第2話
目を開くと大きな金の瞳がこちらを覗き込んでいる。
「フェリックス……」
ここは薪を貯蓄している倉庫である。それが目的というより、場所があったから運び入れたという表現が大きい。
この駐屯地には三十頭の騎竜がいる。しかし本国にはある、屋根のあるきちんとした待機場所がないので、場所を取らないように広い駐屯地の建物の陰や木の陰で外に出されっぱなしになっていた。
竜の外皮は矢や剣も弾くほど硬い。だから熱や寒さにも強い。雨に打たれても何ともないのだというが、濡れっぱなしになってる見た目が可哀想なので二頭か三頭ずつ、分かれて待機している。
フェリックス以外には気安く触ると危険なので、騎士の立ち合いのもと近づくくらいならはしていいが、触らないようにとは言われているが、ネーリはこの駐屯地に来てから早朝、三十頭の騎竜に挨拶して回るのを習慣にしている。
竜は明らかに首を地面に下げて、休んでいる体勢を取ることがある。それでも瞬時に敵を翼や尾で振り払ったりはするので、完全に安全というわけではないのだが、その場合何か言動が気に障ったのであって、その人間が現われてもその体勢でいるということは、その人間自体には気を許している、と見ていいらしい。
最近ネーリが訪ねて行っても、ぺた、と首を下げたままの竜が増えた。見知らぬ人間を特に騎竜は警戒するらしいので、貴方の顔をもう覚えたのだろう、と騎士たちは笑っている。
でも一番、自分に気を許してくれるのはフェリックスだ。
ネーリは身を起こして、フェリックスの身体に寄り掛かった。最近は彼が自分と一緒にいたがったり、甘えたり、嬉しそうにしてる雰囲気もなんとなく、分かるようになった。
今ネーリはこの倉庫をアトリエにして、新しい絵を描こうとしている。大作だ。
道具を運び込み、すでに構想に入っているけれど、それまでフェリックスは倉庫の中より外で風を感じる方が好きらしく、ほぼ外の木陰にいたのに、ネーリが倉庫の中にいると、首をたまに覗かせて何をしているのかな、という感じで興味津々だし、考え込んだままネーリが昼寝していると、目を覚ますとこういう風に、中に入って来て側にいる時がある。
そういう時は、本当に穏やかな気配を彼から感じるのだ。
あたたかいなぁ。
まだ日中は暑さを感じるけれど、フェリックスの温かさはなんだか安心する。
目を閉じると、思索を続けた。
【フィッカー】は彼の考案した武器だから、作ったのは彼か、彼が図面を残していれば、その図面を手に入れた者しかいない。確かなのは彼に関係しているものということだけだ。
彼は一体どこの出身の人だったのだろう、とネーリは考えた。どういう縁で、祖父の船に乗っていたのだろう。船を下りてから、国に帰って彼は幸せになったのだろうか……。
彼ほどの人なら弟子のような人がいてもおかしくはない。
ただ、彼が独自の武具を考案していたのも、全て船のみんなを守るためだった。
ヴェネトという国を守り、退位したあとはヴェネトにも恩恵をもたらす、貿易を行っている祖父の船を、賊から守るために彼は武具を作っていたのだ。
問題は【フィッカー】が殺しに使われたということ。
確かにスペイン駐屯地に拘留されていたものたちは、酔って市民を暴行するような警邏隊だった。誰かに庇護されるべき人達というわけじゃない。
……それでもヴェネトの民の一人だ。
トロイ・クエンティンのあの様子では、ただフィッカーを撃ち込まれて死んだというわけではないようだった。復讐されたようだ、とフェルディナントとイアンが声を揃えたなら、相当酷い殺され方だったのだろう。
ただスペイン駐屯地で起こったことだったら、こんなに気にならなかったかもしれない。
しかしあの三人は自分に絡んでいる所をイアンに咎められ、駐屯地に連行されたのだ。
これは単なる、偶然なんだろうか?
ネーリはもう一度目を開き、フェリックスの胴体に頬を寄せる。
竜の鱗に触れた。
竜は神聖ローマ帝国にしか生息しないので、目にしたことがなくて当然なのだが、遠目に見ると全て濃い灰色のように見えるが、実はかなり個体によって色は違った。
黒に近いほどのものもいるし、濃い茶色っぽく、赤っぽいものもいた。と思えば黒めいているが間近に見ると、鴉羽のように緑がかった黒いものもいて、灰色がかっているものもいれば、少しその灰色が、紫帯びているものもいる。本当に個性があるのだ。
ネーリが駐屯地に落ち着くと、一番最初にやったことが、三十騎いる騎竜の色を、見ながら作って記録を録ったことである。騎士たちはそんなことを気にする人は初めて見る、と画家らしい真剣な眼差しで、竜の色を調べているネーリを笑って見守っていた。
それぞれ個性を元々持っているが、フェリックスは色も特徴的で、灰色がかっているというよりももっと白みを帯びている。個体数で言うと、濃い色をしている方がずっと多いので、明るい色をしていると非常に集団の中にいると目立つ。
薄いフェリックスの鱗は光が当たると美しい貝殻のように虹色に光っている。
(確かに……僕だって、あのままどこかに連れ込まれていたら、あの人たちのことはきっと殺してた)
正体を知られるわけにはいかないし、かといって、この街に住む以上、彼らが腹いせに自分の世話になっている教会を襲うようなことがあってはならないからだ。
ヴェネトの平和を願って、ずっと戦いながら、矛盾はずっと感じてる。
(僕が手をかけてる人だって、ヴェネトの民だった)
結局一人で戦っていたって、一人二人救えても、何も変わらない。
しかし王は違う。
誰かを殺さず、
闇に紛れて襲ったりしなくても、
王都に対して布告を行えば、警邏隊は市民を庇護せよ、とその一言だけで街の空気が変わるはずなのに。
どうしてユリウスの死後、狂い始めている世界に対して、ヴェネト王宮は何も言ってくれないのだろう。手を打ってくれない。
それとも、今回【シビュラの塔】を発動させたことにより、この地に集ったフランス・スペイン・神聖ローマ帝国の三国が、街を守り、海を守り、ヴェネトの治安を回復させていってくれるのだろうか?
(だとしたら【シビュラの塔】はそれを見越して、発動されたの?)
ぐっ、と手を握り締める。
でもそれは。
【エルスタル】【アルメリア】【ファレーズ】の犠牲をあまりに軽んじてる。
国とは本来、自分で自分たちを守る術を手に入れるものだ。
その努力の総意を執るため、その国の王がいる。
三つの国を無残に滅ぼし、力ずくで自分の指揮下に置き、守らせるようなやり方は、絶対に間違っている。そういうことをしたくなかったから、大きな軍隊を持たない国で、ユリウス・ガンディノは在位にありながらも海に出て戦っていたのだ。
ユリウスの死後、発動した【シビュラの塔】……。
彼が生きていれば、そんなことは絶対にさせなかっただろう。
しかし彼の命は永遠ではないから、彼の死後、継ぐ者たちが迷ったり争ったりしないように、何らかの手筈は整えていたのではないかと思う。
でも王都ヴェネツィアは、今は、夜ごと血を流すようになってしまった。
確かにフランス・スペイン・神聖ローマ帝国の三国が、このまま全てを収めてくれたら安心だ。国同士の判断には、必ず打算は存在するだろうけど、幸いにもこの地に送り込まれた三国の総司令官たちは、誰もが若く、自分たちの国を誠実に想い、情けを理解する人だった。
フェルディナント・アーク。
イアン・エルスバト。
ラファエル・イーシャ。
それぞれ違う国の運命を背負っていて、異なる思惑でこの地に集っていても、彼らの目的は破壊じゃない。奇跡的にそういう三人の司令官がこの地に集っている。今なら、ヴェネトの大きく歪んだうねりを直せるかもしれない。この三国の協力があれば、まだ、これ以上の惨たらしい運命は回避出来るかもしれないのだ。
(あの矢を撃った人は一体誰なんだろう)
以前イアンが神聖ローマ帝国軍の駐屯地に来たのはこれが理由だったのだ。
確かに、スペイン軍の駐屯地で、ヴェネトの警邏隊が三人も、惨殺されたなどと街に広がるのはまずい。そのことで、街の守護職であり、今現在警邏隊を管理下に置いているフェルディナントの協力を仰いだのだろう。
あの一件以来、スペイン軍の駐屯地にもネーリは偶然足を運んでいたが、そこは穏やかだった。きっとフェルディナントがその一件は上手く収めたのだろうと思う。
(強いな……イアンも、フレディも……そんなことになってるなんて、あの人たちは少しも顔に出してなかった)
フェルディナントがイアンと協力できる関係にあるから、その一件が騒動にならず、二国の関係性は現在、友好的にあると思っていいはずだ。
ラファエルは平和を望む人だから、王妃とは友好的な関係にあると言っていたが、ヴェネト王宮がもし再度の【シビュラの塔】の起動などに踏み切ろうとすれば、決してそれを善しとはしないはず。
フェルディナントはラファエルに会った、と言っていた。
もし三国が協力し合えば……そう考えて、ネーリは軽率に協力を仰いだために犠牲になった人のことを思い出した。
(だめだ。僕の目には、例え全てが揃っているように見えても、その人たちにはその人たちの運命や、守りたいものがある。僕からその人たちを巻き込むことは、絶対にしちゃダメなんだ)
やるなら、独りでやらなければならない。
そう誓ったのだ。
膝にフェリックスが顎を置いて来た。思いつめていた表情を緩め、ネーリは彼の額に手を置く。
「僕も君に乗って空を飛べたら。今すぐに【シビュラの塔】の許に行って、扉が開いてるかどうか、確かめられるのに」
もう一つの方の手を見下ろす。側の筆を取ろうとして、止めた。
ネーリは立ち上がる。
「……ごめんね。僕少し出かけなくちゃ」
フェリックスに話しかけてから、ネーリは倉庫を出た。
遠ざかってから一度だけ振り返ると、倉庫の中でお行儀よく座ったフェリックスが、金の瞳を輝かせてジッとこちらを見ていた。
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