パート3: 「静寂の中の異物」

夜の「海松みる」は、昼間の市場とはまるで違う空間だった。照明は柔らかく抑えられ、店内は静かに食事を楽しむ常連客たちで埋まっている。高雄はカウンター越しに料理を提供しながらも、表情一つ動かさず、淡々と仕事を続けていた。


その時、軽い足音が階段を下りてきた。入口の扉が音もなく開き、一人の女性が現れた。


夕だった。彼女はカジュアルな装いで、店の雰囲気にそぐわない軽やかさを纏っている。扉の前で一瞬迷うように立ち止まった後、カウンターの端の席に腰を下ろした。


「こんばんは。」

彼女の明るい声が店内の空気をわずかに揺らした。常連客たちは一瞬だけ彼女の方を見たが、すぐに視線を戻した。


高雄は短く「いらっしゃいませ」と答え、手元の仕事に戻る。


「一人でも大丈夫ですか?」

夕が問いかける。高雄は少しの間を置いて頷いた。


「えっと、おすすめってありますか?」

彼女の声は屈託がなく、どこか浮遊しているようだった。高雄は無言でその日の特別料理を指差した。


夕はそれに対して、少し微笑んだ。「じゃあ、それでお願いします。」


高雄は料理を作り始めた。鍋が火にかけられ、包丁がまな板の上でリズミカルに音を刻む。夕はそれをじっと眺めていた。


「ここ、静かですね。」

夕がぽつりと言った。高雄は答えなかったが、その言葉が彼の耳に染み込むのを感じた。


料理が完成すると、高雄は無言でそれを彼女の前に置いた。夕はじっくりと料理を眺めた後、一口運ぶ。


「……美味しい。」

その一言には特別な感情が込められているわけではなかったが、高雄にはそれが妙に引っかかった。


夕はしばらく黙って食べ続けた後、ふと顔を上げた。

「あなた、話すの苦手ですか?」


高雄はその問いに答えず、ただカウンター越しに軽く視線を投げるだけだった。


店を出る時、夕は振り返り、軽く手を振った。

「また来ますね。」


その言葉が、静まり返った「海松」の空間に小さな波紋を残して消えた。


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