第2話
下にやってきた時、窓から明かりが見えなかったから、今日はネーリは駐屯地を留守にしていることは分かっていたのだが、最近はずっと彼は駐屯地で描いていたので、寝室に入った途端シン……としていて、一瞬もの寂しさを感じた自分に、フェルディナントは少し、笑ってしまった。おかしなことだ。
フェルディナントは常に人が側にいる暮らしをしているから、むしろ昔から一人きりになれる寝室は聖域で心の落ち着くものだったのに、一月で、一人で眠ることが寂しくなるなんて、感傷的になり過ぎだろうと思う。
久しぶりに燭台に自分で火をつけて、ネーリが今手掛けている絵を眺めた。
スペイン海軍の、イアン・エルスバトに依頼された船の絵だ。
フェルディナントの目にはもう完成してるようにも見える絵なのだが、筆の早いネーリがある時から、このほぼ完成形に見える絵を手元において、仔細を直していた。
不思議なことに、日々、絵が確かに変わっているように見える。どこがどうということではないが、海の青や、空の青や、スペイン船の、赤みを帯びた船体の色の濃淡。まだネーリは納得していないらしい。
これはイアンが本国に送ってくれるつもりなのだと、少し話を聞いた。彼は筆不精なので、あまりに便りがなかったり、事務的な報告しかないような文を書くと、王妃である母親が怒るのだそうだ。こんなつまらん手紙なら送って来るなと説教されるため、ヴェネトにいても国への報告書には苦心しているらしい。そこで、ヴェネトにいるスペイン海軍の絵をネーリに依頼したようだ。
父親の国王は芸術には無頓着らしいが、母親の王妃は特に目利きで、自分でサロンを開くほど芸術の見る目が高いらしい。
『緊張するよー』
珍しく、ネーリがそんなことを言って笑っていた。
「だって今まで僕、自分が好きな絵を好きなようにしか描いて来なかったから。素晴らしい芸術を見慣れてる王家の王妃様に気に入ってもらえるかドキドキするよ」
十六歳の少年らしい、素直な言葉はフェルディナントを微笑ませた。そうか、お前でも貴族や王族相手に緊張とか、することあるんだなと言うと「するよーっ⁉」と驚いたように目を丸くしていたのが可愛かった。
もし、神聖ローマ帝国に連れ帰って、宮廷に連れて行けるようなことがあった時は、やっぱり緊張するのかな……と思う。
今の皇帝も皇妃も、非常に温和な人だから、会えばネーリは安心するだろうけど、やはり宮廷画家になったとしても夜会を連れ回すなどというのは可哀想な気がした。
(いいんだ。俺は。ネーリが俺の家に来てくれて、好きなように絵を描いてくれれば)
それだけで幸せだ。
後のことは、彼にどうしたいか聞いて、決めればいい。
最近は街には顔を出しても、干潟の家の方にはあまり帰っていないため、そこにあった大半の絵を、ネーリは駐屯地に移動させた。
絵は、きちんと額に入れて、騎士館の各所に飾っている。騎士たちもこれは気に入っていた。いつまでも仮初の宿のようだった自分たちの騎士館に、立派な絵が掛けられると、気分が違うらしい。まだ飾っていない絵が、この寝室に置かれている。持ち込んだ量が多いから、まだまだある。
壁に立てかけてある絵を部屋の中央に立って、眺めた。
……どの絵を見ても、やはりネーリの気配を感じる。
彼の感性や、美学や、穏やかな雰囲気を。
芸術に詳しい知人の話では、作品は、必ずしも作者の雰囲気を体現はしないらしい。作品と作者のイメージが一致しないことも意外と多いという。だが、ネーリの作品は、ネーリ自身にに非常に似ているとフェルディナントは思う。
美しくて、穏やかで、優雅で、同時に少年のように瑞々しさがある。
干潟の絵がここにもある。
この絵。
ネーリはあの干潟から、ヴェネツィアの街を海の向こうに見る景色を非常に愛しているので、この絵は何度も何度も描いていた。
最初は美しい風景画だな、とそれくらいの認識だったが、ネーリと接するうちに、この干潟の景色に込められた、彼の想いをより感じるようになって、更に愛着が湧いた。
先日、ヴェネトは数年に一度あるという【アクア・アルタ】と呼ばれる高潮に襲われ、国中が水没した。王都ヴェネツィアも例に漏れず水没し、街も大騒ぎになったのだが、『驚き』は、王都の民にはもう無いのだという。
何百年と繰り返して来た歴史があるので、来たか、と思いはするらしいのだが、驚き狼狽えることはないようだ。
フェルディナントはあの時、急いでフェリックスで城下町に向かったのだが【アクア・アルタ】を知らなかったフェルディナント達同様、城下の教会を守備隊本部にしている竜騎兵たちも驚き動揺したものの、周辺に住まう者たちが事情を話し、落ち着かせてくれたのである。
国軍を持たない、か弱いヴェネトの人々と思っていた彼らは押し寄せる水に叩き起こされるや否や、速やかに土嚢などで壁を作り、水を水路に誘導させる道を作った。その団結力たるや、見ていて見事なものだったと街の守備隊本部の騎士達も声を揃えていた。
フェルディナントが波が襲来した時、すぐに王都の街の人のことを考えたことを、ネーリはとても喜んでくれて、彼からするとまず無力な民を助けてやらねばと騎士として、当然の発想だっただけなのだが、自分たちの駐屯地も大変だったのにまずヴェネツィアの街の人々のことを心配してくれた、と優しい声と表情で「ありがとう」と伝えて来てくれた。
(あいつは本当に、ヴェネトという国が……自分の故郷が大好きなんだな)
そこにある景色だけじゃない。
その景色の中に住む者まで、彼は大切なのだ。もしかしたら彼の描くヴェネツィアの街がこんなにも美しいのは、そこに住む者たちを大切に想っているからなのかもしれないとすら思う。画家というのは本当に感受性豊かなものなんだなあ、と改めてフェルディナントは感動した。
(人民まで愛して大切に想う、なんてまるで王のようだ)
フェルディナントは【エルスタル】が消滅するまで、王子として、国民に特別な愛情を持ったり示したりすることが無かったから、一市民に過ぎないネーリが、国に対してこんなに大きな愛情を向けることには驚きがあった。だが確かに、彼らしいとも思う。彼は心の広い人だから、街を描くならきっと表面だけじゃなく、深い部分まで好んでいるのだと思う。
『小さい頃に行った、神聖ローマ帝国の王家の森を描いてみたい』
ネーリがそんな風に言ってくれた時、本当に嬉しかった。彼は好きなものしか描いたことがないと言っていたからだ。
以前は離れて、少しずつ近づき、今は完全にくっついて並んでいるベッドに入る。そうなる前は、そんな結婚もしてない相手とベッドをくっつけるなんてと思っていたはずなのに、今は二人で寝そべると、存外広くて心地がいい。
今日は、一緒に寝てくれる人は留守にしているけど。
ぽふ……、といつもネーリが眠っているあたりのシーツに手の平で触れた。
目を閉じる。
(神聖ローマ帝国では、広いベッドに二人で寝るかな)
ウトウトしながらそんな風に考えて、目を閉じたままフェルディナントは小さく笑んだ。
確かに、いつも一緒にいる彼がいないと寂しく感じるけど、
留守にしているくらいならその寂しさは、愛しく思う気持ちが包み込んで、本当に一人なわけではないと教えてくれる。
乗り越えられない寂しさは心を蝕むけれど、
乗り越えられる寂しさは愛を深めてくれる。
そしてその深い愛は、一人の時では越えられなかった痛みや孤独も、乗り越える強さをくれる。
愛することが出来れば、乗り越えられることも増えて行く。
彼はネーリに出会って、初めてそのことに気付いた。
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