揺らぎのブレット

佐倉千波矢

揺らぎのブレット

*書いた当時はまだ「つぶらなテルモピュライ」を読んでいなかったので、ゴルゴに触れてる部分が原作と違ってます。

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 無機質な電子音が小さく鳴った。隣に立つ相良宗介が、学生服のポケットから携帯電話を取り出して液晶画面を確認する。

 千鳥かなめは軽く睨むように見上げたが、まったく無視された。

「サガラだ」

 少年は英語に切り替えて電話に出た。冒頭からある種の物騒な専門用語が出てきたので、おそらくは約二五〇〇キロメートル南方にある島からの連絡なのだろう。かなめは溜め息にも似た吐息をそっと漏らした。週末の予定はまた延期になるのかもしれない。

「……ああ、確かに経験はあるが……」

 電話が長引くに連れて、そばに立つ数名の年配者が、咎めるような視線をちらちらと投げてきた。なにしろ通勤通学ラッシュで混み合った電車の中である。それは至って当然の反応といえた。

 朝に弱くて思考が鈍っている少女にも、周囲の友好的とはいえない雰囲気は感じられた。隣の少年に懸命に目で合図しようとするのだが、電話に集中している彼はまるで気付いてくれない。

「……だがそれならクルツが……そうか……」

 いつもどおりの無愛想な声音が淡々と相手との会話を続ける。

 かえってかなめの方が気まずくなり、下を向いてしまった。サラサラの長い髪が両頬に落ちかかっててきたが、顔を隠すにはちょうどいい。斜め前方の壮年男性が浴びせる非難がましい目線を避けて顔を逸らし、長い睫毛を伏せて周辺の気配をシャットアウトしようとした。それでなくても満員電車で身体を押しつけ合っているので、必然的に宗介の肩に顔を寄せる形になった。

 切れ切れに電話の相手の声が耳に届く。どうやら宗介の直属の上司であるメリッサ・マオのようだ。ショートの黒髪に吊り気味の大きな目という、見るからに快活そうな中国系アメリカ人女性の顔が思い浮かんだ。仕事の話ではむりやり中断させる真似もできない。早く終わらないものだろうかと、ただやきもきとしているしかなかった。

 一方、通話中の本人はまるで気にしていない。声を低めてぼそぼそと話すのはいつものことであり、周囲に配慮するという意味合いが異なるのだ。

「……そうだな、ドラグノフが希望だが、特にこだわるわけではない。……それならボルトアクションにしてくれ。……ああ、それでいい。……了解」

 ようやく宗介の携帯は胸ポケットに戻った。

 時間にすれば二分足らずだったにもかかわらず、やけに長く感じられた。ホッとしたかなめは、生真面目な横顔をちらっと見上げた。

 少年の顔だちはどちらかといえば整っているのだが、目つきが鋭く、仏頂面のせいで不機嫌そうに見える。頭の中で会話を反芻し整理しているのか、俯き加減になっており、両目が少し長めの前髪に半ば隠れている。散髪からそろそろ一月経つので、前髪だけでも近いうちにカットしてあげた方がよさそうだ。

 目が合った。ようやく少女の視線に気付いたらしい。不思議そうに見返してくる。

「なんだ?」

「なんだじゃないわよ。まったくこんなとこでよく悠長に電話なんてできるわね」

 かなめの語調は説教モードになっていたが、宗介が意に介した様子はない。

「改良して音声に対する集音性を向上させたので、周辺が騒がしい場所だろうと小声でも双方ともよく聞こえるぞ」

 見当違いの返事に短気なかなめは早々とキレたものの、場所をわきまえるだけの理性はかろうじて残っていた。小声でしかりつける。

「そうじゃない! 単なるイヤミよ! っじゃなくて、あたしは電車の中で携帯使うのはマナー違反だって言ってんのよ! 今度からは後でかけ直すようにしなさい」

「わかってはいるが、急を要する場合があるのでそうもいかない」

 あくまでも四角四面な相手に、かなめはある種の諦めを感じた。

「で?」

「ん?」

「だから、今の電話、マオさんからだったよね?」

 少女は、澄ましていれば誰が見ても綺麗なだと感想を抱くせっかくの顔に、ふて腐れたような表情を浮かべる。

「肯定だ」

「ってことは……その……仕事なわけ?」

「肯定だ」

「今から行くの?」

「いや、東京都内での任務だ。予定では明日、明後日の二日で終了する。そうだな、明後日の夜には帰宅できるだろう」

「まさか都内でドンパチするわけ?」

「そうはならないはずだ。詳細は不明だが、なにもせずに終わる可能性の方が高いらしい」

「ふうん」

 かなめの口調はそっけない。しかし宗介が遠くへ行くわけでもなく、仕事はさほど危険も高くなさそうだと聞いて、目に見えて機嫌が良くなった。

「ま、どうでもいいけど。……それじゃクルツ君たち、こっち来るの?」

「マオだけが来る。クルツは別の任務に就いているそうだ」

「そ。マオさん、いつ来るって?」

「本日一八〇〇時に調布空港に到着予定だ」

「午後六時、か。それじゃ、夕食は三人分ね?」

「ああ、頼む」

「りょーかいしました、ぐんそーどのっ」

 かなめがいたずらっぽく笑いかけると、宗介はほんの少しだけ頬を弛める。

 スピードを落としていた電車がやがて泉川駅に着き、ドアが開いた。二人は人波に乗ってホームに下りていった。



 夕刻、メリッサ・マオはかなめの家に直接やってきた。宗介がほとんど入り浸りの状態であるのは公然の秘密となっている。彼の先導でリビングに入ると、かなめはキッチンで立ち働いていた。

「いらっしゃい」

「おじゃまするわね。ん~、いい匂い」

 漂ってくる香草とホワイトソースの香りに空腹が刺激された。

「あと煮込むだけなんですけど、二十分くらいかかるから適当にやっててくださいね」

「ええ、ちゃんとビール持参で来たわよ」

 コンビニのロゴが入ったビニール袋を掲げてみせる。来る途中、わざわざタクシーを寄らせて購入してきたバドワイザーだ。

「だと思った。おつまみに枝豆ゆでておきました。和風でなんだけど」

「日本じゃやっぱり枝豆よね。ふっふっ、クルツの悔しがる顔が浮かぶわ。そうそう、これはカナメに」

 別の袋を手渡した。中を覗き込んだかなめが歓声を上げる。

「わー、ドライ・マンゴー。嬉しい。今ハマってるんです」

「だってね。ソースケから聞いたわ。ちょうど昨日休暇だったからグアムに行ったのよ」

「ごちそうさまです」

 感情表現が豊かでくるくるとよく変わるかなめの表情は、見ていて楽しいものだ。ドライ・マンゴーのパッケージを宝物でも手にしたかのように撫でてからいそいそと戸棚にしまい込む様子に、自然と笑みがもれた。

「マオ、任務の詳細を聞きたいのだが」

 少女とは対照的に無表情な少年が、さっさとテーブルに着いて本題を切り出した。

「あんたね、長旅をしてきた同僚をまずはいたわろうとは思わないわけ?」

「俺はしょっちゅう往復しているぞ」

「はいはい。ま、面倒なことは先にすませとくか。食後に仕事の話なんてしたら、消化不良起こすからね」

 マオは宗介の向かい側の椅子を引き出し、腰を下ろした。

「あ、あたし、お風呂に入ってきます。お鍋はタイマーかけてて自動的に火が落ちるんで、放っておいて大丈夫ですから」

「わかったわ」

 はずしたエプロンを椅子の背にかけ、かなめはさっさと部屋を出て行った。

 部外者の自分はいない方がいいだろうと席を外した彼女の配慮に、マオが気付かないはずもない。

「ホント、いいね」

「俺が任務で東京を離れるときには、毎回不機嫌になるが」

「それだけ思われてるんじゃない。贅沢言わないの」

 アッシュブロンドの髪をもつ友人の恋をもっぱら応援してきたマオとしては、正直なところ胸中に複雑なものが無くもなかった。だが、宗介を変えたのはかなめであるのは理解していたし、なによりかなめ本人のことを気に入ってもいた。

「こればっかりは第三者がどうこうすることじゃないから、仕方ないわね」

 マオはひとりごちた。

「なんと言った?」

「なんでもないわ。さて、ブリーフィングといきますか」

「ああ、始めてくれ」

 何枚かの写真を取り出しながら、マオは今回の仕事について話し始めた。

 マオと宗介に与えられたのは狙撃任務だった。本来は二人が実行するような内容ではなかったが、たまたま別件でクルツたち狙撃を本分とする者がすべて出払っているために回ってきたのだ。

 標的は、ブラジルに本拠地がある麻薬密売組織のボス、アントニオ・ペサニャという人物である。日本のヤクザジャパニーズ・マフィアの門川会系不二見組と手を組むために自ら来日しているので、会合の場を狙って暗殺することになっていた。

「これがペサニャ」

 マオが差し出した写真には、どれも四〇歳前後と思しき恰幅のいい白人男性が写っている。一枚だけ、二〇代後半の細身でなかなか美人な混血と思われる女性といっしょのものがあった。

「女は妻のヴェロニカよ。悠長にも観光を兼ねて彼女を同伴してきてるの。昨日まで京都と奈良を巡ってたとかで、今日の昼過ぎに東京に到着したそうよ」

 ペサニャは、この十数年でブラジルでも一、二を争うほどに組織の勢力を拡大してきた、ブラジル政府にとっては現在もっとも頭の痛い存在である。アメリカによる麻薬密売ルート撲滅の圧力は、数年前にコロンビアから始まって、今では南米各国に波及している。アメリカとの軋轢あつれきを避けたい政府は、組織からの賄賂よりも、国としての体面を選ばざるを得なくなった。

 とはいえ、相手は鉄壁の警護に護られていて、なかなか手出しができない。暗殺は二度計画され、二度失敗に終わった。それなら製造工場を一斉に襲撃してしまえ、ということで軍を動かしたものの、残念ながら情報が漏れて、制圧したときにはすでにもぬけの殻となっていた。

 再度情報収集からやり直しとなり、アメリカに成果を提示できないまま二年が過ぎてしまった。今度は失敗するわけにはいかない。だが内通者がどこにいるかわからず、軍上層部すら信用できなかった。猜疑心に駆られたブラジル政府のトップは、そのようなわけで組織の殲滅せんめつを〈ミスリル〉に非公式に依頼してきたのだ。

 そこで前月から、南大西洋戦隊が現地工場の襲撃を計画していた。その最中さなか、ペサニャ来日の情報が入った。随行する部下は少人数であり、本国にいるときよりも暗殺には向いている。なにより極東と南米では物理的に距離が離れていることで、組織本部への連絡にはわずかながらも時差や齟齬が生じ易い。東京での暗殺が速やかに決定された。

「で、南大西洋戦隊のPRTから狙撃斑が派遣されてくることになったわけ」

 ところが、数日前に入京していた情報部の下調べにより、会合の場所として四か所が用意されていると判明した。派遣された人員では足りない。そのためにデ・ダナンに援助の要請があったわけだ。

「経緯と状況は理解した。不二見組との会合時を選んで狙撃するのは、一般人を避けるのと同時に、不二見に対しても警告するため、といったところか?」

「ええ、そのとおり」

「しかしボスが日本で暗殺されたと知れば、配下の者が復讐のためにこちらに来て、不二見組と全面的な抗争になるのではないか?」

「そうなる前に本拠地が殲滅されるわね。ペサニャ暗殺任務完了の報告を入れると同時に、現地で総攻撃を開始するそうよ」

 組織は新興勢力な上に、ペサニャによるかなり強引なワンマン運営であるため、頭さえ取ってしまえば瓦解させるのは容易だと分析されている。また、これまでにブラジル政府の工作員が内部に入り込んで、ペサニャの有力な側近二人を互いに反目するように仕向けてきてもいた。暗殺の知らせを双方にそれぞれ歪めて伝えれば、その二人とそれぞれの取り巻きはおそらく抗争となり、一致団結することはないものと思われた。そこで混乱に乗じて工場を制圧してしまう。以上が今回の計画である。

「わかった」

「OK。で、あれが用意してきた狙撃銃」

 マオは部屋の片隅にある場違いなゴルフケースを顎で示した。彼女が持参し、玄関で受け取った宗介が壁に立てかけておいたものだ。

「整備はあたしが万全にやっておいた。信用して」

 宗介が立ち上がった。ゴルフケースから、ストックがグラスファイバー製の軍用ライフルを取り出す。

 その手元を、風呂から上がってちょうどリビングに戻ってきたかなめが覗き込んだ。

「狙撃銃? ひょっとしてM16とかってやつだったりして?」

 少女は生乾きの髪に手櫛をいれながら、物珍しげに眺める。宗介は、なぜだか彼女にはあまり見せたくないという気がして、視線から隠すようにライフルをケースに収めた。

「いや、これはレミントンM40A1だ。それにM16はアサルトライフルだぞ」

「でもゴルゴ13が狙撃に使ってるのって……。うーん、やっぱ記憶違いかな」

 かなめは、数日前に親友の恭子の家に遊びに行ったときに、彼女の兄の蔵書で少しばかりかじってみた知識を呼び起こそうとした。だが、さほどの熱心さもなくすぐに諦める。そもそも銃器のことなどさして興味があるわけではなく、宗介との会話のネタになるかな、くらいに考えて記憶にとどめようとしただけである。狙撃銃と突撃銃の違いもさっぱりわからなかった。

 宗介はといえば、そのマンガを読んだことなどあるわけもなく、作中で主人公が突撃銃であるM16A2を改造して狙撃銃として使用しているという設定を知る由もなかった。

「まあどうでもいいや。……しっかし、なんだって妙齢の乙女の部屋にこんなもんがごろごろ転がってるんだか」

 壁に立てかけられたゴルフケースに納まっている狙撃銃。コーナー・テーブルにのったプラスティック爆弾とグルカナイフ。床に拡げられた新聞紙の上には整備を終えたばかりの自動拳銃。順に視線を移してから、かなめは大仰に溜息をついてみせた。

「そりゃあ、男の選択を間違えちゃったからじゃない?」

 マオが苦笑混じりに肩をすくめる。かなめは宗介にちらっと視線を落として、もう一度しみじみと溜息をついた。

「確かに」

 マオが吹き出した。つられたようにかなめもくすくすと笑い出す。宗介はどう反応すればよいのかわからず、渋面を作った。

「そろそろ夕食にしていい?」

 笑いながらかなめが問い、宗介は頷いた。

「ああ、頼む」

「メニューはチキン・ダンプリングとグリーン・サラダで~す。デザートにはカシスのシャーベットがあるからね」

 かなめはいそいそと立ち上がって、キッチンへと向かった。

 二分後、千鳥家のリビング・ダイニングは、物騒な作戦会議から和やかな夕食会の場に一転していた。



 南大西洋戦隊の一行とは、東京ロイヤル・インターナショナル・ホテルの一室で合流することになっていた。

 ホテルは、ペサニャが滞在しているクワトロ・スタジオーニ・ホテル橘山荘の南西、約三〇〇メートルに位置する。もちろんその立地条件から選ばれたにすぎないが、一流ホテルだったために、ロビーを横切りながら宗介は少しばかり居心地の悪さを感じていた。

 目立たないようにとマオに指示されて、ハイネックの薄手のセーターにブレザー・ジャケットとスラックスという、あまり馴染みのない服装をしていることも一因だった。見立ててくれたかなめが似合っていると保証したとはいえ、ロビーに集っている他の人々のように品の良い服装が身に付いているとは思えない。

 なぜこのように感じるのだろうか、と疑問に思った。以前の自分であれば、服装など気にすることはなかったはずだ。

 回答を得る前に、エレベーターが十一階に付いた。一一〇三号室をマオと共に尋ねる。階下であらかじめ連絡を入れておいたので、口頭の簡単な確認を取っただけですぐにドアは開かれた。

 迎えたのは、リーダーだというフェルナンド・レイエス少尉だった。短く刈り込んだ髪にがっしりとした体躯のいかにも軍人然とした三十歳前後のラテン系だ。彼にとって、妙齢の美女とティーンエイジャーという組み合わせの狙撃チームはかなり意外だったらしく、それが表情に表れてしまっている。それでも余計なことは言わずに、二人を奥へと招き入れた。

 シックなアンサンブルのパンツ・スーツに身を包んだ東洋系のグラマーな美女が姿を現すと、瞬時に室内の男たちの視線が集まった。あからさまに「ヒュー」と口笛を上げた一名を、少尉は睨みつける。

「西太平洋戦隊から来てもらったマオ曹長とサガラ軍曹だ」

 紹介された宗介が会釈して始めて、隊員たちはマオから視線を移した。だが、今度の反応はあまり歓迎しているとはいえないものだった。

「おいおい、〈ミスリルうち〉が人手不足なのはわかっちゃいるが、西太平洋戦隊の状況は特に深刻らしい。まさか子供が来るとはな」

 床に座り込んで拳銃を整備していた若いアラブ系の男が、手を止めて大きく肩をすくめる。異口同音の言葉が次々に上がった。

 宗介は同年代の日本の高校生に混じっていればかなり大人びて見える。しかし、その場にいる男たちは一様に強面で体格のいい、いかにも歴戦の強者といった雰囲気を漂わせている。比べると、宗介の若さが際だってしまうのは仕方がないことだった。

 マオがちらっとこちらを伺ったのに気付き、かすかに首を横に振る。よくある状況だったので、宗介は慣れていた。わざわざ相手をしてやることはない。協力し合う必要がある任務内容ではないのだがら、信頼を得る必要もないのだ。

「二人には要請して来てもらったことを忘れるな。失礼の無いように接しろ」

 リーダーという立場から、おそらくは当人も抱いたであろう感想を封じて、レイエスが怒鳴った。続けて、男たち五人の名を順に呼び上げ二人に紹介する。

「ミーティングを始める。ルイス、リカルド、さっさと片づけろ」

 宗介を子供と呼んだアラブ系と、同じく拳銃を整備している途中のケルト系らしき赤毛に向けて付け足した。

「まだいいわよ、ミーティングはそれが終わってからにしましょう。こっちが来るのが早すぎたんだから」

 マオはレイエスを振り向いた。作戦ではきっちりオンタイムの彼女だが、日常的にはわりとアバウトなため、今日も一五分ほど到着が早かった。

「悪いな。なにせヒマさえあれば銃の手入れをしているような連中でな」

「ウチも似たようなもんよ」

 くすりとマオが笑った。レイエスも笑顔になって、室内に据えてあるバーへと案内する。

 少なくともチーム・リーダー同士は友好な関係を得たようだった。グラスを片手に、二人は立ち話を始める。

 そばの壁際に立って、宗介はなんとはなしに拳銃を整備する様子を眺めていた。

 視線に気付いたのか、リカルドと呼ばれていた赤毛が顔を上げた。

「坊やは何を使ってるんだ」

「グロック19だ」

 相手からは失笑が漏れた。

「おいおい、あんなのは玩具おもちゃだぜ」

 スピードローダーをパウチに突っ込みながら、自分のS&W M29を得意げに見せつけてくる。それこそ子供がお気に入りの玩具を見せびらかしているような印象だった。

「どうだい、坊主。本物の銃ってのを触ってみるか?」

「必要ない」

「そうかい」

 そっけなく答える少年の態度が、リカルドには気に入らなかったようだ。

「ま、坊やにはグロック辺りがちょうどいいんだろ」

「そうそう、小さなお手々にはそれに見合った小さな銃でなきゃな」

 ルイスも揶揄したが、再びレイエスに睨まれそっぽを向いた。

「…………」

 からかいを気にする様子もなく、宗介は無表情のままだった。

 その大口径の拳銃にはまるで関心がなかった。己の戦い方には不向きであるとわかっている以上、利便性を最優先にする宗介の選択に候補として上がることさえない銃だ。そもそもリボルバーは、丸みを帯びたグリップが手によく馴染み、作動不良(ジャム)の心配はないものの、いかんせん装弾数が少なすぎて連射にも向いていない。東京での護衛任務で、メインガンをオートマティックにし、リボルバーはサイドガンにとどめているのはそのためだ。

 かといってグロック19に格別の執着があるわけでもなかった。これを選んだのは都合が良かったからに過ぎない。抜き易く、撃ち易く、装弾数が多く、信頼性もある。軽量で小型なため携帯に便利であり、護身用に向いていた。予備のS&W M49ボディガードにしても、小型で隠し持つのに向いていることが選んだ要因だ。

 宗介とて、S&W M29やデザートイーグル50AEなどの、ハンドキャノンとも呼ばれるような大型のものも扱えなくはない。だが、拳銃に格別の破壊力は求めていない。威力を必要とするのであれば、ショットガンやアサルトライフルを使用すればいいことだ。

 とはいえ、そんな自分の意見を述べたところで、強力な拳銃を持つことに意義をもっている者に受け入れられるはずがないのはわかっていた。いずれにしても装備の好みも戦い方も人それぞれである。

 ふと壁に掛かっている時計が目に入った。宗介は一瞬思案してから、部屋の反対側へと歩き出した。

「ソースケ?」

「バスルームだ」

 宗介は、背後からのマオの声に答えると、言葉通りバスルームに入っていった。

「若い者をからかうのはそれくらいにしとけ」

 扉を閉める直前、レイエス少尉の声が小さく聞こえた。



 数秒ほど室内にはしらけた雰囲気が漂ったが、男たちはすぐに陽気な調子を取り戻した。東京の食べ物やら、日本女性の品定めやら、お定まりの話題で勝手に盛り上がる。

 レイエスはマオのグラスにノンアルコール・ビールを注ぎ足した。

「すまんな」

 相手の率直さに、マオは口端を少し上げた。

「構わないわ。当人がたいして気にしてないから」

「しかし……」

 レイエスがバスルームにちらっと視線を向けた。

「あれはなんとも思ってないわね。あまり顔に出る方じゃないけど、日頃付き合いがあるからそれなり把握してるわ」

「そうか、それならいいが」

「あなた、意外に気配りの人なのね」

「意外はないだろ」

 マオは肩をすくめて笑ってみせた。

「少尉殿。ペサニャがようやくお目覚めですよ」

 部下の一人にヘッドフォンを手渡され、レイエスは耳に当てた。

 ペサニャが滞在するホテル室内に取り付けた盗聴器から傍受しているのだろう、とマオは見当を付ける。

「聞くか?」

 ヘッドフォンを寄越そうとする。マオは首を横に振った。

「ポルトガル語はほとんどわからないのよね」

 レイエスは部下に傍受を続けるよう指示し、もう一度マオに向き直る。

「狙撃はあんたがやるのか?」

「いいえ、彼よ。あたしは観測」

 通常、狙撃任務は二人一組で組む。一方が狙撃手、もう一方が観測手である。狙撃手は対象を射撃する。観測手は周囲の状況の観察、把握、監視や、命令伝達などを受け持ち、狙撃手が狙撃に専念できるようにサポートする。今回の任務では、宗介が狙撃手、マオが観測手の役割分担をするわけだ。

「大丈夫なのか?」

「本人ができると言ってるからにはできるはずよ。あいつは必要もないのにはったりをかけたりはしないわ。できないなら始めからできないとはっきり言う、そういう性格よ」

「あんたはあの坊やを認めているわけだな」

「ええ。全面的に信頼できるし、そうしてるわ」

「それにしたって若い、若すぎる」

「そう思うでしょうね。あたしも初対面の時にはなんだってこんな子供がって思ったくちだから……。でも一度いっしょに作戦に参加すれば、いやでも実力がわかるってもんよ」

「そうか。ま、あんたを信じるとしよう」

「それに、宗介で驚いてたら西太平洋戦隊ではやってけないわよ。意外性で言ったらもっとすごいのがいるんだから」

 マオは、アッシュブロンドの少女の顔を思い浮かべて苦笑した。

 もちろんレイエスには意味がわからず、厳つい顔には似合わないきょとんとした表情になる。しかしそれについての質問が出る前に、カチリとかすかな音を立ててバスルームの扉が開き、宗介が出てきた。そちらに気が逸れて話は立ち消える。

 元の位置に戻った宗介の顔から、マオはどことなく先刻までとは異なる雰囲気を感じた。

「あんたにしてはずいぶん時間がかかったじゃない?」

 からかうような口調で言う。

「電話を掛けていた」

「ふうん。カナメに?」

「……そうだ」

 マオがわざとニヤッと笑ってみせると、宗介は視線を外した。

「先週提出した日本史のレポートが返却されることになっていたので、結果を聞いただけだ」

「ほほう、そうなの。ま、いいけど」

「他の作戦中になんだが、単位がギリギリなので、レポートの採点によっては護衛任務に支障をきたすのだ」

「別にかまわないのよ。まだミーティングにも入ってないんだから。護衛はたいせつな任務だしね」

 「たいせつな」を強調すると、少年が顔を上げた。

「マオ、俺はだな──」

「いいから、いいから。さ、それじゃミーティングを始めましょうか」

 訳がわからないながらもはたからおもしろそうに見ていたレイエスに、マオはウインクした。

 ルイスとリカルドも片付けを終えていたので、チーム・リーダーは仕切り直す。まずは情報部からの報告を再確認した。

 ペサニャは昨日午後二時三〇分、東京駅に到着し、そのままホテルに直行した。妻と共に夕食を取ったとき以外に、部屋からは出ていない。

 今日はつい一〇分前に起き出したばかりだ。会話によると、昼食後に都内の観光に出かけるらしい。

 同行しているのは、妻ヴェロニカと護衛の七人である。日本が他国に比べて治安がいいからなのか、あるいは自国から地球を半周するほど遠いという安心感からなのか、護衛が七人だけというのは、南米での行動時に一個小隊ほども引き連れているのと比べて、ずいぶんと少ない。他には、旅行会社からの紹介で通訳の女性を一人、日本に来てから雇っていた。

 ペサニャと不二見との会合場所は、いまだに決定されていない。当日の午前中に、ペサニャが決めて不二見に連絡するという取り決めになっていた。その場所として四か所が想定される。そこで二人ずつ四組に分かれて、その四か所にそれぞれが待機するわけだ。

 可能性が一番高いのは、ペサニャ滞在先のクワトロ・スタジオーニ・ホテル橘山荘。次に、予備として部屋を取ってあるホテル・ニューオクタニとホテル・センテニアル・ハイアット。広尾にある不二見の自宅でも客を迎える準備をしているが、可能性は低いものとみなされた。はたしてペサニャが相手のテリトリーにまで足を運ぶかどうかが疑問視されたのだ。

「狙撃手と観測手の組み合わせはいつもどおり。それと、マオ曹長とサガラ軍曹のペアだ。では受け持ち場所を決めよう」

 マオが手を挙げたので、レイエスが促す。

「一つ質問なんだけど、狙撃が一番簡単なのはどれかしら?」

「センテニアル・ハイアットだ。ニューオクタニはそれよりいくらか難しいだろう」

 橘山荘と不二見邸は、立地条件の加減で狙撃ポイントからの高低差がかなりでるため難易度が高い、とレイエスは注釈を付けた。

「それじゃ、あたしたちはセンテニアル・ハイアットにしてくれない?」

 あらかじめマオと宗介は、一番容易と思われる場所を希望することを取り決めていた。

「構わないが……いいのか?」

 後半の言葉は狙撃手に向けられていた。宗介が頷く。

「狙撃は俺の専門ではない」

 途端に非難めいたざわめきが傍らから上がった。

「本当にこの坊やで大丈夫なのかよ」

「問題ない」

 宗介の物言いには、なんのけれんみもない。

 実のところ宗介は射撃を得手とはしていない。狙撃手として超一流であるクルツのように、鼻歌混じりでダブルタップをまったく同じ軌道に決めたり、一キロメートル離れた場所からコインを打ち抜くような腕はなかった。だが、他のSRT要員と比べて遜色ない程度の射撃能力は有する。〈ミスリル〉入隊以前には、狙撃任務も幾度となくこなしてきた。

「問題ないったってな──」

「連絡してあるはずだけど、あいにくウチの狙撃手連中は、フィリピンに逆狙撃の任務で駆り出されて全員出払ってるの」

 マオが言葉尻をさらった。これ以上のご託はごめんだ。宗介が信頼に足ることは、彼女が一番よく承知している。

「確かにこの任務はあたしらの専門とは言えないわ。けれど、残ってる隊員の中で最適ってんで派遣されてきたのは忘れて欲しくないわね。専門ではなくても、あたしたちはSRTとして要求される狙撃能力はもってるのよ」

「……って、あんたらSRTかよ。二人とも?」

「ええ、あたしも、彼もね」

 SRT要員として標準の能力──それは、一流という意味だ。もちろん超一流と一流の違いを宗介とマオはよく心得ていた。狙撃に関して、二人には「超」は付かない。だからこそセンテニアル・ハイアットを選択した。PRTであっても狙撃を専門とする者たちに、難易度の高い任務を任せるのは順当な判断といえる。

「よくわかった。マオ曹長、サガラ軍曹、部下の失礼は許してくれ。ではここは君たちにまかせよう」

「了解」

 マオと宗介がそろって答えた。

「この坊やがSRTねえ」

「もうよせよ、クロード」

「SRTってことは、クルツ・ウェーバーを知ってるな?」

「イヤになるくらいよく知ってるわ」

「クロードはウェーバーって野郎と腕比べしたかったもんで拗ねてんだよ」

「うるせえな」

 西大西洋戦隊の男たちは不承不承ながらも受け入れた様子だった。それ以上、年若い同僚につっかかる真似はしなくなった。



 昼前に一旦解散し、一行はペアごとに分かれてそれぞれの持ち場へと散っていった。

 マオと宗介は、新宿中央公園の西側を何ブロックか歩いて回った。公園を挟んでホテル・センテニアル・ハイアットのちょうど反対側に当たる。

 近隣の地図は頭の中にたたき込んであった。公園の東側であればともかく、西側はほんの一、二ブロック進んだだけで街並みは一般的な住宅街とさして差がなく、観光客がうろつくような場所柄ではない。地図を片手にうろうろしていては目立って仕方ないだろう。

 一応の目安はいくつか、すでに南大西洋戦隊の彼らがつけておいてくれていた。二人はそのどれが自分たちに一番向いているかを確認するだけなので、比較的簡単だったといえる。すべてをやるとしたら一日がかりになっていただろう。

 狙撃する地点を決定するには、考慮すべき条件がいくつかある。

 まずは、方位と距離である。西南西向きの部屋に撃ち込むにはどこから狙うのがいいか。正対する西南西からというのは当然であるが、要所に見張りのいる可能性があるので近すぎてはいけない。公園に面したビルの屋上からでは目に付きやすく、除外すべきだ。かといって距離が離れるほど難易度は上がる。宗介は、自分の腕を鑑みれば六〇〇メートル以内、できれば五〇〇メートル程度と考えていた。

 次に、高さの問題がある。標的の部屋は九階だ。狙うにはその高さよりも少しだけ上の位置がいい。高すぎる位置からでは俯角ふかくが急となり、やはり難度が上がるのだ。

 適度に離れた位置で、都合の良い方位にあり、目標との間に障害物がなく、程良い高さに屋上があるビル、となるとかなり限られてくる。

「やっぱり、ここからかな?」

 曇天の下、ビルの屋上に立つと一際風が冷たい。亜熱帯地域からやってきたばかりのマオには応えた。身を震わせてジャケットの襟を立てる。

「そのようだな」

 一方の宗介は木枯らしなどまったく気にとめることもなく、ホテルとの位置関係をじっくり観察している。

 二人が選択したのは、候補としてあげられていた三つのビルで、最も北側のものだった。距離はホテルから約五三〇メートルの位置にあり、対象にほぼ正対して、屋上から狙うと俯角約十度となる。人目に付きにくい立地条件の上、近隣のビルからちょうど目隠しになる位置に給水塔が設置されている。屋上の緑化が流行りのためか、申し訳程度とはいえ不規則に低木が配置されているのもいい。

「太陽の向きを考えると、会合が昼食時で良かった」

「そうね、予報は晴れだから、この場所だと午後は時間が経つほど陽射しのせいで中が見えにくくなるわね。あとは明日、風が強くないことを祈るとしましょう。天気予報が当たると助かるわ」

 残りの時間は事前準備に費やした。

 実際の狙撃ポイントを定める。風見のスカーフを手摺りに結わえ付ける。退路を複数経路設定する。周囲のビルの状況を把握する。その他にも、やっておくことはいろいろとあった。万端の準備は作戦の成功に大きくかかわる。

 まったくの不要で終わるかもしれないと承知しながらも、もちろん二人は手を抜かない。前日にできることをすべて終えた頃には、初冬の陽が早々と傾き始めていた。



 どうやら今日は時間を待つだけが任務となりそうだ。それでも宗介は、銃のスコープを覗く姿勢は崩さなかった。

 空はよく晴れ渡って、明け方に一時いっとき降った雨のおかげで昨日よりも空気が澄み、視界がいい。風はほとんどなく、じっとしていても暖かい陽射しのおかげでさほど寒くはなかった。クルツが居合わせていたなら、

「こりゃあ絶好の狙撃日和だぜ」

 とでも評したかもしれない。場合によっては悪天候の中をより長時間、同様の任務に就くこともある。それを考えれば四、五時間こうしているくらい楽なものだ。

 正午まであと二十分となったとき、携帯電話の呼び出し音が鳴った。マオが出て、簡単に一言二言会話した。

「ペサニャが不二見邸に到着したそうよ」

「そうか」

「予定どおり、あたしたちはこのまま一四〇〇時までこの場に待機」

「了解」

 伏せた姿勢で狙撃銃を構えたまま、宗介は微動だにしない。

 隣ではマオが、三脚架つきの観測スコープの前で覗きこみ易い姿勢を保ちつつ、レーザー測距器を手持ち無沙汰にいじっていた。

「お弁当でも持ってくればよかったわね。ピクニックができたわ」

 さらになにか言おうと口を開きかけたところで、無線から呼び出しが聞こえ、軽口は中断させられた。ヘッドセット・レシーバーに付いているマイクを口元に引き寄せる。短い会話の後に通信を切って振り向いたときには、彼女の目つきが変わっていた。獲物を狙うヤマネコといったところだ。

「連中は不二見の家を出たってさ」

「どういうことだ?」

「ペサニャは不二見を迎えに行っただけってこと。向かっているのは、方向からあそこらしいわ」

 マオの視線が向けられたのは、前方のホテルだった。

 二人は身動きひとつせずに待ち続けた。ゆっくりと時間は過ぎ、正午を三〇分経過してようやく、待っていた人物が取り巻きと共にその部屋に姿を現した。

「おいでなすったわ。ソースケ、準備して」

「了解」

 宗介はトリガーガードにかけていた人差し指をトリガーに触れさせた。

 一方マオは、観測スコープを覗き込んで様子を窺ったり、レイエスと交信したり、周辺に目を配ったり、と観測手の役目を果たす。少しの間慌ただしくしていたが、やがて動きを止めると、

「いつでもいいわ」

 と低い声で指示を寄越した。

「了解」

 宗介は目と人差し指だけに神経を集中する。

 部屋の奥でひとかたまりになっていた一行が、やがてばらけた。標的の男がいよいよ銃のスコープに一人で収まった。あとはただひたすらその姿を追う。確実な一瞬を捉えるために、息を詰めた。

 機会は十七分後に訪れた。

 スコープの十字線の中央に、ペサニャの眉間を捉えた。

 その瞬間、宗介の指はためらいなくトリガーを絞る。

 一瞬遅れて、スコープの向こう側で男は床に倒れていった。

 マオがレイエスと連絡を取る。その間、宗介は観測手用のスコープを覗きこんで部屋の様子を伺った

 不二見組の男たちは状況が飲み込めないらしく、右往左往している。ジャパニーズ・マフィアは、遠隔からの狙撃などという暗殺方法には縁がないらしい。こういった状況に慣れているのであれば、とっくにカーテンが引かれて、外から見えなくなっているだろう。だが、誰も考えが及ばないのか、実行する者はいない。そういえば以前クルツから聞いた話では、関西ならともかく、都内の暴力団は拳銃などめったに使わないとのことだ。知り合いのとある組を思いだしても、納得がいく。

 ペサニャの護衛と思われる男たちがジェスチャー混じりになにやら指示しようとしても、言葉が通じないようだ。一分前まで小国の支配者だった男が死体となって転がっているその横で、棒立ちになっている女が通訳なのだろう。

 死体には覆い被さるようにして別の女がすがりついていた。おそらくペサニャの妻のヴェロニカだろう。

 ようやく護衛の一人が窓に駆け寄りカーテンを引く行動に出る。

 そのとき、ヴェロニカが天を仰ぐように上向く様子が見えた。写真ではかなりの美人だったはずだが、溢れる涙で化粧が崩れ、無惨な顔になっている。すぐにまた夫の亡骸に取りすがって、その顔は見えなくなった。さらにその姿もカーテンの影に消えていった。

 きっちりと閉ざされたクリーム色のカーテンを宗介は見つめ続けた。マオに声を掛けられるまでそうしていた。

「どうしたのさ」

 宗介はスコープから顔を離した。

「……女が泣くのは厭なものだな」

「なんのこと?」

「ペサニャの妻が泣いていた。他の者が引き剥がそうとしたが、貼り付いたように離れずに死体に取り付いて、ただ泣いていた」

「ソースケ、あんた……」

「任務完了。撤収しよう」

 どこか不安げな目を向けてきたマオを無視して、宗介は狙撃銃からマガジンを取り外した。

 装備を片づけ、すべての痕跡を消し去るのにさして時間はかからない。撤収作業など、目を瞑っていてもできるほど手慣れている。

 ものの数分で終えて、マオと共にその場を後にする。

 屋上階段室の扉の取っ手を力任せに引いた。軋みながら鉄扉が開く。それが背後でゆっくりと閉まるまでの数秒間、隙間から入ってくる風がどういった加減かヒューヒューと耳障りな音を立てた。

 まるで女のむせび泣く声のようだ。

 宗介は意識せずに眉をしかめた。

 なぜか、決して聞こえるはずなどないヴェロニカの泣き叫ぶ声が聞こえてくるような気がした。



 数時間後、東京駅に隣接するビジネスホテルの一室で、南大西洋戦隊の一行と合流した。

 大柄の男が六人もいる中にさらに二人が加わると、さほど広くない部屋はひどく狭苦しく感じられる。もっとも任務が終了して早々と祝杯を上げている連中はまるで気にしていないようだったが。

 マオは、改めて任務完了をレイエス告げた。次いで彼から、情報部がペサニャの死亡を確認したと知らされる。

 やるべきことはすべて終えた。勧められた缶ビールを受け取り、心おきなく祝杯に加わる。

「俺たちは明日から三日間の休暇だ」

「あら、うらやましいこと。あたしなんて今日中に帰れってありがたい命令をもらってるわ」

「そいつはきびしいな」

 そんなやりとりが耳に入ったが、元々饒舌でもなければ社交的でもない宗介は話に加わりはしなかった。ウーロン茶の缶を片手に一人離れて窓辺により、カーテンの陰から、午後の陽射しが明るく照らす都会の街並みを見下ろす。

 任務は無事成功し、レイエスからは労いの言葉をもらったものの、なぜだか心が晴れない。それどころか、先ほどの女の姿が繰り返しプレイバックされ、気鬱にさえなってくる。

 宗介は窓の向こうに見えるヴェロニカの泣き顔を睨みつけた。

 殺したあの男は無辜むこの通行人などではない。麻薬を製造、販売することによって富と権力を築き上げた人間だ。あの男が金儲けのためにばらまいたドラッグで、いったいどれほどの人間が闇に陥ったものか。自ら望んで手を出すような者はどうでもいい。だが、ドラッグを利用して女や子供を食い物にする輩は後を絶たないのが現状だ。大勢の女たち、子供たちが犠牲になってきたのだろう。今日、取り決めがこうしてつぶれなければ、この東京でも同じことが起こったはずだ。経路は数多くあるから、これですべてのドラッグの流入が絶たれるわけではないが、わずかではあっても確実に、その一部を未然に防いだことになる。

 自分に言い訳しているのを、宗介は自覚した。

 莫迦莫迦しいことだった。なぜこんなことを思うのだろう? 正義を気取ってどうする? これはただの仕事だ。良いも悪いもない。自分は傭兵だ。命じられれば、そうする必要があれば、どんな相手だろうと殺すのが商売だ。相手に非があり、自分には道理があると考えるのは、まったくもって愚かなことだ。あの男と俺と、どれほどの違いがあるというのか。他人をあの世に送っているのに変わりはないではないか。

「なに考えてるのさ」

 いつの間にかマオが傍らにいた。

「いや、別に」

「任務は成功したってのに、なあに不景気な顔してるのよ」

 宗介がかぶりを振ると、マオはことさら軽い調子で言い、からかうような笑顔を浮かべた。

「悪党が一人、この世からおさらばした」

「そんでもってドラッグの流入を少しばかり抑えることができたんだぜ」

「そうそう、喜ばしい限りじゃないか」

 男たちが続けたそんなセリフも、泣き伏していた女の姿が目の前に浮かぶのを止める役には立たなかった。

 唐突に、胸の奥底から鈍い痛みに似たなにかが迫り上がってくるのを感じた。それは喉元をとおり、目の奥の方に留まった。それからやがて静かに去っていった。

 宗介は胸の内で呟いた。

 ……それでも、あの女にとって、アントニオ・ペサニャは良い夫だったのかもしれない。何にも代え難いほどたいせつな存在だったのかもしれないんだ。

 殺した相手の背景を考えるなど、初めてのことだった。



 一日の授業を終えて、かなめは生徒会室にいた。いつものように副会長の仕事をこなす。

 安全保障問題担当を除いて他のメンバーは全員そろったものの、たまたま今日はさしたる仕事がなかった。会計と備品係はちょっと顔を出しただけですぐに帰ってしまった。会長と書記もじきにやることを終えてしまい、部屋を後にした。

 かなめだけが、一人で作業を続けた。急用ができた林水の代わりに前日に出席した他校との合同行事の打ち合わせに関してまとめる。急いで完成させる必要などなかったのだが、宗介の戻る時間がはっきりしていないので、なんとなく帰宅する気になれず、時間を潰すための口実だった。

 一人になって数分した頃、メールが入った。宗介からだ。

 ──今から戻る。まだ学校にいるのか?

 相変わらずそっけない短文だった。それでも嬉しくなり、かなめはすぐにレスする。

 ──生徒会室で作業中。あと一時間くらいかかると思う。

 ──では学校に行く。待っていてくれ。

 ──うん、わかった。

 やりとりの後、ポケットにつっこもうとしたPHSが着メロを流した。液晶画面にはマオの名が表示されている。

「もしもし」

「カナメ? いまちょっといい?」

「はい、大丈夫です」

「カナメに頼みたいことがあるんだけど」

「なんですか?」

「その……ソースケのことなんだけど……」

 電話の向こう側に言い淀む気配がある。

「マオさん?」

 穏やかな声音で促すと、相手はようやく先を続けた。

「カナメ、ソースケと会ったら、優しく接してやって欲しいのよ」

「どうかしたんですか? 何か失敗したとか?」

「いいえ、任務は成功。でもソースケが……なんだか様子がおかしかったから」

「おかしいって?」

「気分が沈んでるように見えたわ」

「ソースケがですか?」

「ええ。でも、これはむしろ健常な反応なのかもしれないけど。そうね、日本での生活が──というよりもカナメと接していることが、かしら──ソースケに普通の感覚ってやつを少しなりとも取り戻させているのかもしれないわ」

「……あの?」

 かなめはなんと答えればいいのか見当が付かなかった。マオの言っていることが具体的にわからない。いや、言っている当人もはっきりと掴めていないから曖昧なのだろう。

「余計なことかもしれないと迷ったけど、なんだかちょっと放っておけない気がしたのよ。……そうね、彼がなにか言うようなら聞いてあげて、何も言わないなら黙ってそばにいてあげてくれないかしら」

「わかりました」

「それじゃ、あたしはこのまま帰るわ」

「そうですか。今度は休暇にでも遊びに来てくださいね」

「ええ、そうするわ。それじゃ、くれぐれもソースケのこと、お願いね」

「はい」

 電話が切れてからしばらくの間、かなめは先刻送られてきた宗介のメールをぼんやり眺めていた。

「ねえ、早く帰ってきてよ」

 小さく呟いて、PHSをポケット押し込んだ。

 その後は呼び出し音が鳴ることもなく、静かな生徒会室で作業に無理矢理没頭した。なにもせずただやきもきとしているのはイヤだった。なにかに集中していれば、時間は早く過ぎてくれる。

 三十分ほどですべてを終えた。他にやることもなかったので、仕方なく片付け始める。

 紙面をファイリングしているときだった。ドアが静かに開き、待ちわびた彼がようやく姿を現した。

 かなめはやわらかな笑顔を向ける。

「ソースケ、お疲れさま」

「ああ」

 一見したところ、宗介に普段と違ったところはない。それでも微妙に違和感を感じた。

「ちょっと待ってて。これ、片づけたら終わりだから」

 ファイルをキャビネットに収める。

 その作業中、急に背中に重みがかかった。肩越しに見れば、宗介がもたれるように背中に額を押しつけている。

 反射的にハリセンを取り出しそうになった。だがマオの言葉を思い出し、思いとどまる。

「どうしたの? なにかあった?」

「いや、問題ない」

 背中のぬくもりが離れていった。振り返ると、宗介はそばのテーブルの上に座っていた。いつもの背筋をぴんと伸ばした座り方ではなく、どこか力なくうなだれている。

 戸惑いつつ近寄ると、宗介が顔を上げた。

「千鳥」

「なに?」

「もしも俺が──」

「うん?」

「……いや、なんでもない」

 もしも俺が死んだなら、君もあんな風に泣くのだろうか? その疑問が宗介の口から発せられることはなかった。だからかなめには訳がわからない。ただ彼の心が安定していないことだけは痛いほどに感じられた。

 ふいに宗介が片手を伸ばし、腰を抱いてきた。その腕はいつもと異なり強引なものだったが、かなめはされるがまま彼の脚の間に引き寄せられた。しっかりと抱きついてきた少年が、少女の豊かな胸に顔を埋めてきても、抗うことなくそうさせておいた。

「ソースケ?」

 漠然と不安を感じて、ためらいがちに声を掛けた。

「少しの間でいい、こうしていてくれ」

 くぐもった声がやけに弱々しく聞こえた。かなめはなにも言わずに、宗介の頭を抱え込んでそっと髪を撫でた。

 室内は静まりかえり、一切の物音が絶えている。時折、窓の外から野球部の活動する物音や声が届いたが、どこか遠く隔たった場所のように感じられた。

 腕の中の宗介は身じろぎもしない。

 かなめは優しくゆっくりとひたすらに彼の髪を撫で続けた。

 そうしてどのくらいの時間が過ぎたのか。いつしか、生徒会室は夕闇に閉ざされていった。


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揺らぎのブレット 佐倉千波矢 @chihaya_sakurai

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