パート7: 「孤独の深まり」

閉店後の「海松」に戻ると、店内は完全な静寂に包まれていた。厨房の明かりだけが無機質な光を放ち、ステンレスの調理台の表面に微かに映る高雄の影が揺れていた。


彼は調理台に手をつき、ふと目を閉じた。


先ほど自分が放った言葉が、不意に頭をよぎった。確かに、彼の中では疲労という概念はどこか遠いものだった。だが、それは果たして充足を意味しているのだろうか。


包丁を手に取り、何かを切るわけでもなく、その冷たい刃先をじっと見つめる。光を反射するその鋭さは、自身の完璧主義そのものを映し出しているに他ならなかった。


刃をそっと台に置き、カウンター越しに広がる店内を見渡した。整然とした椅子の配置、磨き抜かれた床、無駄のない道具の並び。それらは確かに美しいが、その美しさの奥に、かすかに名状しがたい欠落の感覚が、絶えず心底しんていを苛み、その正体に思い及ばぬまま、息苦しさばかりが募った。


遠くで夜の街の音が微かに聞こえた。それは高雄にとって、あまりにも遠い世界の音だった。


包丁を研ぐ音が再び店内に響き始めた。だが、そのリズムには、わずかに乱れた響きが混じっていた。

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