第3話

雨の上がった日。


「ぬ?」


出発を決めた朝に洞窟の前に、狸擬きが居た。


遊びに来たのかと思ったけれど、もしかして。


「お主も一緒に来るのかの?」


「……」


すっと小さな目を細められる。


そういえばこの狸擬きの穴蔵で独り言を話した。


これからのこと、予定。


(まぁ、別に良いのだけれど)


あの森は大丈夫なのだろうか。


ぽてりぽてりと歩き出す。


我はどこまでも歩き続けられるけれど、狸擬きは休憩が必要らしい。


「……」


いや、違う。


疲れた空気も匂いもこれっぽっちもない。


ただ、あの「赤飯おにぎり」を寄越せと尻尾を振っている。


「ふぬん」


ならば。


対価として、


「お前さんは我に何をしてくれる」


これは意地悪ではなく、世の理を保つため。


狸擬きはその場でくるりと丸くなると、


「さぁここで寝ろ」


と言わんばりにチラチラと視線を向けてきた。


なるほど、枕代わりと言うわけか。


本来ならば、全く必要のない、釣り合わない対価。


「くふふ」


しかしどうしてか、我は、世界は、それを対価として認めてしまう。


「まぁもう少し、対価として何か働くことを覚えるの」


のちのちの。



「パンの、あれは美味しかったの」


「バター、あれも良いの」


「黒髪、黒毛は存在をしないのかの?熊は水色だし、お主は茶色の」


一人言をとことん無口な狸擬きに聞かせながら歩く。


山を降りると、そのまままた大きな大きな森に入った。


ここまで来るのは初めてだったがけれど、


「のの……?」


「……」


狸擬きが主だったあの森と比べると、生き物の気配がとても希薄。


白い霧を纏い、よく言えば静かだけれど、覇気も生気もない。


(何の……これは……)


さながら死に至る森。


良かったはずの天気も霧のせいか悪く、繁った葉も木も黒っぽく見えるのは、元からそういう出で立ちのものなのか、後天的なものなのか。


木々から根っこが出ていないから歩きやすくはある。


住み着いていた山に人があまり通りかからなかった理由は、青熊のせいかと思っていたけれど、抜けるために通らねばならないこの森のせいも多大にありそうだ。


我には生も死もない。


よって瘴気も何処吹く風。


「バターは牛の乳から作るの」


「パンは赤飯おにぎりに負けじと美味だったの」


「焼いてみたいけれど、パン、あれはどうやって焼くのかの」


後で記憶の紐を解こう。


いつか見た本に記してあったかもしれない。


ひたすら生き続けているため、記憶の蓄えもいちいち取り出さないといけない。


そう言えばこの世界にも料理本とやらはあるのだろうか。


狸擬きと森を抜けながら、つらつらと他愛のないことを考える。


考えながら、パンを食べたせいか、唐突に思い出した。


元の世界にあった、あのすぱげてぃと言う食べ物は、どうにも小豆と相性が合わなさそうである。


あやつらが色々な姿に形を変えてもだ。


貝形など見た目はとても可愛らしくはあるのだけれど。


「……ぬ?」


ふと、鬱蒼とした中に、僅かな獣道と同時に人の通り道を見掛け立ち止まる。


南の方から現れた獣道。


これは良い道標になる。


とても有り難い。


狸擬きもスンスン鼻を鳴らしている。


しかし、確かに人の匂いもする。


けれど、すでに1日前。


そして、人間の少し、でもなく、疲れた匂いも残っている。


「……ぬぬん」


このまま歩みを進めると、きっと丸一日程度で、この疲れた人間たちに追い付いてしまう。


確かに人間には会いに行くのだけれど、この匂いは大人の男たちの匂い。


数人分。


子供や女はまだ良いけれど、大の大人の男は実はあまり得意ではない。


そして、狸擬き。


「お前は神獣や守り神ではないのか」


なぜへばっている。


静かに息を乱し、しんどそうに頭と尻尾を下げている。


山の主でもあるし、毛並みも艶々しているから、若く見えたけれど。


もしかしてそう見えるだけで、ただの死にかけの老体なのか。


「フーン……」


力なく鼻を鳴らされ、


「……の?」


違う。


耳をぺたりと下げられ、気付いた。


自分が全く感じないせいと、人間の気配に気を取られ過ぎて気付かなかったけれど。


山を超えて降りたこの辺り一帯が、どこから、やたら気を抜かれる、生気を持っていかれる。


(ぬぬ……)


だから、人間の疲れた気配が色濃く残り、狸擬きもへばっているのか。


この狸擬きは、半分は山の主として山の加護はあるけれど、まだ半分は獣のまま。


自分は見た目こそ人間の幼子であれど人ではない。


手の平を見つめ、ぎゅむぎゅむと握っては開く。


巫女装束を纏う、人の幼子の姿を模した、ただの化物。


瘴気も感じないけれど、手を握れば確かに、微かに感じる。


この白い霧が、意志があるのか生き物なのか。


白い霧が、すうすうと生き物の生気を吸っている感覚。


(の……)


吸っては大きくなりまた吸っては濃くなり。


これが何かはこれっぽっちも分からないし、狸擬きに訊ねても、力なく、首を傾げるだけ。


空を見上げても、白い靄が葉に絡み、朽ちない程度に木々の生気を吸っている。


「……」


この土地がこういう場所で、この白い霧が蔓延るのは、きっと何かしらの理由がある。


勝手に世界の、世の断りに反してはならない。


「ほれ、食べるの」


握って鞄につめておいたおにぎりを取り出して食べさせ、狸擬きの生気を回復させる。


食べるだけでも違う。


狸擬きは始めこそ肩を落としてもそもそと食べていたけれど、徐々に落ちていた耳を立て、食べ終わる頃には尻尾を振ってご機嫌になる。


「お主、単純極まりないの」


分かりやすくていいけれども。


しかし。


遠くの人間たちは動く気配がない。


森を抜ける前にこの邪気にやられているらしい。


(ううん……困ったの)


しかしここで足踏みしていても、時間の無駄でしかない。


我には時間は無限にあれど、無駄という概念はあるのだ。


「仕方ない、行ってみるかの」


狸擬きを促し歩き出すと、


「の……?」


白い霧は弱まるどころか強くなって来ていた。


当然人間らも。


(弱ってきてるの……)


動けないはずた。


仕方ない。


「頼むの」


食った分働けの、と包んだ握り飯を小さな風呂敷に包み、咥えさせる。


「……」


狸擬きのくせに、小鳥の様に小首を傾げて見せる。


「駄賃は戻ってからの」


狸擬きは、と了解したのか不満なのか、フンフンと鼻息を漏らしてから、その場の空気がふわっと動いたと思ったら、


バビュンッ!


「のっ?」


凄い早さで駆け抜けていった。


本当に「狸擬き」らしい。


あんなに足が早かったとは。


そして、1人この大層重く濃い邪気の中に残った自分は。


(こういう場は、あるべき所にあるはずで、それをむやみやたらに乱しては良くないのだけれどの……)


稀にただ、ただ、邪の塊であるだけの場合もある。


「ふぬん……」


一番強い邪気はこの辺りだけれども、意思も何も感じない。


これ、この白いもやが1つの瘴気として意思を持っている?


両手を広げて、自分が人でないことを尚更意識してもやを掴んでみる。


「ぬの……」


(のの、これは掴めるの)


あの元の世界にあった「わたあめ」をもっともっと繊細にしたような。


白い霧をより意識して手の平でぎゅうぎゅうと集める。


それらをひたすら集めて丸めて小さく小さく、集めて集めてを繰り返していると、徐々に丸い芯ができ、それに更に肉付けして飴玉サイズにする。


(ふふぬ、なかなかの)


白く固い固い塊が出来た。


鞄の中に落としてはまた瘴気を集めて丸めるを繰り返す。


ひたすらそうして、薄くなってくると濃い場所に進み、ぎゅうぎゅうと瘴気を丸め続ける。


「……フッ……フッ……」


息遣いとカサカサモサモサと葉を踏む足音が聞こえ狸擬きが、畳まれた風呂敷を口に咥えて帰ってきた。


「のの、早いの」


「?」


狸擬きが、なにをしているのかと無言で訊ねてくる。


「この白い霧を集めて球にしているの」


「……」


なんぞその顔。


それでも、やめろとも言わずにおとなしく隣に立つため、ひたすら引き寄せては丸めて丸めて固めて固めてを繰り返ししつつ、意識を先へ向ける。


突如現れた狸擬きに驚いた男達が、狸擬きに突き出された何か、もちもちねちりとした食感のものを不思議そうに食べ、しかしそれでなぜか気力を取り戻し、更に瘴気が減ったこともあり、元気に遠ざかっていく気配。


(ふぬ)


ひたすらぎゅむぎゅむし続け、どれくらい経ったろうか、高い木々の上から夜空がほんのりと見えてきた。


「ふぬん、こんなものかの」


白い小さな塊たちは、ぎゅうぎゅうに凝縮したため、かなりの固さがある。


今度、小豆の変わりに投げてみようか。


いつの間にか夜になっていた。


星空の見える森の中で風呂敷を広げ、炊飯器で赤飯を炊いて、赤飯おにぎりを握っていると、狸擬きは空を見上げている。


「お疲れ様の、褒美の、熱いの」


狸擬きは、器用に前足を擦って少し付いていた土などを落とすと、赤飯おにぎりを両手で持つと、もくもく食べ始める。


やはり炊き立てもまた美味。


狸擬きも尻尾を振ってご機嫌で頬張っている。


残りは握って鞄に詰めるかと思ったら、狸擬きが前足の1本をこちらに伸ばしている。


肉球を上に向けて。


「よく食べるの……」


良いけれども。


うっすらと繋がっていた瘴気は、今はもう散り散りになり、固まるどころかそのまま朝が来れば消えてしまそうに薄くなっている。


さて、どうしようかと思っていると、結局握ったものを全て食べ終えて満足した狸擬きが、その場でくるりと丸まり、チラとこちらに視線を寄越してくる。


「そうの」


鞄と籠と炊飯器を纏めて端に置くと、狸擬きに身体を預けて小さく踞る。


風通しの良くなった森で、少し、一休みの。



目が覚めたのは、


「の……?」


思ったより陽が上ってからだった。


「よく寝たの」


「……」


むくりと顔を上げた狸擬きも、その場で伸びをして、水が飲みたいと無言で訴えてくる。


「ふぬ。先に進むの」


ぽてりぽてりと歩き出す。


ぽてりぽてりとその先へ。


「あーずき洗おか、赤飯食べよか♪」


歌に合わせて狸擬きが尻尾を振る。


「あーずき洗おか、風ー呂に入ろか♪」


人間でないから、そこそこに鋭い嗅覚もある。


狸擬きがビクリと跳ねて、こちらを見上げてくる。


「風呂」と言う単語を知ってるらしい。


だいぶ先に湯に浸かれる、人間が管理している温泉らしきものがあるのだが、当然嗅覚が鋭いこの狸擬きも気づいているのだろう。


そして、


「のの?」


どうやら苦手らしい。


「我には自然のいい匂いでも、多分普通の人間には獣臭い狸擬きでしかないからの」


街に入るにはそれなりの準備が必要だ。


フーンと情けない鳴き声と共に尻尾が下がり、笑ってしまう。


歩みの遅くなる狸擬きを促し、ひたすら歩き続け、小さな涌き水場を見付けて水を飲ませ、赤飯おにぎりをねだられ、着いたのは夕刻前だった。


森を抜けて、少しの黒い岩がごろつき始め、森から抜けた左手、南の方は少し先は崖になっている。


「ほほぉの……」


先へ進むと、簡素だけれど横に長く大きい木造の建物。


柔らかな湯の匂い。


やはり、街に入る前に綺麗にしとけと言わんばかりで、先を下ると大きな街が見えている。


こちらの森からの客ではなく、右手に見える北の低い山を抜けた客が目当てらしい。


受付は真ん中の大きな開きっぱなしの扉。


何やら香炉がドアの両端に置いてある。


我も狸擬きも普通に入れるため、獣避け魔物避けなどではないらしい。


入って左は大浴場の絵が、右手には割高と思われる個室がいくつも並んでいる絵が壁に描かれている。


自分と同様に獣と行動している者が少なくないらしい。


壁の絵に大浴場に獣は✕、個室でも動物は湯の中に浸けるのはご法度的な絵が描かれている。


広間の奥の大浴場に人が消えていく。


受付へ行くが高さが足りないため、狸擬きの背に草履を脱いで背中に乗らせてもらい、受付に置かれた薄手の板に描かれたコインと個室のコインの数を見て鞄から取り出していると、


「○✕○?」


背中を向けていた人のよさそうな小柄なおじじに少し驚かれ、何か聞かれたが、


「?」


首を傾げると、硬い麻の様なものでおじじが背中を擦るポーズをする。


石鹸や洗う物はあるかと聞かれているらしい。


かぶりを振ると、固そうな手拭いと石鹸に似た茶色い塊を桶に入れて渡してくれる。


「のの、ありがとうの」


言葉は通じないが、おじじはにこりと笑ってくれる。


ここは。


(優しい人間が多いの……)


狸擬きから降りて、足の重い狸を促し、大浴場とは反対側の個室へ向かう。


大きな鍵と木の札。


数字らしい文字があり、ドアが並んでいる。


手前から3つ目の木の扉。


大きくて重いが、自分には重さも何も感じない。


古いけれど、手入れはなされている脱衣場。


巫女装束を脱ぐと、狸擬きがほうほうと言わんばかりに見て来たため、


「これでも外見だけは年若き淑女の、少しは遠慮しろの」


手を上げて頭を叩くふりをすると、たたっと部屋の端へ逃げていく。


「全くの……」


と呆れつつも笑ってしまう。


奥の軽い扉を開くと、


「おぉ……?」


これはこれは。


屋根はあれど壁も窓もなく、絶景が広がっていた。


「ほれ、洗うから来るの」


「……」


爪先立ちで濡れたタイルに似た床を嫌そうに歩いてくる狸擬きに、シャワーなる便利なものはここにはないため桶で掬ってお湯を掛けて、わしわしと洗ってやる。


しかし。


「ぬ……?」


泡が茶色になるどころか。


そもそも。


「泡が立たんの!」


一瞬、この世界の石鹸の性能を疑ったものの。


我の手では簡単に泡立つ。


(こやつはどれだけ汚いのだ)


3回目でようやくもこもこの白い泡が狸擬きを包み、残りの小さくなった石鹸で我も髪と身体を洗う。


「……お主は濡れても別に小さくならんの」


柔らかいわりに毛が太いのか、お湯で流しても見た目は対して変わらない。


「……」


お湯に浸かると、


「ふぬー……」


声が出た。


染みる。


天然温泉以外の風呂など初めての体験。


狸擬きは洗い場の木の椅子の上に丸まり不機嫌そうにしている。


「くふふ。勘弁するの」


湯を堪能し、身体を拭き、濡れ髪で受付の隣の奥の広間へ向かうと、板張りに座布団、いやペタンコなくっしょんが置かれていた。


時間が中途半端なせいか客は一人もおらず、代わりに清潔ではあるが、シンプルな服に前掛け姿の若い女性がいた。


端の椅子に座り、足許には看板が立て掛けてあり。


看板には髪に風を当てている絵が描かれている。


すぐに、解った。


(あれの『どらいやー』の)


それを魔法で行うというのか。


ここの人間は手から風も出るのか。


狸擬きを引き摺り、若い女性のもとへ向かうとにこりと微笑まれる。


看板に描かれた小銭を出し、まず狸擬きを乾かして貰う。


手の平から熱風が出るらしく、どんな原理なのだと見つめるも、やはり、


(こちらの人間の持つ素質?)


なのだろうか。


狸擬きが更にふわふわに膨らみ、


「おおお……?」


これはいい枕に、いや布団になりそうだとワクワクしていると、女がこいこいと手を振る。


「○○○?」


「?」


言葉は通じない。


女はそれでもにこりとしたまま、我の頭に手を当てると、


「のっ……」


ふわっと温かい温風。


(風と火の魔法……?)


髪はあっという間に渇き、追加料金をと思ったがかぶりを振られる。


おまけして貰えたようだ。


おまけが自分の方なのは複雑だけれど、毛量を考えるとおまけはどう考えてもこちらになる。


「ありがとうの」


通じないけれど礼を伝えると、


「✕✕✕」


多分、どういたしましてと返ってきた。



のんびりしていたらしっかり日も暮れてしまい、


(街に入るのは明日かの……)


隣の、多分、温泉と同じおじじが経営しているであろう小さな宿屋を覗いてみる。


こう、隣の風呂屋を更に小さくした、小さな受付に壁には部屋の鍵。


右手の奥に階段、左手は今は仕舞っている扉。


「○✕、△△△」


おじじの嫁と思われる人のよさげな中年の女将が、ニコニコしながらおいでおいでしてくれる。


幼子1人でも怪しまれない世界なのか、そうでもないのか。


女将の元へ向かいかけ、しかしそう広くない宿屋の受付の広間。


(のっ……?)


同じく客らしい若い男が引き連れている獣の姿に思わず足を止めてしまう。


(狼の?)


しかし細身ながらも大人の豹くらいの大きさはある。


精悍な顔立ちに美しい立ち姿。


もこもこした狸擬きとは違い、真っ直ぐな毛並みはひたすら白く。


(……ぬぬん)


大昔にどこかで見た狼は、群れで行動しており、しかしこちらは小さすぎて獲物にもならないと判断されたのか、しばらく見つめ合った後に、やがて向こうから姿を消していった。


じっと見ていたせいか、壁の張り紙を見ていた若い男の主人より、狼がふいとこちらを向いた。


「勇ましいの……」


ほぅと感嘆にも似た吐息を漏らしてしまうと、


『人間の方ですか?』


「ぬ?」


狼が微かに口を動かし目を細めている。


「今のはお主かの?」


『左様で。……いや、人ではない?』


「人の姿をした人擬きの。なぜ言葉が通じる?」


『あなた様が我等の言葉を話しているのです』


「の?」


我の言語がこちらの獣の言語とな。


しかし。


「この狸擬きは話せんの?」


『……そのお方は、話すのが酷く億劫なものと見受けられます』


億劫。


『大変に無口なお方かと』


なるほど。


ふと周りの音がなく、


(おっと……)


狼の主だけでなく、女将も驚いた顔をしてこちらを見ている。


「すまぬの、人間と言葉が話せなくて困っていたの」


代わりに見目麗しい狼らしきものと話せたのは僥倖だけれども。


『それはそれは。……遠くからいらしたのですか?』


「割りとの」


色々聞きたいことはあったけれど。


先にここに泊まりたい事を女将に伝えなければ。


「その、後でもう少し話をさせてもらえたら助かるの」


『勿論です』


快い返事に、女将の元へ行き、背伸びをして描かれている硬貨分を見せ、こやつも一緒にと狸擬きを指差すと、にこりと笑い、両手の指で丸を作ってくれる。


ちゃーみんぐな女将だ。


やはり数字らしい文字の付いた木の切れ端に簡単な作りの金属に似た素材の鍵が付いている。


食堂を指差され、食事はいらないと断りかけたけれど、そうだったとコインを追加する。


狼と話したいのだ。


青年と狼はまだそう広くないロビーの端にいてこちらを見ている。


どうやら食堂が開くのを待っているらしい。


青年は驚いた顔はしているものの、拒絶感や敵対心はなさそうではある。


(言葉がの……)


言葉が通じないのは本当に不便なものよのと、部屋には向かわず青年と狼の元へ向かうと、


「この狼とお話がしたいのだかの」


青年に話しかけてみた。


「……?」


当然、やはり何を言っているか分からないらしい。


困った顔で首を傾げる青年のかわりに、狼が青年の固そうなパンツの裾を前足の爪で引っ張っている。


言語の「周波数」がずれている?


(何からの周波数を変えれば、人語を話せるのかの?)


しかし、その肝心な周波数、ちゃんねるの変え方も合わせ方も、我には分からない。


内側から食堂の扉が開かれ入ると、風呂場の受付にいたおじじよりも若い大柄男と更に若い給仕の娘が立っていた。


当然客はまだ居らず、青年が入り口に近い長方形のテーブルに腰を下ろしたため、向かいの椅子の足許に炊飯器を置き、よじよじと登って腰を下ろすと、狼は青年と自分のいる長方形の狭い方にやってきた。


狸擬きはテーブルの下でまるまってしまう。


「お主は食べないのかの?」


「……」


太い尻尾がパタパタ揺れて、握り飯がいいと訴えている。


なら。


「部屋までは待ってくれの」


青年は、手を伸ばして狼の頭を撫でながらもこちらを不思議そうに見ている。


(ぬ……)


何と引き換えなら狼を撫でさせてもらえるだろう。


羨ましいことこの上なき。


出された食事は思ったよりもガッツリとした肉料理と、見たことはあるけれど知らぬ野菜の煮込みと、少し固そうだけれどいい匂いのするパンもある。


「お主はおにぎりだけで良いのかの?」


狸擬きに声を掛けると、


『おにぎり、とは?』


狼が話しかけてきた。


「米を握ったものの」


『こめ、ですか?』


そこからか。


「どうやらこちらでは一般的でない主食の」


『なるほど』


解ったのか解ってないのかは不明だけれど、


『あなた様はどちからいらした?』


それが気になるらしい。


「だいぶ遠い遠い。……いや、違うの。しばらく滞在していたのは、渓谷の川岸だの」


『渓谷の川岸ですか……』


給仕の娘が、狼用の大きな肉と、狸擬き用に木の実を運んできた。


ニコニコと愛想がいいが。


「こやつは、木の実を食うのか?」


『この辺りでは草食と思われているのかと……?』


そうなのか。


狼も語尾が曖昧になる。


『渓谷とは、青のミルラーマの事でしょうか』


「言葉が分からなくての。青い熊助が何匹かいた」


『あぁやはり。熊がいなくなりずいぶん山を抜けやすくなったと人が話していたのを聞いたことがあります』


ここいらの人間に迷惑を掛けていないのならよかった。


「君は主とは話せないのか?」


『こちらの言語はほぼ通じません』


「お主だけでなく、皆がそうなのか?」


『いえ、家畜などは通じていませんね。羽馬などは話もできるとは聞いたことはありますが、お伽話の類いかと』


「羽馬?」


名の通り羽の生えた馬らしい。


それは是非とも見てみたい。


青年は食事をしながらも、不思議そうにこちらを見ている。


しかし目が合えば愛想よく微笑んでくれる。


「の、この世界の人間は皆が優しい気がする、たまたまの?」


色々聞きたいことはあるけれど、一番気になったのはここだ。


狼は少しの間、目を閉じていたけれど、


『どうでしょうか、皆、個性はあるものの、こぞって敵意や悪意を撒き散らすものは少ないかと思われます』


敵意や悪意は主に野生の獣の方があるという。


なるほど。


『あなた様は、こちらには何用で?』


「言葉と魔法を知りたくての」


『魔法』


「お主も使えるかの?」


『いえ、あれは人固有のものであります』


「ぬぅ」


人ではない自分には難しいものだろうか。


『使えないのですか?』


「これっぽっちも」


いや、そうでもないか。


「小豆、豆は無限に手の平からもザルからも出てくるし、この炊飯器で飯は炊けるの」


『魔法ですね』


「ぬ」


同じテーブルに付く青年は給仕の娘に多分おかわりを頼んでいる。


「……お主の方が主なのか?」


『半々、対等でしょうか』


「それが普通かの?」


『そうですね。魔法が使える分、人間の方に多少の利がありますが、人間はわりと私たちを対等と見ようとしています』


なんと。


どうやら、思ったより遥かに恵まれた国に飛ばされたらしい。


しかし。


「青い熊助は言葉も何も通じなかったの」


他の小動物も。


図体は関係ないらしい。


狸は話さない代わりに割りと意志疎通はできるため、法則が解らない。


『我々はわりと少数かもしれません』


ここでこの狼に会えたのはかなりの僥倖だったのかしれない。


ふと気になったことを訊ねてみる。


「……この世界には、だんじょん、とやらはあるのか?」


本で読んだ。


『???』


なさそうだの。


すらいむとやらも見ないし。


しかし、人間と話せる手段はないものか。


青年を見つめると、何か言葉をくれているが、やはりちんぷんかんぷんで、言葉を覚えようとしても、まず言語化されておらず、きっと同じ単語でも、自分の耳には別の言葉で聞こえてしまう。


青年が革らしいバッグからなにやら取り出し、それは茶色い少しくたびれた紙の束とこの世界にも存在する万年筆に似た物で、その紙に何か描いてくれる。


フルーツっぽい絵。


(苺?)


しかしあの特直的な粒々はない。


『これは果物ですね。好きか?と聞かれています』


果物。


「嫌いではないの」


頷くと、青年は、また給仕の娘に声を掛けている。


少しして、皿に乗せられて運ばれてきたそれは。


「おぉ……」


苺。


大きい。


小降りなメロン位あるだろうか。


しかし、描かれた絵のまま小さな種もなく、そのままかぶりといけそうだ。


いいのかと躊躇しているのと、青年はニコニコしながら手振りでどうぞと勧められ。


「ありがとうの」


両手で持って、あむりとかぶりつくと、


(うん、うん……っ)


甘くて、瑞々しくて、


「ふむん、ふむん」


たまには小豆以外もいいものじゃの、とはむはむ食べていると、


「ぬ?」


狸擬きがテーブルの下から這い出し、顔を上げて鼻先を伸ばしてきた。


「……なんの?」


すっとぼけて見たが、更に両足を椅子に引っ掻けてきたため、


「んぅ、仕方ないの」


残りの半分をくれてやろうとしたが、狸擬きが寄越せと催促しているのは肉料理だ。


皿を床に置くと、手を使わずに口で食べている。


(おや、獣のふりが上手の)


「の、どうしてこの若者は我にこれをくれる?」


『あなた様がとても幼く見える故ではないかと』


なるほど。


純粋なる善意か。


「ありがとうの」


通じずとももう一度礼を伝えると、青年もこちらの言いたいことは解ってくれたらしく、またニコリと微笑んでくれた。


狸擬きが、どうやら肉で逆に腹が減っていることを自覚したらしく、尻尾を振ってきたため、両手を合わせて、青年に対しても、


「ごちそうさまでしたの」


礼を伝えテーブルから降りると、


『もう行ってしまわれますか』


名残惜しそうな狼の声。


「こやつにも食事を与えねばならくての」


木の実の入った皿はそのまま。


「お主は案外『グルメ』よの」


その狸擬きが早く早くと言わんばかりに先に立ってドアへ向かう。


小さなロビーの受付には、女将は居らず、内側の壁にまだ鍵はいくつか掛かっている。


人の匂いと、獣の匂いも少し。


階段を上がると、左手に廊下が伸び、ドアが並ぶ。


右手は厠と思われるドアがある。


同じ数字らしきものを探すと、三番目の扉が該当した。


鍵は掛かっておらず、中に入ると、


「の?」


土足禁止らしく、壁に作り付けの靴箱と、段差。


獣の足を拭く布に、この世界では珍しくないのだろう、下駄箱の上に木の桶と水が溜めてある。


「足を出すの」


「……」


狸擬きはおとなしく拭かれた足から、室内の床を踏む。


部屋が明るいのは、天井からランタンのようなものがぶら下がり、そこに小さな四角い石のようなのが置かれ、石が柔らかく小さく燃えている。


右手には木のベッド。


手を当ててみると、案外ふかふかしていて、中に何が詰められているのかは謎。


それでも。


「くふふっ」


元いた世界でも、こちらの世界でも、勿論初めてのベッドである。


炊飯器とかごを置き、勢いを付けてポーンッとベッドへ飛びこむと、


「のおぉ……っ」


テンションが上がり、キャッキャッと転がっていると、ふと醒めた視線を感じた。


「なんぞ、ノリが悪いの。の?食事?もうスイッチは入れてある、しばし待ての」


答えながら仰向けになり、梁の立派な天井を眺める。


風呂、テーブルでの食事、宿の屋根のある部屋に、ベッド。


まるで、人の様。


まるで、人の真似事をしている。


人のように。


その通り。


それの。


「……」


(何が悪い)


不意に、ピー、と炊飯器が音を立て、思ったより長く物思いに耽っていたことに気づいた。


狸擬きも炊飯器の近くで身体を丸めていたが、音にもそりと顔だけあげる。


炊飯器の脇に差してあるしゃもじで炊き上がった赤飯をかき混ぜ、ぎゅむぎゅむと握ってから、


「ほれ、熱いの」


ぺたりと座り込む狸擬きにおにぎりを渡せば、あーむと大口を開いておにぎりを食べ始める。


残りの赤飯を握りながら、


(そろそろ洗濯がしたいの)


身体を綺麗にしたから少し汚れた巫女装束が気になり始めた。


ふぬ、明日は川へ行こう。


「……」


狸擬きが前足を揃えてこちらに伸ばしている。


小さな肉球が愛らしい。


「仕方ないの」


2つ目を与えてから、残りを握ると、ドアの外の空気が揺れ、匂いであの青年と狼が階段を上がってくるのがわかった。


大きめに握っていたものを2つ程葉に包み小さな布に巻く。


下駄を突っ掛けてドアを開くと、青年と狼が部屋の前を通り過ぎたところだった。


振り返った1人と1匹は少し驚いた顔をし、


「お礼の」


狼に伝えて包んだ部分を咥えさせると、青年が、


「○△○?」


何かを口にしてきたが、さっぱりだ。


けれど狼は嬉しそうに大きな尻尾を振っているため、大丈夫だろう。


部屋に戻ると狸擬きは満足そうに仰向けになっている。


何とも呑気なものじゃの。


ベッドとは反対側の部屋の壁に沿うように小さな机と椅子があり、


テーブルには皮の装丁の薄い本がある。


椅子によじ登って開いてみると、


「のの」


ご丁寧に、宿の案内図だ。


(ふむん……)


文字らしいものと細かいイラスト。


どうやら、連泊なら中日に女将さんが洗濯を請け負ってくれるらしい。


(でも、小豆も洗いたいしの)


端から眺めてきて、文字らしいものや数字をしっかり覚える。


椅子から落ちる自分の両足がブラブラ揺れていることに気付き、とうやら、我自身がとても楽しいことにも気づいた。


「ふぬ」


端から端まで、文字と数字は、正確ではないけれどこれはこれだろうと言う目安は付けられた。


「フゴッ」


と音がして振り返ると、仰向けになっていた狸擬きが寝落ちしていたらしい。


自分の寝息に驚いて跳ね起きている。


「ほら、寝るの」


ベッドに向かいまた飛び込むと、振り返って狸擬きを呼ぶ。


モソモソとやってきた狸擬きは、ぴょんと身軽にベッドに飛び乗ると、灯りの石を見上げて、フーッと大きく息を吹き掛けた。


それでも空気の流れは微かにしか届かないであろうに、石はふわりと発光を止めて部屋は驚くほど暗くなった。


「おお……?」


どんな原理なのだ。


気になるけれど、今は、ふわふわ狸擬きを枕にして、ふわふわのベッドで眠る。


これをしなければ「野暮」と言うもの。


そしてそれは。


とても。


(至福……)


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