パート6: 「夜景と会話」
「ちょっと、外に出ませんか?」
夕がカウンター越しに声を掛けたのは、店の閉店作業が終わりかけた頃だった。高雄は手元の布巾を畳みながら、ちらりと彼女を見た。
「外……?」
高雄の声には、僅かに戸惑いが混じっていたが、それはすぐにかき消された。
「せっかくの夜景を見ないなんてもったいないでしょ。」
夕は既に立ち上がり、階段を指差していた。その無造作な仕草には、相手の意思を確認する気配さえない。
高雄は一拍置き、ため息を一つついて歩き出した。
階段を上り、屋上に出ると、都会の夜景が目の前に広がった。無数のビルが黒い空に光を放ち、その下を縫うように車のライトが途切れなく続いている。風が肌を掠め、少し湿り気を含んでいた。
「ほら、見てください。」
夕が手すりに手を置き、身を乗り出すようにして笑った。その笑顔には、都会の夜景と同じ無関心の輝きが宿っているようだった。
高雄は手すりに近づかず、少し距離を置いた位置から夜景を眺めた。その目は、ビル群と同じくらい軽やかに立つ夕の背中を捉えていた。
「どうして誘ったんですか?」
彼の問いは、低く、沈黙を裂くように響いた。
「うーん、何となく?」
夕は振り返り、肩をすくめた。その表情には、本当の理由を隠す意図が明確に見えた。
「あなたって、いつもこんな感じなんですか?店の中も完璧、料理も完璧。でも、それで疲れたりしないんですか?」
彼女の声は、軽い調子の中に、どこか真剣さを潜ませていた。
高雄は一瞬だけ目を細めた。そして、静かに答えた。
「自分が好きでやっている仕事に対して、つかれるとか、考えたこともなかったかもしれません。」
その言葉は、彼自身にも初めて触れるような響きを帯びていた。まるで、自らの中の深く眠る真実に偶然たどり着いたかのようだった。
夕は一瞬黙り込み、その顔にわずかな驚きを浮かべた。そして、再び視線を夜景に戻し、ふっと笑った。
「わたし、スイス製の高級時計よりも、安物だけどかわいい時計のほうが大事にしたいって思うことがあるの。」
高雄はその言葉の唐突さに、一瞬だけ彼女を見つめた。
「指し示す時間が必ずしも正確じゃなくっても、そっちのほうがいいって思えるの。不思議でしょ。」
彼女の声は柔らかかったが、その奥には奇妙な重さが潜んでいた。
「こういうのを侘び寂びって言ったら、美化しすぎかしら。」
高雄はその言葉に反応せず、ただ夜景の中に視線を置き続けた。
「……帰りましょう。」
彼は静かに言うと、振り返って屋上の扉へ向かった。その背中は、言葉以上に何かを物語っていた。
夕は笑みを浮かべたまま、彼の後ろ姿を追いかけた。その足音が、都会の夜景と調和するように遠ざかっていった。
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