第12話

食後は、水場が遠いため最低限で洗うか拭くかし、男は馬用の簡易の天幕を用意している。

こちらの馬は警戒心が薄く、しっかり横にもなるし、しかもよく寝るらしい。

確かに狸擬きも、臆病どころか警戒心の欠片もないしの。

その狸擬きは、満足そうに敷かれたままの敷物の上で仰向けでひっくり返っている。

(ぬ……?)

ほんの微かに遠く遠くから、狼のような遠吠えと、更に遠くから、空気に混じりごく微量の水の気配。

男に画板で、水滴のマークを描き、朝くらいには雨が降りそうなことを身振り手振りも交えて何とか伝えると、男はそれを多分理解したのち、降ろし掛けていた自分等の天幕を張らずに荷台を指差した。

狸擬きを転がして敷物を回収し、荷台の後ろに少し埃の匂いのする布団が敷かれ、踏まないように手前で下駄を脱いで足袋も脱ぐ。

畳んで足許に並べると、巫女装束をはだけ襦袢も脱ぐ。

代わりにキャミソールとかぼちゃパンツを身に付けていると、外にいた男はそのまま靴を脱ぎ、服を脱ぎ、裸で、正確には肌着一枚で荷台に飛び乗ってきた。

引き締まった身体を見ると、我が考えているよりもう少し若いらしい。

まだ三十路前といったところか。

荷台の端でおとなしく待っていた狸擬きの4つ足を拭いてやると、荷台の後ろの留め具を外して降ろした幌の、布団からははみでた方に身体を横たえている。

「……」

ふと、人間と一緒に寝るなんて、これも長い妖生で初めてだと気づいた。

(ふぬ、少なくとも、寝ることはなかったの)

だからなんだと言う話だけれど。

枕許には小さなランタンの灯り。

男と狸に挟まれて布団の上に仰向けに横になる。

「……」

きゅっとキャミソールを握ると、腕を枕にしてこちらに横向きになった男が、どうした、と灰色の瞳で訊ねてくる。

薄暗い中でも人間の瞳に映る自分の姿は、とても小さく幼い。

「なんでもないの……」

少し落ち着かないだけで。

仰向けのまま片手で狸擬きの毛をまさぐると、くすぐったいのか、狸擬きは小さく身動ぎをする。

目を閉じると、男が薄い布を掛けてくれ、すっと灯りが消される。

(あぁ……)

どんな原理で消されるのか、見損ねてしまった。

まぁ。

機会も時間も、飽きる程ある。

また遠く遠くから、狼のような遠吠えが聞こえ、あの若い白い狼を思い出した。

もうあの青年と狼は家には帰ったのだろうか。

いつかの帰り道には、寄り道するのもいいかもしれない。

帰り道。

そう、いつかはあの青のミルラーマと呼ばれる山へ帰るつもりだ。

この隣の狸擬きも、一度帰らせなければ。

季節をいくつ数えるかは分からないけれど。

この身体の時間は無限。

右手から、ざるから溢れてくる小豆の様に。

そう言えば、雨の日の移動はどうするのだろう。

つらつらと考え事が浮かび、眠りたいのに、眠れない。

この身体にもどうやら神経と言うものが備わっているらしく、それがどうにもピリピリして眠れないのだ。

暗闇で目を開くと、男はまだ腕を枕にしたまま、横向きで眠っていた。

「……」

寝たふりではなく、呼吸は深い。

何とはなしに男の顔を見ていると、神経がピリピリしている理由が解った。

(外に、何かいるの……)

馬車が丈夫なせいとこの身体が軽いせいで、そっと立ち上がっても軋みも物音もしない。

裸足のまま狸擬きを踏みつけても狸擬きは声は出さない。

代わりに、何だと面倒そうに顔を上げて来たため、

(そこで待つの)

幌の隙間から草むらに飛び降りると、どうや、馬目当ての獣が、そう遠くもない場所から、轍を越えて近づいて来ているのが分かった。

手の平から溢れさせた小豆を少し握る。

馬の天幕の前に立つと、地を這うようにやってきたのは、

(……なんだ?とかげ、かの?)

なんだったかの、あの、そう、オオサンショウウオと蜥蜴を混ぜたような、横幅は40~50、縦は1メートルくらいはある大きな蜥蜴擬きが5匹。

色は、夜行性のためか黒っぽい。

瞳は宵闇でも艶があり、ぬらりと光っている。

残念なことに対話などは出来なさそうで、こちらの意思も通じない。

そして相手からは、馬だけでなく、我も餌として認識されている事は伝わってくる。

(ふぬ……)

とりあえずのご挨拶で、一番前に陣取る1匹の、ぐねりと曲がった右前足に、小豆を指で跳ねて飛ばしてみた。

「ギッ……!」

身体は柔らかいのか、呆気なく貫通した。

これで諦めてくれれば、生かして帰してやる。

狸擬きとまではいかないけれど、多少の意思程度なら通じるだろう。

「……」

恨めしそうな蜥蜴擬きたちと、少しの間対峙していたけれど、一番前の1匹が前足を庇い、3本足で身体の向きを変えて太い尻尾を見せると、他もそれに習いズルズルと去っていく。

荷台に戻ると、男は起きているかと思ったが、ぐっすり眠っていた。

その辺の気配には過敏だけれども、確かに眠っている。

(旅人の割りにずいぶん無警戒の……)

呆れつつも足の裏を拭いて男と狸の合間に収まり、布を掛け直す。

狸は起きてはいるものの動かない。

知らない虫の鳴き声。

風に乗って雨の匂いが、思ったよりも、早く近づいて来た。


(旅人になるには、魔法がいくつも使える才をそもそも兼ね備えているのか、どうやってか後付けで身に付けるのか……)

雨の朝は、布団を畳んだ幌の中で、赤飯おにぎりとお茶。

男は朝は食べないらしく、けれど目の前に並べれば、ニコリとして赤飯おにぎりをまた美味そうに食べている。

馬に馬用のカッパを被せ、男も頭から足許まで覆われる雨避けカッパを被っていたけれど、我が雨避けすら持っていないことに、信じられないと言った顔をし、

「荷台に居ろ」

と身振り手振りで伝えられた。

雨降りの中の移動は、景色もぼんやりとし、狸擬きも荷台の端で丸まったまま。

朝の食事の後に、夜に馬が襲われることはないのかと聞いたら、ここらの馬はとても強いらしい。

(ぬ、そうなのか)

でなければ旅にも連れて行けないと。

(なんと。別に守る必要はなかったの)

ふっと息を吐いて幌の隙間から顔を外に覗かせると、低い雲。

あの上を、鯨と蛇はまた飛んでいるのだろうか。

雨雲も雷雲もあやつ等は食べるのだろうか。

雷雲は、口の中が弾けそうだ。


走る馬車の荷台で、画板で文字の練習と、簡単な絵の練習をしていたけれど。

(ぬ……?)

雨が段々強くなり視界が悪くなってきたせいか、馬の足も遅くなる。

やがて馬車が停まり、狸擬きはなんだと言わんばかりに寝ぼけ眼で顔を上げている。

「お主はよく寝るの」

「……」

飽きもせずに。

何か言いたそうな顔はするが、何も伝えて来ることはなく、また顔を埋めてしまう。

男が雨具を脱ぎつつ、荷台に上がってきた。

雨具はそのまま、荷台の外のでっぱりに引っ掛けられる。

雨が強く進めないと、手振りで教えてくれながら、幌の中の薄暗さに驚いた男が、ランプの石に火を点けた。

そして体力温存のためか、そのまま板の上に寝転がり目を閉じてしまう。

狸擬きもそうなのだろうか。

そんな丸まる狸擬きに背中を預けて、鞄からもう古い古い絵本を取り出す。

こちらの世界の文字を覚えてから、向こうの文字が読めなくなっているのかが気になったのだ。

(1文字も忘れずに、とうに暗記はしているけれど……)

まるっこい愛嬌のある日本の文字は健在で、普通に読めた。

縁があり、ほんと一時、生きてきた時間と比べると砂の一粒もない様な時間を、山の中で過ごした、若い女からの贈り物。

もうとっくの昔に天に召されているだろうが、人としての生は全う出来ただろうか。

自分の、この人ではない力が本にも籠っているのか、とうに朽ちていてもおかしくないこの絵本は、驚くほどに劣化は遅い。

絵本を捲っていると、ふと視線を感じ、瞳だけを上げると、正面に横たわる男がこちらを見ていた。

しかし目が合えばすぐにニカリと笑い、絵本に興味があるのか身体を起こして目の前にあぐらを掻く。

見せてやると、多分、着色があることに驚いている。

絵本の台紙の固さなども気になるらしい。

それでも丁寧に触れて頁を捲り、じっと眺めてから、ありがとう、らしき言葉と共に絵本を返された。

立て掛けていた画板に、今日は進まないのかと書いて問うと、

「これからしばらく深く長い森に入る。でもここの森の雨はあまりよくない」

と返ってきた。

(あまり良くない?)

ふぬ。

男も、説明が難しいらしく、何か書こうとするけれど、筆は進まず、かぶりを振るだけ。

もしかしたら、先の森も、あの山を抜ける時にあった霧の様なものが蔓延っているのだろうか。

雨は早く降り始めたお陰で昼には雲が抜けて、雨は上がりそうだけれども。

(ううん……)

どうやらしばらくは動けない。

ならば。

荷台の端にある狸擬きに背負わせていた鞄から焼き菓子を取り出すと、狸擬きが音に反応してむくりと顔を上げて隣にやってくる。

「お主は本当に分かりやすく現金の……」

何をするのかと興味深そうに眺めてくる男に、お茶の葉の入った袋を見せると、また楽しそうにカップを3つ用意してくれ、コンロを出してくれる。

確かに3人分なら男の大きめのコンロの方が早く沸く。

馬車の荷台でのんびりお茶をお菓子を『てぃーたいむ』を嗜みながら、雨音の中から森へと耳を向けてみる。

雨音が消え、耳に届いてくるのは、どうやらこの世ならざるものの引き摺るような、ほんの微かな途切れ途切れな足音。

雨と相性のいいらしく、徘徊している。

幽霊、いや『ごーすと』に近いのだろうか。

違いはいまいち分からないけれど、日本のこの世のものではない者を静とすると、森にいるものは動。

それらが1体ではなく徘徊しているようだ。

(ふぬ……)

刻んだ果物を甘く煮詰めたものが混ぜられた、しっとりとしたパウンドケーキに近いであろう焼き菓を食べきると、指を舐めている男に、向かい外に出たいと幌の隙間を指を差す。

男は驚き、更に、なぜだと困惑した表情、当然躊躇する表情を見せたけれど。

「少しだけの、すぐに戻るの」

と何とかせがむと、言葉も通じず埒が明かないと気付いたのか、男が渋々折れてくれた。

男は立ち上がり、奥にたくさん詰まった荷物を探り、布の薄いポンチョらしい物を頭から被せてくれた。

礼を述べて狸擬きを促し先に下ろすと、

「あやつが心配するから少し急ぐの、乗せてくれの」

荷台から狸擬きにぽんと股がると、乗った途端に走り出されて身体がぐっと仰け反った。

「のぉっ!?」

やはり早い。

幼女1人とは人を乗せているのに、地面はじっとりと水を含んだ悪路でも、そんなものは全く感じさせない足取りの軽さと速さ。

瞬きの間に到着した森の入り口から目をすがめると、地面には更に至るところに泥濘があるため、貍擬きに乗せてもらったまま、森の中に入り人影に近づいてみる。

一見、やはり霧が濃く人の形をしているだけ。

それでも、それを人間が見たら何を思うかは、想像にかたくない。

そこで初めて人の形をした霧が、存在することを意識し、更に人に存在を認められ、人が想像するように、徘徊を始め、人の生気を吸うと思われ、現実にも、生気を吸うようになる。

手を伸ばしかけ、手が止まる。

「……ぬぬ」

ここまで来て、所謂「祓う」に値するに行為を、ほんのりと躊躇している理由は、やはりこれらを勝手に、我の身勝手で消滅させても、この世の断りを歪めてもいいものかと躊躇するからで。

我を乗せる狸擬きは、ひたすら意思のない乗り物として我の下で気配を消している。

(ふぬ、保身に長けた賢い狸の)

そんな狸擬きの少ししっとりした毛をさわさわ撫でながら、

(まぁ……)

そうは言っても。

我はすでに青熊も殺生の限りを尽くし、あの森の霧も払い除けてしまった。

迷うのは数秒。

今日は楽しみにしていた「てぃーたいむ」も早々と済ませてしまったし、雨は若干小降りになってきた様だし、先へ進みたい。

「……んしょの」

狸擬きに頼み、特に濃い人の形の霧の近くまで運んで貰い、手を伸ばし、と言っても所詮子供の腕、長さはない。

代わりに意識を込めて手の平でそれらを引き寄せ、掴んではぎゅむぎゅむと固めていく。

何やら悲鳴か断末魔が聞こえた気がするがきっと気のせいだろう。

狸擬きが顔だけこちらを振り向けてドン引きしている気もするが。

所詮人の作り出した想像の産物。

「ふん、嫌なら里へ帰ればよいの」

白い霧の森よりも遥かに広い広い森だけれど、彷徨っているもの自体は少ない。

「んしょ、んしょ」

移動しては引き寄せては固めて丸めて鞄にしまうを繰り返していると、森の外から男の声が聞こえて来た。

何を言っているかは分からないが、大きな、そして焦りを滲ませた声。

(の?そんなに時間が経っていたかの?)

とりあえず。

「悪いの、男の元へ戻ってくれの」

急ぎでと狸擬きの毛を掴むと、

バビュンッ!!

と森の木々をすり抜けていく狸。

(のおおお……!?)

森を抜けると雨はほぼやんでおり、男が口許に両手を当て、何か叫んでいたが。

弾丸のように走ってくる狸擬きとそれに乗る我を見て、目を見開いて動きを止めた後。

「……の?」

ほんの数秒後には男の目の前に到着すると、男は目を見開いた後に、さもおかしそうに眉を寄せて、そして声を上げて笑いだした。

(なんの……?)

面白いことでもあったかと男を見上げると、男は笑いながら身を屈め両腕をこちらに伸ばし。

「のっ……?」

あっさりと狸擬きに股がる我は、男に抱き上げられた。

そして、片腕に乗せられるように抱かれ、互いの顔が対面に向くと、男は苦笑いし、こつりと額に額を当てられ、何か言われた。

言葉は解らないが、そのため息の含まれた言葉は、きっと。

「心配させるな」

的なことだろう。

(ぬ、ぬぅ……)

「……すまぬ」

昨夜、男の灰色の瞳に映った自分は幼子そのもので、男には、まごうことなきその姿に見えているし、実際もそうなのだ。

今は、

「1人ではない」

と言うことをもう少し配慮すべだった。

男もこちらの謝罪を理解してくれたらしく、目を細めて頷かれる。

(しかし……)

人間の男の腕に乗せられる、抱き上げられることなど初めてで、いや、まだ記憶も曖昧な頃に、悪い人間などに、もしかしたら拐われかけた時には、小脇に抱えられたことならあるのかもしれないけれど。

慈しみの含まれたものなどは、初めてで。

「……」

(別の世界だと、また思ってもみない色々な体験をするの)

腕に抱えられた視界の高さが、酷く新鮮でもある。

またどこかへ行かれたらかなわないとでも思ったのか、腕からは降ろしてもらえず、男に抱かれたまま馬車まで戻ると、空にはゆらりと晴れ間が見えてきた。



閑話休題

白い霧と白い徘徊する人型を飴玉程度に丸めたものを、試しに食べてみたものの。

やはりそう大して美味いものでもなく、ただ狸擬きが、その表情だけでなく、身体ごと引いて文字通りのドン引きした姿を見せてくれた。

ふん、悠久とも言える長い妖怪妖生、何事も経験なのだ。|



御見事おんみごと幼子おさなご

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