そして空は暗く、寒く

 田辺は、夜の街を彷徨っていた。

 もうとっくに空は暗く垂れ込め、空には何もない。今まで親の言うことを聞き、従ってきた自分にとって夜の街は初めてである。


 私にとっての夜の世界は、いつも窓がひとつもない子供部屋の中だ。


 トボトボと少年は歩いていく。いくあてもなく。暗い夜道を、トボトボと。


 ▲


 赤坂の父と別れてから一時間余り立っただろうか。私は街路樹の植えられた通りを歩いていた。足が疲れていたからベンチに座ろうと思っても、そのベンチがない。

 しょうがないので、先ほどの公園に戻ろうとする。


 踵を返した。しかし数十メートルほど進んだときに私は迷子になっていた。茫然自失としたまま歩いていたので公園までの道など覚えていない。

 家に帰る道も、もうわからない。


 帰れないのだろうか。私がいた場所には。


「それでも、いいかな」

 独り言を呟く。そして地面に膝をつく。


 涙が流れる。もう、戻れない。

 それでいいはずだ。俺は家族が嫌いで、自分が嫌いだから。もう、いいんだ。


 なのに、心細いのは嫌で、寂しいのは嫌で。これだから、自分が嫌になる。


 へたり込む自分が許せなくて、涙を流しながら立ち上がる。無理に取り繕ったような笑みを顔に貼り付ける。それを見返してくれる人はここにはいない。暗闇が自分を見返してくる。


 もう、死んでしまおうか。

 田辺海斗でいることをやめてしまえば、全て終わるかもしれない。そうだ。きっとそうだ。ならば、私のこの心も救われる。


 そう、思ってしまった。

 また心が迷ってしまって、決断できなくなってしまったらそれこそ恐ろしいから。私は走り出す。死の道へと。街路樹の影に隠れ、車が来るのをじっと待つ。


 右手を見つめていると水色の軽が走ってきた。あれで死ねるのだろうか。心許ない気もする。そのまま、私は車を見過ごした。

 次に灰色の軽が走ってくる。もう一度、見過ごした。飛び出さない。

 今度は赤い高級車が走ってきた。また、見過ごす。飛び出さない。


 とびだせない。


 最後に、トラックが走ってきた。

 自分の醜いところを見てしまったようで、私はそれから逃げる。逃げようと、走り出す。気がつくと私は道路の真ん中に立っていた。右からトラックが迫る。


 あぁ。これで終わりか。


 その時の気持ちはぐちゃぐちゃだった。


 満ち足りて、でも怖くて、嫌で、そして何よりそんな自分が大っ嫌いで。

 だけどそんな気持ちにも、後一秒とたたずに別れを告げることができる。そう考えると涙が出てくる。さっきとは違う涙。

 心から溢れ出る涙。


 血の涙。


 しかし、トラックは私にぶつかることなく、すんでのところで止まった。早く飛び出しすぎたのだろうか。また、失敗。


 トラックを路肩に寄せた後、そこから人が降りてくる。

 見知った顔だった。


 もう見ることはないと思っていた顔。私の担任、渡合という名前だっただろうか。

 その女性は急いでこちらに駆け寄り、俯き加減の私の顔を闇の中でもはっきりと視認すると、こちらもまた驚いたような顔になった。


 私を歩道に連れていくと、彼女は話しかけてきた。


「どうした。田辺」

「.........」


 私は答えない。


「お前が辛かったなんてな。気づけなかった。すまない」


 まぁ、当たり前だ。いつも優等生で、満ち足りたように振る舞っていた私に彼女が築けるわけがない。赤坂たちが、異質だったんだ。そう。助けてくれた彼らが、特殊だったんだ。


「なんで、こんなことした」

「.........」


 彼女の言葉を見返すは、沈黙。


「友達か。両親か」


 両親、その言葉を聞いた瞬間、わずかながら私の肩はぴくりと震える。


「そうか...確かに、そうだったかもな。勉強だろ。大変だったのか?だから逃げたのか?確かに辛かったかもしれないが、今のお前には可能性が...」

「うるさい」


 蚊の鳴くような声で、先生の言葉を遮る。


「何も、わかんないくせに」


「だろうな。そうだろうよ。ごめんな」


 すんなりと彼女は認めた。その意外な言葉に、彼女の顔を思わず見上げる。彼女は辛そうな顔をしていた。


 後悔だろうか。同情だろうか。


「わかんない。だから、教えてくれ」

「......」

「なんでこんなことしたんだ?田辺」


 その声には、どこか落ち着かせてくれる響きがあった。赤坂達と同じような優しい声だ。


 今思えば、今日だけで私を助けてくれようとした人が三人もいた。私を人形ではなく人としてみてくれた人が三人もいたんだ。私はそれを跳ね除けてだけど彼らは近づいてきた。


 こんなことが、今まであっただろうか。


 頼らせてくれる人が、今までいただろうか。


 気づいたら、話していた。彼女に。今までのこと全部。もうこんな機会逃してはいけない。


 ▲


 彼は、幾度か迷った表情を見せたのち、こちらをしっかりと向き話し出した。


 そして、私は話を聞きながら涙を流してしまった。


 この少年は、誰にも頼れなくて一人だった。両親が教育熱心だったのも、自分を思ってのことで、だから恨みきれなくて家族を欲した。愛を欲した。


 方法を知らない不器用な彼は、行く当ても見えず一人夜道を彷徨っていたんだ。


「話してくれて、ありがとう」


 嗚咽を堪えながら最後まで話してくれた彼。その姿に私は感謝した。そして、その小さな背中に気づき、私は手で彼を包み込んだ。抱きしめた。


「もう、大丈夫だ」


 真っ暗な歩道に二人の嗚咽が響く。


 私は、この子と同じぐらいの歳の時の自分を思い出していた。


 春ごろの話だ。

 学校からの帰り道。突然地面が揺れ出して、道端のブロック塀がガタガタと崩れる。


 ひとりぼっちでとても怖かった。一際大きな街路樹に捕まりながら数十秒ほど耐え忍ぶと、揺れは唐突に止まった。


 私はたまらなくなって駆け出し、家に向かった。大丈夫だった?、と言って自分を抱きしめてくれる母の存在が恋しかったから。


 だけれど、家に帰っても母はいなかった。専業主婦の母は、確かに家の中にいたんだ。だけれどその家は上に倒れた電柱により潰れてしまっていた。


 その家の中心からは鉄臭い匂いが、漂っていた。嗅ぎ慣れないその匂いに心がざわつきながらも、必死で瓦礫をかき出した。母さん、と叫びながら。


 そしておおよその瓦礫を書き出した後。母の死体が見えてきた。生きてはいなかった。電柱により、潰されてしまっていた。


 圧殺死したあまりにもその酷い遺体にすがりつき、頬を涙で濡らしながら私は何度も母を呼んだ。


 会いたいよ、と。


 どうしようもないその気持ちをぶつける相手が見つからなくて、大丈夫だった?と心配してくれる存在が見つからなくて。私は路頭に迷った。


 父がいなかったら、私は壊れてしまっていただろう。


 この少年は、その父さえいないのだ。頼れる人がいないのだ。

 なら、私が彼を助けてやろう。彼が私を頼ってくれたのだから。彼の持つ一つの疑問に、答えを授けてやる。


 だから、もう、大丈夫。


 ▲


 少年はしばらく嗚咽を繰り返した後、顔をあげ私をみた。私は話し始める。


「田辺。私は、母を亡くしているんだ。数十年前の地震でな。その時は寂しかったよ。どうしようもない虚無感に襲われた。だけどな、父が助けてくれたんだ。泣きじゃくるわたしを、抱きしめてくれた」


 わたしが今、君を抱きしめているように。


「そして、わたしは頼れる人の背にしがみついて、しがみついて何人もの人の力を借りながらここに立っている。でもな、一番助けてくれたのは父さんと母さんなんだ。家族なんだ。だからな......」


 家族を嫌うお前に、一つの答えを授けてやろう。


「もし、迷ってるんなら家族の元に戻りな。それが一番だ。お前から歩み寄って、それでもダメなら、諦めてもいいかもしれない。だけどそれをしないで避けるのは、お前も、家族もかわいそうだ」


「......」


「お前の両親はきっと思えを愛してる。愛してるから、見失ってしまったんだ。本当の子供の進む道を、見失ってしまったんだ」


 だから。


「一回母さんと父さんに、会ってこい」


 それが、答え。


 家族のあるべき姿なんだ。


 だって、お前は母さんにまだ会える。母さんも、お前にまだ会える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る