第11話
「今日はふーろーだーのー!」
「……っ!!」
宿に戻り、ぶんぶんと頭を振って必死に抵抗する狸擬きの毛を引っ張るも頑なに抵抗するため、
「全くっ」
手を離して弛き狸擬きが反動でよろけたところを、
「うんしょの」
両手で持ち上げる。
「……!?」
「力はあると伝えたことはあるだろの」
普通に持つと前が見えないため、頭上に掲げて風呂場へ運ぶ。
短い手足がバタバタするが、短い故どこにも届かない。
「諦めるの」
「……」
「また次はいつ入れるかわからぬからの」
「……」
当分風呂はないと悟ったのか、おとなしくなった狸擬きを洗いながら、
「あやつはどうだった」
聞いてみるが、
「……」
サンドイッチが美味しかったと伝わってくるだけ。
「そうの。……そう言えば、お主もあんなに歩いているのに、肉球は柔らかいままの」
当然だが、人は年を重ねる。
人間の顔の皺でもそうだけれど、触れるとせずとも分かる、あの手の平の硬さ、豆の跡。
自分の手の平には、足の裏には、何もない。
柔らかい、人の子供のままの白さと柔らかさと膨らみ。
いつまでも、いつまでも。
「……」
狸擬きがじっと我を見つめてくる。
「ふふん、これは妖怪の特権よの」
宿の娘にまたそれぞれ毛と髪を乾かしてもらい、
(しばらくはふかふかベッドともお別れの……)
何とかして運べないかと思う。
草原に、川辺に、ベッドだけが鎮座し、そこに狸擬きと寝ていると思うと、我ながら「しゅーる」で笑ってしまう。
しばらくは眠れないベッドを堪能するために、
「早めに眠ろうの」
その日は。
夢など見ないはずなのに、どうしてか、雲の上で眠っている夢を見た。
街の鐘が4回鳴る時間、馬車と馬小屋のある、初めて街へやってきた時に降りた、石の街の入り口へ向かうと、男が煙草を咥えてやってきた。
来たな、言わんばかりに咥え煙草で歯を見せて笑い、こいこいと手を振って先に歩き出す。
何台かある馬車のうち、もう出ていく馬車もあれば、これから積み荷の馬車もある。
他の行商人等もやはり愛想もあるし、元々人と関わることが人一倍好きなのだろう。
皆、こちらに気づくと必ず笑って何か話しかけてきたり、手を振ってくれる。
小さく手を振り返しながら男に着いていくと、ここに来る時には乗せてもらった馬車より少し大きく頑丈な見た目の造りだった。
長旅に耐えるのだから当然か。
幌も丁寧に繕ってある跡が見える。
荷物はとても多い。
荷台ではなく、馬の手綱を握る男の隣に厚手の座布団、いや、妙に愛らしい色合いのくっしょんが用意されており、話し相手と言うのはそのままの意味らしい。
隣によじ登ると、狸擬きも隣に飛び乗ってきた。
男が軽く口笛を吹くと、二頭の馬がそれぞれ、ちらと振り返ってから軽い足取りで歩き出した。
やはり想像していた馬車の乗り心地より遥かにいい。
男の魔法なのか、別のものの魔法なのか。
分からないけれど、天気は上々、吹き抜ける風も柔らかい。
男が後ろの荷台に手を伸ばし、大きく平たく軽い板を渡してきた。
「……?」
対角線上に長い紐が付いている。
これは。
(知っているの、これは『画板』というやつの)
子供たちが川辺で絵を描く時に使っていたのを見たことがある。
なるほど、これに字を書いて会話ができると。
狸擬きはこちらに背中をくっ付けて丸まっている。
そう言えば、朝出発する時、宿のおじじに絵本とカルタ文字板を礼を述べて返すと、何だか寂しそうに笑われた。
「……」
またおいでと言われた様な気がする。
ぷらぷら足を揺らしながら、街を振り返っても荷台の幌で何も見えない。
(また、いつか、の)
らしくない感傷らしきものに我ながら驚いていると、不意に隣の男の腹から、
ぐるるるる……
と音が鳴り、どこ世界でも腹が鳴るのは共通なのだなと、可笑しくなる。
少し恥ずかしいそうに腹に手を当て苦笑いをする男に、鞄から風呂敷と数少なくなった葉にくるんだ赤飯おにぎりを、葉を捲ってから男に渡す。
(そう言えば、乗せてもらう礼はどうしようの)
今は腹を空かせている男だけれど、備蓄など長旅への余裕はありそうだ。
男は食べ物を出された事に驚いた顔をしたが、それは見たことがない食べ物を見ての反応。
男は、不意に手綱を軽く引き道から草むらへ入ると、その場で停まり、荷台から分厚い紙の束を取り出すと、おもむろに膝のおにぎりを模写し始めた。
(の……?)
描かれるそれは。
早く、上手く、正確。
(凄いの……)
絵に描いた餅ならぬ赤飯おにぎりはとても美味しそうに見える。
ふとこちらを見た男が、おにぎりの下に何かを書いているが、全く読めない。
ここらの文字ではない。
短い文字を書き終えると、男は昨日、我が食べる前にしていた、胸の前で両手を合わせる、
「いただきます」
をしてから、赤飯おにぎりを指先で持ち齧った。
(おやの)
何とも律儀な男の。
男の手には、握り飯がとても小さく見える。
そう太くもない指なのに、やはり大きい。
男はよく噛めと言いたくなるほどパクパクと口に放り込み、なにやら考えるように視線を空に向けて咀嚼している。
そして指に付いた米粒を舐めると、こちらに笑みを浮かべて胸の前で拳を2回振るう。
それは多分、肯定する時の「じぇすちゃー」なのだろう。
(ぬん)
ま、世話になるしの。
休憩でまた炊けばいいともう一つ包んだものを渡すと、ニッと目を細めた、嬉しそうな笑顔。
狸擬きがぬっと顔を上げてきたが、
「お主は朝にたんまり食べたの」
しかも今は寝ているだけ。
「……」
「……」
しばしのにらみ合いの後、狸擬きは諦めたのか、また毛に顔を埋める。
すると不意に男の手が伸び、
「のっ?」
頭を撫でられた。
そのこちらを見下ろす、確かに柔らかな眼差しに、髪を撫でる大きく暖かな手の平に、ほんの少し、まっ平らな胸の中が微かにざわめく。
(のの……)
そんな感情があることで、自分はやはり元は人だったのだろうかと思わされる。
この身体まで成長した時に、何かがあったのだろうか。
長く生き永らえすぎた記憶のストックは幾重にも積まれているけれど。
それ以前は全くの無でしかない。
けれども。
(……まぁ、人でなく獣にも、心もあるし色々な感情もあるしの)
自分は、小豆から生まれたのではないかという説が、自分の中では大層な夢があり浪漫があり、更に有力なのだけれど。
突然変異など、それこそ自分が生まれるより遠い昔からある。
男の口笛に、ふっと今に意識が戻された。
また馬が歩き出すと、後から数台の馬車がやってきたのが見えた。
人が乗っている優雅な馬車もあり、しばらくは連なっていたけれど、やがて分かれ道になると、一台減り、また一台減り。
川沿いになるとまた自分達の1台に戻った。
綺麗に蛇行する川の姿に小豆を洗えるとうきうきしたが、今は気ままな1人と1匹ではない。
馬の休憩の時にでもしゃきしゃきしよう。
男が綱を持たない空いた左手で、こちらの画板の紙に何か書いてきた。
「ど こ か ら」
どこ。
どことな。
狼にも同じ問いをされたと思い出し、
(答えは「地球」でも「日本」でもないのだろうの)
文字の練習がてら、不恰好にもほどがある字を書くと、やはり解読に少し難儀されたが、それは、
「あ お く ま の ?」
場所への疑問だったらしい。
頷くと、男はきっと似た地名の記憶を探っているであろう表情。
放っておいて、景色を眺めつつ、
「荷を引くもの達よ、我の言葉が聞こえるかの?」
馬に話しかけてみたけれど、特に反応はしない。
やはり羽馬とやらでないと無理か。
まだ眉を寄せて考えている男の袖の裾をくいくい引っ張り、
「どこから?」
と書いて訊ね返すと、男は、
「ににしえか」
と書いてきた。
ニニシエカ。
「ニニシエカ」
と口にしてみたが、男は首を傾げるだけ。
全く通じてない。
(ふぬん……?)
文字で話せるだけましか。
景色はゆるゆると変わっていく。
幼子のこの足とで比べると、馬車はやはり早い。
車輪に仕掛けがあるのか、馬の負担も少ないせいか、馬の足も若干早い気がする。
男の話だと、青のミルラーマは、行商人は間違っても通らない、冒険者がごく稀に通る山道で、しかも熊の冬眠中のみだと言う。
(そういえば、あの山にたまのたまに人間の気配がした時は、少し寒い季節の時だったかの)
男も行ったことはないと言うし、そもそも来てもあの石の街までだと言う。
更に山を超えて奥に小さな街があると言うと驚いている。
それに、
「今は青熊はほとんどいない」
と告げると、ますます驚かれ、なぜだと聞かれたが、かぶりを振って分からないと答えた。
男はまた長考に入り掛けていたが、辺りを見回して道を外れていく。
馬のための休憩らしい。
馬車から降りて川辺で水を飲む馬たちを眺めながら、通じぬのは承知で、
「小豆を研ぎたい」
と川を指差して、荷台へ置かせてもらっていた籠を取って欲しいと身振り手振りで頼み見せると、案の定首を傾げられつつも、男の瞳には、我が何をするのかと楽しそうな色が宿る。
男が付いてきたが構わずに浅瀬にしゃがんでカゴを流れる水に浸すと小豆がカゴに浮かんできた。
目の端で男が咥えた煙草をポロリと落とし、何ともお手本のような驚き方をしてくれる。
(ふぬん、どうやら物質から物質が現れる魔法は珍しいらしいの)
色々旅してる男が驚くのだから、男が旅している土地では、まだ存在しないらしい。
「あーずき洗おか♪」
「たーびをしようか♪」
しゃきしゃきしゃき
しゃきしゃきしゃき
咥え直した男の煙草の煙が下流へと流れていく。
「あーずき洗おか、どーこへ行こうか♪」
しゃきしゃきしゃき
しゃきしゃきしゃき
しゃきしゃきしながら考える。
ここの世界の人間は、まだ小さな土地のみ、我も僅かな人間と獣との出会いしかないけれども、皆穏やかで善意を持ち、悪意を持つ者はとても微量と思われる。
魔法的なものは使えるが、生活に活用できる程度のもので、それを応用しようとする向上心はそもそも存在しないようで、人そのものの身体は、元いた世界同様に脆そうだ。
(ののん)
小豆を研ぎ終われば思考も途切れる。
満足して小豆を袋に仕舞うと、少し驚くことがあった。
馬は休憩中に、水を飲んだ後に一定の場所で排尿と排便をすること。
排尿は勿論、排便すらもコントロール出来るらしく、2頭で示し合わせた様に少し離れた場所へ行き、排泄をしていた。
街の入り口となる荷馬車の発着所が臭わない理由が判明した。
昼は休憩もそこそこに男が草原を旅路を進むのは、
「の?もう動かぬのか?」
「夜は見えないし危ない」
(ぬぬん)
そうか。
我も狸擬きも夜目が利くし体力も無尽蔵だけれど、男も馬もそうではない。
そう言えば狸擬きは空気を読んだのか仕事をしていないからか、珍しく途中で握り飯をねだっては来なかった。
夕陽が傾き始めると、ここも決まった場所なのだろう。
轍から外れ、少し高台の丘へ向かうと、男が荷台から手前の荷物を下ろし始めた。
夕食の支度か、地面に敷く大きめの敷物に、折り畳める足の短めの木のテーブルが荷台から下ろされ。
手伝おうと敷物を持つと驚かれた。
確かに厚さがあるため少し重いのかもしれない。
敷物を敷いてテーブルを置く。
テーブルの隣に炊飯器を置き、少し多めに赤飯を炊き始める。
男が、我が買ったものより大きなコンロを出して途中で汲んでいた水を沸かしている。
コップも3人分。
1人と1匹分の水も食事、手間を考えると、やはり大人と違い幼子を連れてきたことを後悔しないのだろうか。
昨日で食べる量も大人1人前は余裕だと知ったことだろうに。
しかし男は絶えずご機嫌で、手慣れた様子で汁物を作っている。
見覚えのある野菜に見覚えのない野菜、知らない出汁のような粉末が詰められた小さな箱。
狸擬きも興味深そうに隣で顔を上げてスンスンを匂いを嗅いでいる。
宿屋や食事処では見掛けなかった香辛料も並んでいる。
年季の入った木製のお玉。
もう一台のコンロで肉を焼き、汁物に入れなかった野菜とパンに挟んでいる。
湯気を噴き上げてきた炊飯器を気にしていた男は、不意にピーッと鳴った炊飯器の音に、ビクッと驚いている。
陽が沈むと、男が立ち上がりいくつかのランプに火を点けた。
どうやら指先には肉を焼けるほどの火力などはないらしい。
男はこちらにやってくると、我が開いた炊飯器の中を覗き込み、熱い湯気に大袈裟に後退り、笑ってしまう。
しゃもじでかき混ぜて、葉ではなくそれぞれの前に置かれた肉を挟んだパンの乗る皿の脇に乗せる。
男には3つ。
我と狸には2つずつ。
男は汁物、いや、洋風の匂いからして「スープ」を掬ってくれ、こちらを見てから両手を合わせた。
「いただきます」
同じく手を合わせると、隣の狸擬きも前足を合わせている。
(ふぬ……)
この狸擬きに芸をさせれば、一儲けできるのではと下世話な事を考え、狸擬きがこちらのよからぬ企みに気づいたのかピクッと固まる。
我ながら、このまるで人間のような思考の不可思議さ。
それに。
赤飯おにぎりを噛りながら思う。
これは、今、人と1匹は獣とは言え卓を囲んでいる。
まるで、人間の家族のように。
「……」
禁忌ではなかったのか。
ただ、ただ、自分に科していた呪いだったのか。
人間とは馴染めないと。
目の前には、目を瞬かせてうんうんと頷きながら、美味そうに赤飯握りを頬張る男に、隣には器用に片手で器を持って、とうとうスプーンまで爪先と肉球で器用に挟み、つかいこなし始めた狸擬き。
「?」
いただきますをしたまま動かない自分を、男がどうしたと視線で問いかけてくる。
「の……」
何でもないと通じない言葉で答え、赤飯おにぎりを頬張る。
(ぬん。……いつも通りに美味の)
そして飾り気のないパンに香辛料の効いた肉がとても合う。
宿や屋台などで食べさせてもらった食事も大変に美味だと思っていたのだけれど。
「ふぬん♪」
正直、とても美味しくてびっくりする。
何が違うのだろう。
スープも、
(きっとこれが、沁みる、というやつの)
あむあむ食べる姿を、男が見て目を細めて笑う。
(ぬぬ……)
何だかむず痒い。
そして。
1人でも、1人と1匹でも、人が1人増えても。
(食事はいつでも美味しいものの)
異世界へ飛ばされて知る。
我は、どうやら食べると言う行為が、好きらしい。
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