明里と鳴子
本田そこ
上の空の二人
そういえばその日の彼女は時々空を見上げてぼんやりしていることが多かったなと、後になってからふと思い出したのだった。
***
暖房のよく効いた電車内。
乗客は少なく、時折流れる車掌のアナウンスと鉄の揺れる音だけが響いていた。
年が明けてしばらく経ってからの休日に
互いに少し体重を掛け合いながら、向かいの窓に見える夕暮れの紫が混じり始めた空をぼんやりと眺めている。
雲が全くない晴天だ。
防寒対策バッチリの格好で座っていると、顔からも腰からも、そして二人並んで座っているから横からも暖められて頭がぼうっとしてくる。
だけど眠りに落ちてしまうほどではなくて、ゆったりとした空気に包まれながら線路の上を運ばれていく。
「ねぇ、今日は少し先まで行かない?」
耳元で明里のか細く眠たげな声がした。
すぅすぅとのんびりとした呼吸音が聞こえていたから、てっきり眠っているのかと思っていた。
「なにかあるの?」
「うーん……なにかあるというか、なにもないというべきか……」
「しゃらくさいキャッチコピーっぽい」
お互いにマスク越しの小声を飛しているけど、顔の距離が近いのでなんとか会話が成立している。
「今日はなんか寄り道しときたくて」
「どんくらい先?」
「3駅か4駅だったかな……」
明里が少し顔を上げてドアの上にあるディスプレイに目を向ける。
しかめっ面から察するに、寝惚け眼でぼやけていてあんまりよく見えてなさそうだ。
「多分、4駅先……」
「着きそうになったら教えてね」
「うん。寝過ごしたらごめん」
そうなったらなったでまあいいかもね。
***
いつもの駅を無事通り過ぎ、それから4つ先の駅に到着した。
少し手前の駅までなら何度か来たことはあったけど、この場所に来るのは初めてだ。
電車が止まるや否や、明里は私の手を引いて駅のホームへと降り立った。
がらんとしていて、やけに幅の広いホームにポツポツとベンチが置かれている。
階段はしっかりとしていて、いわゆる寂れた駅というわけでもないようだった。
まぁ、大きな駅からすぐなんだから、利用者が少ないわけないか。
案内板には二つの出口が示されている。
「目的地、どっち口から?」
問い掛けながら明里の方へと向き直る。
しかし、彼女の返事は二択のどちらでもなかった。
「ううん、ここ」
そう答えながら、明里の視線はずっと電車が走り去った方へと向けられていた。
あらためて目をやると、屋根が途切れても無骨で灰色なホームはまだ伸びていて、それを挟む二つの線路がホームの先で束ねられ、更にずっと遠くの方まで続いていた。
「駅に来たかったの?」
「うん」
明里は私の右手を掴んだまま、そちらの方へと歩を進めていく。
手袋をしていないので、身じろぎする度に擦れる指の腹の冷たさがこそばゆい。
こっち側には何もないから、私達二人だけがぽつんとコンクリートの上に置かれている格好だ。
「この前ね、寝過しちゃったことがあって、この駅で降りたんだ」
「ああ、来るの遅くなった日?あったね」
いつもの時間に来なかったから、心配になって電話をかけたことを覚えている。
「ね、あっち見て」
明里は線路を挟んで向こう側へと顔を向ける。
見えているのはとても単純な光景だった。
どこの施設のものかはわからないが、飾り気のない少し背の高い塀が視界の端から端まで続いている。
背の高い建物がないのか、柵の奥には何も見えない。
また、おそらくはそれに沿う形で敷かれている歩道には、葉を散らして細々とした街路樹が等間隔に植えられていた。
明里はしばらくの間、黙ってそちらの方を見つめ続けていた。
視線を捉えて離さない何かが、そこにはあるようだった。
「空が近くて潰されそうだなって思ったの」
ようやく零れ出た声には少しだけ昂揚の色が乗っているように感じる。
ゆったりとした口調ながら、明里は饒舌に言葉を紡いでいく。
「あの塀の向こう側、まるで空が切り落とされているように見えるでしょ?その先にはもう何もなくて、空はこの塀で断ち切られていて、世界の端っこはここにあったのかもしれないって、そんな気持ちに襲われるの」
私の右手を掴む指に少し力が込められる。
たぶん無意識の行動だ。
「そんなときに見上げてみると、足下を断ち切られて支えを失った空が、こっちに向かって落ちてくるような感覚になるんだ」
言葉に合わせて明里は上を向き、私もつられてそれに合わせる。
まっさらで視界を遮るもののない空は、とても近くて重い。
「あのね、もしも駅に誰もいなかったら、多分ここで大の字に寝転がってたと思う」
「え?今はやめてよ?」
「ふふ、しないよ流石に。コート汚れちゃうし」
ついさっきまで買い物を楽しんでいたはずなのに、とても久しぶりに笑い声を聞けたような気がする。
「圧迫感がね、恐くて気持ちよかったの。迫ってくる空に全身をギュッと押し潰されて、自分の身体がここにあるんだってことを強く感じられた瞬間が、すごく好きだったんだ。今は夕方だか少しざわついてるけど、あの日は夜だったからもっと静かで、尚更自分の気配しか感じられなくて」
繋いだ手に力が入る。
私は顔を下ろして明里の方へと視線を向けていた。
「なんか最近身体がずっとふわふわしてて、自分がどこにいるのかあやふやでさ。ずっと会社にいるのにね」
自嘲気味の声色に溜息が付け加えられる。
ふと、明里は時々、私を抱きしめている時ににちょっと痛いくらいに締め付けてくることがあるのを思い出した。
「寝転がったら、この圧力を身体全体で浴びれるんだろうなって思っただけ」
後ろから抱きついてきたかと思ったらそのまま引きずり倒されて、私が背中で明里を押し潰している形になることがたまにある。
掛け布団がわりにでもされているのかと思っていたけれど、もしかしたら目的は重さだったのかもしれない。
「せめてシートとか敷こうよ」
「いいかもね、それ」
明里が顔をこちらに向けて笑う。
あの日、寝過ごしてこの駅に降り立った日、遅れて私の家に来た彼女はいつも以上にずっと上の空だった。この場所で味わった感覚を反芻していたのかもしれない。
「何回か来てるの?」
「ううん、今日が2回目」
首を軽く振って否定してから、明里は私の顔をじっと見る。
「心配しないでいいよ。こういう場所が好きなんだなぁってわかっただけだから」
言われてみて、漠然とした不安が胸の奥に燻っていたことに気付く。意識するよりも先に顔に出ていたみたいだ。
「今日、天気良かったでしょ?電車から外見てたら空がすごく綺麗で、ここもきっといい景色だろうなって。だから寄り道」
マスクで隠れて口は見えないけれど、柔らかい目元で微笑んでいるのはわかる。
そして、明里はさっきまで見ていた方とは反対側に顔を向ける。
「あっちは普通に住宅街なんだよね。マンションとか無いから背は低くて、空がずっと続いてる。その下には、ここからだと姿が見えないだけで人っていっぱいいるわけじゃない?」
少し古めかしいデザインの家屋の屋根がぽつぽつとあれば、町の歴史を長く見つめてきたであろう商店街の建物の片鱗も見える。今の時間ならきっとそれなりの往来があるはずだ。
街中や駅で人混みを行き来していると、ふとした瞬間に、流れていく人の群れの一粒一粒が自分と「同じ」であることを意識してしまい、どうしようもない矮小さを感じることがある。
劣等感とはまた違う、抗えぬ大きな波に身を委ねているような感覚だ。
「それなりにしっかりした場所なんだからさ、周りに人が全くいないわけがなくて、あの塀の向こうだって普通に景色が続いてて、何度も駅を利用する人からすればそこらへんの道と変わらないんだろうけど」
マスクの隙間から、白くなった吐息がほんのりと漏れ出ていく。
明里は再び空を見上げた。
冬の夕暮れは変化が早く、橙の気配はほぼ消え失せて、あと少し経てば黒一色に塗り潰されそうな状況だ。
「夜空の圧を感じて、埋もれてた実体感っていうのかな、自分の輪郭が鮮明になった瞬間が本当に好きだったんだよね。何も見えないから、強制的に独りぼっち。ポツンと取り残されたような感覚」
繋いだままの手を、私は意識してちょっと強く握ると、明里も握り返してきた。
独占欲が発露した自覚はちょっとある。
「だけどちょっと寂しくて、もったいないなあって思ったんだ。それが何なのかなぁって時々考えてたんだけど、今日歩いてるときにわかったの、理由」
明里の目はいつの間にかぱっちりと見開かれていて、私をじっと見つめている。
くっつきそうな近さではないのに、彼女の瞳孔に映った自分の表情が見て取れるような解像度。
「私?」
「うん」
「一緒に来たかったんだ」
「それもあるけど、もっとね、エゴかな」
「エゴ?わがまま?」
「
「それがわがまま?いつだってしてるし、別に全然嫌じゃないよ、そういうの」
「うん。だけどこれはやっぱりエゴ。もっと強くね、私はこう感じた、こう思ったっていうのをさ、ただの情報じゃなくて、全身で感じ取れるような形で鳴子の頭の中に入れておいてほしくなったの」
普段から一緒に過ごしていて、その姿はとうに焼き付いている。
けれど、彼女が今求めるものはそれではないのだろう。
「私と同じ空気を感じて同じような気持ちになってほしかったんだ。私の好きなものをあなたにも好きになってほしい。だから、私のエゴ」
どれだけ親しくなっても同じ人間ではないのだから、同じものを摂取しても異なる感想を抱くなんて当然のことだ。
だからこそ、一致すれば嬉しくなるし、違っていればより深く知り合える。
自分の好きなものを、きっと好きになってくれるに違いないと期待を込めて送り出すのと、これを好きになってほしいと送り付けるのとでは大きく違う。
明里はそれよくわかっているからこそ、自分の行いをエゴと呼んだのだ。
「どうだった?」
「教えてくれて嬉しかったよ」
「全部伝えるのはやっぱり難しいね」
「色々と考えたりはしたよ。それが明里と同じ感覚なのかまだわからないってだけ」
「じゃぁ、あとで教えてね」
***
せっかくだからと駅を出て、二人で町をぶらついている。
さっきまでの神秘は解けて、あっという間に普通の市街地へと変化した。
ホームで立ち話をしていたせいですっかり身体が冷えてしまった。
少しでも暖められる場所がないかと二人で周囲に気を配っていたけれど、勝手のわからない町では何もアンテナに引っ掛からない。
いい散歩にはなったし、そろそろ頃合いだろう。
「ねぇ」
隣を歩く明里に声をかける。
「駅前のコンビニで、おでん買お」
「そうしよっか」
二人とも、冬のおでんは大好きだ。
まぁ、これについてはそうでない人の方が少ないかもしれない。
駅まで戻る道すがら、他愛のない言葉を交わす。
「ちくわぶ残ってるかなあ」
「売り切れてるの見たことないよ」
二人とも、一番好きなおでんの具はちくわぶだ。
関東以外ではちくわぶがそんなに人気じゃないと聞いたときは耳を疑ったものだ。
もちょもちょとした口の中におでんの出汁を流し込むのがすごく美味しいのに、人気がないのが不思議でならない。
コンビニの端っこで、黙々とちくわぶを噛んでいる。
駅からは定期的に人が出てくるし、目の前の道路をたくさんの人が行き交っていく。
見上げれ電線が張り巡らされていて、駅からは背が低く見えた建物も、ここまで近付けばしっかりと壁になる。
どこにでもある、ありふれた町の姿だ。
隣り合っておでんを食べる明里も、同じようにゆったりと視線を上に向けている。
さっきまで駅のホームで滔滔と自分の体験を語っていた彼女は、降り立った今、何を感じているのだろうか。
白い息を吐きながら、私達はぼんやりとおでんを食べている。
上の空ってこういうことなのかなと、なんとなく思った。
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