第2章:花々の囁き

 結の作業台の上には、いつもより多くの小瓶が並んでいた。新作の香水は、まだ完成には至っていない。しかし以前よりも、確かな手応えを感じていた。


「この香り、素敵ですね」


 七緒が「メゾン・ド・フルール」を訪れた時、結は試作品を少し香らせてみせた。


「まだ試作の段階なんです。でも、七緒さんに気に入ってもらえて嬉しい」


「なんだか、春の花園にいるような気分になります。でも、それだけじゃない。もっと深いところで、心に響くような……」


 七緒の言葉は、結の心に静かな波紋を広げた。


「実は、七緒さんと出会ってから、香りのイメージが少しずつ変わってきたんです」


「私との出会いが?」


「ええ。お花に対する七緒さんの想いを聞いているうちに、香りにも新しい物語を織り込みたいと思うようになって」


 結は少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「私も、結さんと話すようになってから、お花の見方が変わりました。香りという新しい視点が加わって、より深く花と向き合えるようになった気がします」


 二人は作業台を挟んで見つめ合い、その瞬間、何か特別なものが空気中を漂うのを感じた。


 そんなある日、七緒から思いがけない提案があった。


「結さん、今度の日曜日、お時間ありますか?」


「ええ、ありますけど」


「実は、お花の仕入れに行くんです。千葉の花農園まで。よかったら、一緒に来ていただけませんか?」


 結は少し驚いた。二人で外出するのは初めてになる。


「私でよければ、ぜひ」


「やった! きっと素敵な花に出会えると思います。それに……」


 七緒は言葉を途切れさせ、少し赤くなった。


「それに?」


「結さんと過ごす時間が、もっと欲しくて」


 その言葉に、結の心臓が大きく跳ねた。


 週末、二人は早朝の電車に揺られていた。車窓から差し込む朝日が、七緒の横顔を優しく照らしている。


「電車の中って、色んな人の香りが混ざって面白いですよね」


 七緒がふいにそう言った。


「そうね。でも、七緒さんの近くにいると、それ以外の香りが気にならなくなるわ」


「どうしてですか?」


「七緒さんから漂う花の香りに、心が奪われてしまうから」


 思わず口にした言葉に、結自身が驚いた。しかし、それは偽りのない気持ちだった。


 花農園は、想像以上に広大だった。様々な花が咲き誇る光景は、まるで天国のようだった。


「わあ、素敵!」


 七緒は子供のように目を輝かせて、花々の間を駆け回る。その姿を見ていると、結の胸の中で、確かな感情が芽生えていくのを感じた。


「結さん、こっちにも素敵なお花が!」


 七緒に手を引かれ、結も花々の中へと導かれていく。立ち止まった先には、淡いピンク色のバラが咲いていた。


「このバラ、結さんにぴったりだと思います」


「どうして?」


「凛としていて、でも繊細で。近づくと、心が震えるような……まるで結さんのように」


 七緒の言葉に、結は息を飲んだ。まるで自分の心を覗かれているような気がした。


 農園で過ごした時間は、まるで夢のようだった。二人で選んだ花々を車に積み込み、帰路に着く頃には、夕暮れが近づいていた。


「今日は、本当にありがとうございました」


 駅で別れる直前、七緒がそっと結の手を握った。


「私こそ、素敵な一日をありがとう」


 その手の温もりが、結の心に深く刻まれた。

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