深い草むらからこちらを覗いていた耳の短い黒い兎。
その脳天に見事に刃物の先をヒットさせ、馬車を停めて飛び降りていく。
(御見事)
こちらも飛び降りて付いていくと、男はナイフを引き抜き、その場の草むらで、血抜きと解体を始めた。
頼まれて桶に樽の水を注ぎ男の元に運ぶと、剥いだ毛と皮を広げ、血抜きをし、内蔵を取り出している。
(血は鮮やかな朱色の)
見惚れるほどの、とろりとした。
心臓部分を血塗れの指で取り出した男がこちらに見せてきたため、
「?」
意図が解らずかぶりを振ると、男は頷いてからそれを躊躇いなく口に含みもぐもぐと食べた。
こちらでは食べるものらしい。
他の内蔵はその場で捨てられ、他の獣の餌になるのだろう。
(心臓は、美味なものなのだろうかの)
青熊たちは肉すらも臭くて、とても食べられたものではなかった。
けれど青熊の数が減っていくにつれ、稀に人が通るようになり、その通り道に放っておくと、毛から皮から内臓まで綺麗に持ち帰ってくれ、とても有り難かった。
兎が肉だけになると男は荷台へしまいに行く。
冷蔵庫、ではないけれど、例の石の力で冷やせるらしい。
そう、あの石、万能石と勝手に呼んでいる石は普通に店に売っていた。
日用品や旅の道具に混じっても。
(そうだ)
男に聞いていなかった。
「魔法」と言う言葉は正確にそれなのかは分からないけれど、意味は通じている。
戻ってきた男が再び馬車を歩かせ、訊ねようか迷ったけれど。
(……ふぬ、訊ねるのはまた夜にでもしようかの)
男がまだ獣の気配を探しているため、黙って狸擬きの毛を撫でる。
結果、森の中ほどまでで3体。
血塗れの手でまた小さな心臓を見せられ、黙って口を開くと、口に入れてくれた。
(ふむん。……血生臭いの)
ぶちゅっと口の中で小さく弾けるが、特に美味いものでもなく。
(ぬぬん、ただの動物の内臓の……)
むぐむぐ噛んでいると、男の胸ポケットから取り出された布で唇を拭われる。
血が付いていたらしい。
(なんぞ、世話焼きよの……)
3つ目は男が狸擬きに見せていたが、狸擬きは見事に後ずさって激しくかぶりを振りつつ尻尾をぐるぐる回転させていた。
「なんぞ、その動きは」
男と共につい笑ってしまう。
兎の心臓は人間には滋養強壮の役割でも果たしているのだろうか。
森の中は夕暮れが早い。
「ぬ……?」
森の中でも少し開けた場所に出ると、小さな小屋があった。
人のいる気配もなく、使われたのは、
(どれくらい前だろうかの……)
探っても人の気配はとても薄い。
冒険者や行商人が使う小屋なのだろう。
窓は小さく、小屋も扉も厚く重い木製。
それでも外には井戸もあり、なかなかに恵まれている。
男がドアを開くと、埃と少しのカビの臭い。
中は、5畳程度の広さだろうか。
入ってすぐに、古い古い木のテーブルと、割りと新しく感じる椅子が4脚。
右にコンロを置くだけの幅のある出っ張った低い棚と、奥はあの万能石を置いて冷やす冷蔵庫のような、我の背丈より高い箱。
左手には壁に沿うようにベッドの木枠。
案外埃は少ないけれど、されど拭かないと使えなさそうだ。
男が桶に水を運んできた。
手分けして拭き上げてたけれど、狭いためすぐに終わる。
狸擬きは、外で、馬の前でじっと馬たちを見上げている。
話が出来るのだろうか。
壁に造り付けのランプの皿に、男が四角石を乗せて灯りを点けた。
こちらはコンロの棚に炊飯器を置くとスイッチを押し、男は水を汲み馬に飲ませている。
「……」
その男のシャツの裾を摘みくいくい引っ張ると、
「?」
と聞いてくるため、森の、先へ進むであろつ方角を指差し、行きたいと伝えると、やはり当然渋られた。
狸擬きに乗ること、炊飯器を見せてこれが鳴ったら必ず戻ること何とか伝えると、頭に手を当てた男は、眉を寄せつつ何とか了解してくれた。
森の先は、晴れ間が見えて見えにくいけれど、人影は確実に漂っているのだ。
狸擬きに乗って奥へ急ぎ、それっぽいものを見つけると、纏めては丸めるを繰り返し、狸擬きも慣れてきたのか、人の形を見掛けると向かうようになった。
続けていると、あと、1、2体にまでなった。
けれど。
(ぬ、そろそろ時間の……)
心配される前に帰らなければ。
狸擬きに掴まり、だいぶ清らかになった森を抜けて戻ると、男が小屋から出てきたところだった。
あからさまに安堵した顔をされ、
(堪忍しておくれ。お主を含む我等の安全な旅路のための)
小屋の中からら、ピーッと炊飯器が赤飯が炊けたと音を鳴らし、汁物のいい匂いもしている。
狸擬きが、スンスンと鼻を蠢かながら小屋へ入っていく。
しかしこの男は。
(とかく仕事が早いの)
あの狩ったばかりの兎の肉を、焼き始める所だったらしい。
男がフライ鍋で肉を焼いている間、我は隣で赤飯を握る。
テーブルには年期の入った木の鍋敷きの上に焼けた肉の乗ったふらい鍋が置かれ、野菜が多く入ったスープに赤飯おにぎりでの夕食。
狸は早々と椅子に腰掛け前足をテーブルに乗せている。
2人と1匹で手を合わせ、いただきます。
「ののぅ」
(兎肉、柔らかくて大変に美味であるの)
塩と香辛料だけの味付けもいい。
スープも、粉末にした出汁、ブイヨンを入れていたけれど、手作りなのか売っているものなのか。
聞きたいけれど、わざわざ画板を取り出してのことでもなく、淡々と、無言の食事になるけれど。
「……♪」
狸擬きのご機嫌な空気。
そう、美味しいことには変わらない。
その狸擬きは、まず一番好物の赤飯おにぎりを食べてから、器用にフォークとスプーンを操っている。
箸も与えれば、難なく使いこなしそうではある。
美味しい食事の後。
片付けをしてから、男が多分冷蔵箱と思われるものの前で、背を向けて身体を拭いている。
こちらも狸の毛を水で濡らし硬く絞った布で拭いてから、男に倣って自分の身体を拭く。
外から、葉の揺れ擦れる音。
男が、荷台の布団を持ってきて板張りのベッドに敷き、2人で俯せになり、小屋まで持ってきた画板で話をした。
魔法の話、ではなく、ほんの他愛のない会話。
男は絵が上手いため、見るもの楽しい。
知らないフルーツ、見たことのない野菜、食べたことのない料理の絵。
男は、言葉が伝わらなくとも言葉を声に乗せ、その低い声は耳に心地良い。
寝るという行為は、人を真似ているだけで、更に自分で寝ると意識して眠るものだったのに、
「……」
(何だか、ぼんやりするの……)
この小屋にも「睡魔」とやらが住み着いているのかもしれない。
「ぬぅ……」
その眠気と言うもので、うつらうつらするのは、案外、そう悪くもない。
けれど、まだ話したい。
話したいのに。
「の……」
男の匂い、体温、吐息、足先に感じるのは狸擬きの毛の感触は。
あぁ、とても。
(柔らかいの……)
男の声で、
「また明日」
と囁かれた気がする。
「おやすみ」
とも。
甘く優しく、柔らかな声で。
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