【百合短編小説】「シークレット・ペタル ~その想いは花の香りとともに~」(約6,900字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1章:運命の香り

 季節は移ろい、街にはほんのりと春の気配が漂い始めていた。銀座の路地裏に佇む「メゾン・ド・フルール」の店内には、いつものように様々な香りが優雅に混ざり合っていた。


 ひいらぎゆいは、作業台の上に並べられた小瓶たちを見つめながら、静かに目を閉じた。調香師として働き始めてから、もう五年。香りを作ることは、彼女にとって呼吸をするように自然なことだった。


「結さん、新作の進捗はどうですか?」


 店長の志水しみずから声をかけられ、結は目を開けた。


「はい。バラをベースにした新しい香りのイメージはできてきたんですが、まだ何か足りない気がして……」


「焦る必要はありませんよ。結さんの感性を信頼していますから」


 志水は優しく微笑んで去っていった。


 結は再び小瓶に向き合う。春の新作として依頼されたのは、若い女性向けの香水。フローラルでありながら、どこか新しい魅力を持つ香りを。そんな難しいオーダーだった。


 ふと、窓の外に目をやると、小さな花屋が目に入った。以前からあった店舗が改装されたらしく、今日はオープン初日のようだ。ガラス越しに見える色とりどりの花々が、結の心を惹きつけた。


「少し気分転換に行ってみようかしら」


 腕時計を確認すると、もうすぐ昼休憩の時間だった。


 店の前に立つと、「Blooming Days」という洒落た店名が目に入る。ドアを開けると、清々しい花々の香りが結を包み込んだ。


「いらっしゃいませ」


 明るい声と共に現れたのは、小柄で愛らしい女性だった。淡いピンクのエプロンを身につけ、茶色の髪を軽くまとめている。


「春風です。本日オープンしたばかりですが、どうぞごゆっくりご覧になってください」


 春風はるかぜ七緒ななお。そう名乗った彼女の笑顔には、不思議な魅力があった。まるで、春の日差しのような温かさと、新芽のような瑞々しさを併せ持っているかのように。


「私、向かいの香水店で働いているんです。新しいお店ができると聞いて、気になって」


「ああ、メゾン・ド・フルールの方ですか? 素敵なお店ですよね。私も香水、大好きなんです」


 七緒の目が輝いた。結は思わず、その表情に見とれてしまう。


「今度、お店に遊びに行かせていただきますね。実は、お花と香りって、すごく相性がいいと思うんです」


「ええ、そうですね」


 結は微笑んで頷いた。確かに、花と香りは切っても切れない関係にある。そして、この出会いもまた、そんな運命めいた糸で結ばれているような気がした。


 その日から、結の日常に少しずつ変化が訪れ始めた。昼休憩には時々「Blooming Days」に立ち寄り、七緒と言葉を交わす。彼女は花の持つ意味や、色の組み合わせについて、実に詳しかった。


「結さんって、すごく素敵な方だと思います」


 ある日、七緒がふいにそう言った。


「私のどこが?」


「香りを作るお仕事って、とても繊細で芸術的じゃないですか。それに、結さんの立ち振る舞いにも、上品な香りが漂っているような……」


 七緒の言葉に、結は思わず頬が熱くなるのを感じた。


「私なんかより、七緒さんの方が素敵よ。お花を活けるときの表情なんて、まるで魔法を使っているみたい」


「えへへ、そんな風に言っていただけると嬉しいです」


 七緒は少し照れたように頬を染めた。その仕草があまりに愛らしく、結は思わず見つめてしまう。


 やがて春本番を迎え、街は桜色に染まっていった。

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