第5話
西の塔に続く城壁を駆けたが、向こうから兵士たちが駆けて来る姿に、ネーリは身につけてきた三角刃を両手に握り締めて引き抜いた。
彼らがヴェネトの人間なのか、スペインの人間なのかは分からない。柄に力を込める。
スペインの兵は、イアンの背負う責任と、【シビュラの塔】の三国所有、いずれの破壊という理想を体現する為にこの地に赴いた者たちだ。愛する者と別れ、もしかしたら二度と故郷には戻れないかもしれないという覚悟でここに来た。
(僕なんかが、命を奪ってはいけないひとたち)
でも、ヴェネトの人間だって、僕のものじゃない。
ネーリは前方を見据えた。
ちら、と城壁の下を見ると、地上から駆けて来る部隊の姿が見えた。
自分はヴェネトの王じゃない。
王になるのは兄のルシュアンだ。
ヴェネトの兵は、彼の兵。
(それに)
祖父が言っていた。
王は権力を振りかざすためにあるのではないと。
兵は私兵ではなく、王の理想を知り、その為に共に戦う、王の子なのだと言っていた。
だから本当の王の子供も、王位を継ぐ前は戦場に降りて、他の兵士たちに混ざり、同じ扱いを受けて、分け隔てなく戦うべきなのだと。祖父ユリウスは、だからこそ自ら海に出ていた。ネーリのことも伴って、そこにいてくれたのだ。
ネーリは確かに、城下に現われる、横暴な警邏隊を殺している。だが、必ず自分の目で行われている残虐を見ている時だけだ。その時だけ、彼らを『守るべきヴェネトの民』から外している。誰かを理不尽に痛めつけ、罪のない者が彼らに殺されるなら、自分が彼らを消そうと思った。
ヴェネト王宮の正規兵は彼らとは違う。
(ここには僕の手出しできる人は一人もいない)
ネーリは振り下ろされた剣を、宙に返って躱した。
そのまま駆け出し、西の塔に入ると螺旋階段を上る。
「奴はどうした⁉」
イアンが城壁への階段を上がって来る。
「塔の中へ」
「逃げ場ないのに上がったんか。負傷者は」
「ありません。対峙はしましたが、交戦の意志はないように見えました」
イアンは怪訝な顔を見せる。
フェルディナントの話では、警邏隊には容赦なく襲い掛かっていたというし、止めに入ったフェルディナント自身にも、仮面の男は斬りかかって来たと聞いている。
「……そうか。分かった。お前らはここに居ろ。下を見張れ」
塔に入ると、追って入った数人の兵士が階段で蹲っていたが、蹴りや殴打を受けただけで、斬られてはいなかった。
すでにイアンはフェルディナントからの報告で、城下に現われている【仮面の男】は二人いるかもしれないということを聞いている。
一人は神聖ローマ帝国軍の将軍と分かった上でかは知らないが、フェルディナントにさえ恐れも無く襲い掛かって来るような者で、
もう一人はスペイン海軍の駐屯地に堂々と潜り込んで来て、地下に拘留されていた警邏隊三人を短時間で惨殺するような者だ。
剣を構えたまま、警戒しつつ、最上階まで辿り着くと、最上階の部屋に白い仮面の男がいた。イアンが姿を見せると、笑う白い仮面のまま、手にする三角刃の切っ先を向けて来た。確かに、あれも見たことのない珍しい武器だ。
「容赦のない殺人鬼やって聞いてたけど……下の連中に手を出さないでくれたことには感謝するわ。けど、ここで俺とやり合ったら意味ないで。お前がどこの誰かは知らんけど、もう逃げ場はないんや。抵抗せずに捕まったら、お前が城下でなんであんな殺戮しとるかは、話だけは俺が聞いたる。まあ罪の方は殺人が積み重なってるから無罪放免ってわけには絶対ならんと思うけど……」
イアンは剣を構えたままゆっくりと、最後の階段を上がり、同じフロアに立った。その時、意外と目の前の男の身体が小さいことに気付いた。別に身体が小さいから人を殺せないというわけではないが、スペイン海軍の駐屯地で起きた事件は、かなりのパワーが必要とする殺しだったから、目の前の男に出来るとは思わなかった。それにこの体格では、屈強なスペイン海軍の駐屯地ではかえって非常に目立つ。目を引いていたら、紛れ込んで地下牢にまで侵入することは出来なかったはずだ。
(こいつはフェルディナントを襲った奴の方かもしれん)
となると、あの自動弓を装備している可能性がある。
イアンは押し黙る【仮面の男】に、鎌を掛けてみることにした。
「今日もあの妙な武器を腕に仕込んどんのか?」
仮面の下は伺えない。だが、静かな気配だ。
この西の塔の、逃げ場のない最上階に追い詰められても動揺している気配が全く感じられない。
(……確かになんか、こいつは妙な気配や)
対峙してみて、分かった。フェルディナントが遅れを取ったのも、もしかしたら本能的にこの妙な気配に勘付いたからかもしれない。
イアンは構えていた剣の切っ先を下にゆっくり、下ろした。相手の素性も、現れる意味も分からない上、相手は飛び道具を持っている可能性がある為、非常に危険な賭けだったが、彼はそうした。
【仮面の男】は切っ先をスペイン海将に向けたまま動きはない。
「……お前のことは、こっちも相当調べとる。これはあくまでも、俺の考えで言うてることやけど、お前が狙ってた城下町の警邏どもは、みんなクソみたいな奴やった。善良な市民を苛めたり、娼婦をいたぶってたり、有力な貴族の手下みたいに動いてたってことはこっちでも掴んでる。
今、城下を張ってるのは警邏隊やない!
神聖ローマ帝国から来た竜騎兵団の連中や。
国では『騎士の中の騎士』と謳われる奴らやから、警邏隊の奴らを憎む気持ちは同じや。
ヴェネト王宮の連中とも、あいつらは違う。
お前が何か、信念を持ってやっとるなら……。
守備隊の総指揮を執る者として、お前のことは奴らに身柄を預けたる。王宮ではなく。
それで全てが救われるとは思って欲しくないが、お前は今のヴェネトの治安に文句があるんやろ! それなら話は聞いたるから……」
身動き一つしない。表情は完全に仮面の下に隠れている。
イアンは拒絶の気配を感じた。
静かな、だが確固たる拒絶。
自分は紛れもなく手を差し出しているのに、その手を取ろうともしない。
(確かにこいつは、そこらのゴロツキでもないし、単なる反乱分子でもない)
まるで国を背負って戦う、騎士みたいな気配だ。
イアンの心に疑惑が湧き上がる。
「……お前……ヴェネトの守護職の奴か……?」
いきなり風が顔のすぐそばを通り過ぎた。手にしていた三角刃を投げつけたのだ。咄嗟にイアンは身を躱したが、柄に巻いてある紐を引っ張るようにして、投げつけた三角刃が弧を描いて戻って来た。窓に当たり、割れる。
イアンはハッとした。
「待て‼」
遮るものが無くなった窓枠に飛び上がり【仮面の男】はこちらを向いた。
笑う白い仮面が月に静かに照らされている。
ばさり、と身にまとう外套が大きく風にはためくと、男は宙に身を躍らせた。
「な……っ!」
イアンが駆け寄って下を覗き込んだ。
ヴェネト王宮の東西と、南に建てられた塔は見張りの意味を持ち、王宮の塔の中では最も高い。城壁をも超えるその高さから、身を投げた。
湿地帯は今夜も霧に包まれている。
男の姿は霧の中に消えた。
「なんて奴や……」
整然と戦い、
整然と撤退もする。
……命を投げる時すら。
イアンは膝をついた。強い風が覗き込んだ顔に吹き付ける。
「確かに、あれだけ殺しを重ねて捕まれば、死罪は免れなかったかもしれん。でもなんか、信念があって殺しに手を染めとったんやないんか……! それは聞いたる言うてんのになんで命を投げ捨てることがあるんや‼」
窓枠を拳で強く叩いた。
ヴェネトの治安を乱す反乱分子を片付けたのに、少しも喜びが心に浮かばない。理由は分からないが、まるで、国を守る優れた騎士を死なせたような気分になった。
そのまま拳を握り締める。
「……それとも、命を託すものがあいつにもおるんか。自分が捕まって尋問されれば、他の連中にも害が及ぶと思って」
剣を交わしはしなかったが、イアンは向き合った時に感じたのだ。話には聞いていたけれど、あれは確かに相当な手練れだ。気配で分かるのだ。戦いに慣れていて、イアンと一対一で向き合った時も、恐れや動揺を少しも感じなかった。優れた剣を使う者同士は、実際にぶつけ合わなくても、お互いの力量が分かる。あの男の剣の気配は、相当なものだった。
国の行方を憂う、力ある騎士……。
今一番、この国に必要な人間だった。
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